澱みある夢想をとおって、

 きみはぼくを知らないし、
 そう言って言葉を切る。その人は、振り向かなかった。
 ビルのフェンス。上で器用に仁王立ちして、吹き付ける暴風にも微動だにせず背筋を伸ばしている。バタバタと髪を散らして裾を散らして、少し違う意味でくり返してみせた。
「ぼくもぼくを知らない」
 階段の、いちばん上に立っていた。
 開かないドアに両手をついて、あの人を眺めている。
 ドアの上部には不自然な長方形の穴ができていた。本来ならここにはガラスがあるはず。けれど、そこには何もなくて、その人の背中とフェンスと暗雲を巻く空が、切り取られたかたちで視界に飛びこむ。オレの手は、ツメをたてて引っ掻くみたいに、ひどく不自然な手つきをしてる。
 どうしてこんな手つきをしてるのか、わからない。その人はオレを振り返らないまま肩を揺らした。
「……」声をあげるのが酷くむずかしい。喉が渇いてる。
「だれですか、アンタは」
「きみがきめる。ぼくは?」
「オレが誰かと思うかってことですか。その後姿は、」
 二人。ふたりの人間が脳裏に浮かぶ。ただ、脳裏でふたりの姿が奇妙に重なる。フェンスに立つその人の姿がブレて、二人のどちらでもないような、片方であるような、もう片方であるような、とにかく誰だかわからなかった。その人たちの残像が頭を離れないから、きっと、そうだとは思うんだけど。
「ヒバリさん? 六道、むくろ?」
 クスクスと肩が揺れる。
 その人が振り向いた。顔がなかった。
「きみのうしろにいるでしょう。それ以外の男、」
「――だよ」「――ですよ」
 声が、同時に聞こえた。
 前からと後ろから。扉の向こうと、オレの背中から。
 どっちがどっちかはわからなかった。ほんとうに、一部の違いもなく一緒に流れてきて、鼓膜が前後の判定をし損ねた。後ろから伸びてきた手は血に塗れていた。ヒッと、悲鳴をあげた喉に、指が絡む。喉仏を撫でるような手つきであがってきて、顎を鷲掴みにされた。……後ろの誰かが笑う気配。フェンスの上にいる誰か、顔のとこにポッカリと黒い穴を貼り付けた誰かが、クスクスと肩を揺らしてる。
『どっちだと思う?』