帰り道の車道は真っ暗だった。夜明けは、まだ遠い。
 骸がハンドルを切り、アクセルを踏み込む。キッ、と、タイヤが軋むたびに綱吉は結んだ両手に力を込めた。時間の経過は癒しになるという。けれど、今は逆だ。あの森の奥深く、遠ざかるたびに死んだ男の姿が脳裏に蘇る。町に帰るのではなくて、罪から逃げるために走っているようで、時折りバックミラーを覗き込んだ。
 綱吉は、蒼白なままで骸を見つめた。平素は多少なりとも笑顔を浮かべているが、今は色もなく感情のない横顔があるだけだ。綱吉が固唾を呑む。
 その音を聞きつけて、骸の青い瞳が綱吉を追いかけた。
 深海に似ている眼差しだ。
 暗くて、光がなくて、吸い込まれそうな瞬き方をする。
 無意識のうちに綱吉は首を振っていた。何を否定したのか、彼自身にすらわからない。骸は、興味がないようで、すぐさま視線を前へと戻した。耐え切れなかったのは綱吉だった。
「む、骸さん!」
「なんですか」
「怖く――、怖くないんですか?!」
「どうして」
 からかいを微塵も含まず、骸が目を細める。
 綱吉は再び首をふった。両手が、頭を抱え込んでいた。
「おかしくなりそうだよ……っ、なんで、なんでこんな……ッ」
 枝葉からすべり落ちて、大粒の雨がフロントガラスに散らばった。
 大雨だ。慎重な手つきでハンドルを操りながら、骸はただ前だけを見つめていた。綱吉が質問を繰り返しても、彼は、面倒そうな溜め息をつくだけだった。
 綱吉が見慣れた景色が広がりだした。並盛町が近い。
「あ……、う」反射的に、口を抑えていた。ガラス越しに、人影を見つけるたびにそうしていた。(ダメだ。さっきのあの男と、歩いてるみんなが、同じものだなんて、思う、と)
 青白い顔に手のひらを押し付け、深呼吸をする。
 そのときになって、骸が口をあけた。抑揚の無い冷めた声色だった。
「君は、どうして僕に骸なんて名前がついていると?」
「か、母さんがつけた……から?」
 陽気にニコリとした後で、骸は嘲笑のために喉を鳴らした。
「どんなバカ女が僕の親だっていうんですか、それ。偽名ですよ。僕の本当の名前は、僕しか知りません。千種も犬も知らない。もともと、エストラーネオにいた頃はナンバーで呼ばれてましたし」
 ギギッ。タイヤが止まり、骸は足元に転がしたままの傘を蹴った。
「どうぞ。降りてください。裏手が君の家だ」
 気がつけば、いつもの帰り道の真ん中だ。
 綱吉はドアノブに手をかけた。が、そのままで動かなくなる。骸が眉を顰めた。
「骸は。リボーン……。いや、じゃなくて」
 声の震えを抑えられなかった。
 綱吉は下唇を食む。麻痺した身体を摘んだように、じんとして、感覚が薄かった。
「ボンゴレが、こんなことやれって言って……?」
 返事に、間が挟まれた。骸は静かに頷いた。
「僕は屍ですから、君の守護者といっても、できることは少ないんです」
「あ、あああの!」
「?」
 僅かに骸が背筋を反らす。
 綱吉は傘を両手で掴んだまま、せきを切ったように声を荒げた。
「イタリア語で雨って何て言うんですか?!」
「はぁ……? いきなり何ですか」
「いいから。知りたいんだ」
 冷たい汗が綱吉の背中を濡らす。
 雨の音が車内に響いていた。訝しむように両目を細めたまま、骸は呟いた。
「piovere――」
 ピオーヴェレ。
 心中で繰り返し、頷く。
「骸のこと、ピオーヴェレって呼んでいい?」
「なぜ」
「……え、と」
 視線が明後日へと泳ぐ。予感があった。むくろ、と、彼の名前を呼ぶたびに今日のことを思い出すのだろう。『骸』とは死者を指すことばだ。(もしかしたらリボーンはワザとやってるのかもしれないけど)
 彼に会うたびに、今日のことを――、死者を思い出すのは辛いものがある。綱吉は拳を握る。
 大量の雨だれがフロントガラスにくっついていた。
「そのほうが呼びやすいから、かな……?」
































 イスに腰掛け、両足を開きながら骸は左耳をさぐった。
 円形のイヤフォンがある。指先で撫でるあいだに、真前で少年がガッツポーズを作った。犬だ。電光掲示板にはストライクの英文字が光る。千種は感慨もなく次のボウルに指を入れていた。
「犬、邪魔。ストライクくらいで喜ぶな」
「んだよー。スゲーじゃん! 三連続だびょーん!」
 カリ。骸が、イヤフォンに爪先をたてた。
(……よし、うまく処理できてる)
 政治ニュースだ。ひとり、海外で行方不明になった外交官がいる。これでいいのだ。骸は満足してコードを巻き取った。――視線を感じて、顔をあげれば、ボーリングのボウルを構えたままで千種が眉を寄せていた。
「骸さま。大丈夫なんですか?」
「何がですか」
「その、……色々と」
 千種というのは、聡明な少年だ。
 骸はクスリと口角をあげた。ふんぞり返った姿勢のまま、イスの背後に回した片腕を手繰り寄せる。千種へと伸ばすと、彼は、大人しく骸へと歩み寄った。
「心配することなんてありません」
 胸に顔を埋めてきた少年の、後ろ頭を撫でる。
 猫のように大人しかった。千種も、犬も、狂犬がごとく荒い一面を持っていることを骸は知っていた。だからこそ、自分は彼らを拾って、彼らも自分についてきたのだ。骸の自負は、確信でもあった。
「いつものように、うまくやってみせます」
 短い。短い黒髪を指で梳いて、骸は目を閉じた。
(彼の髪はこれより少し硬いんだろうけど)考えてみれば、触れたことはなかった。沢田綱吉は引き攣った笑顔で後退る。傘を広げて、震えながら、今にも吐きそうな白い顔で最後の懇願をした。
『いいだろ……? お願いだから』
(僕に四つ目の名前を与えると)
 その意味を考えるなど、沢田綱吉はしてないのだろう。
 骸にもわからないコトではあったが、お互いにお互いだけがわかる名前があるというのは、通常の交友関係では――少なくとも、今までの自分と彼の間柄ではあり得ないハズの決め事だ。
 一つ目の名前は捨てた。二つ目の名前は燃やした。三つめの名前は六道骸で、まだ使っている。思えば、どれもが便宜的につけたものだった。返事の催促が、おずおずとしながら繰りかえされる。
『好きに……、すればいい。誰も文句は言わない』
 あいまいに頷くと、息を呑みこむ音がした。
『あ、ありがとうっ。ピオーヴェレ! また今度な!』
 あの雨の日から、一ヶ月が経った。
 リボーンからの呼び出しはない。あれから、沢田綱吉が熱をだしたことは知っている(千種は独自に沢田家の同行を調べているのだ)。ほとんど一晩、雨に当たっていたことが原因だった。
(何か、救いになるような。何か、死体を埋めたコト以外の事実が欲しかっただけかもしれない。骸という名がイヤだったのかもしれない。死体を見て混乱しただけかもしれない。意味なんてなくて、次に会った時に以前のことを全て忘れてるかもしれない)
 千種の髪を握ると、少年が短くうめいた。
「今日はこのまま帰りますか」
 窓の向こうには暗雲が見える。黒が、灰色と混ざってとぐろを生んでいた。骸の瞳に映る暗色を見つめて、犬もその膝に縋りついた。その頭を撫でながら、脳裏で囁いた。
(雨)「……ピオーヴェレ」
「え?」
 千種が目を丸める。
 少年たちの頭を軽く叩いて、骸が膝を伸ばして立ち上がった。
 物を言わずに踵を返した彼に、千種と犬が顔を見合わせる。ともに、心臓がある場所を手のひらで抑えていた。雨は、五分と経たないあいだに降りだした。

 

 

>>つづく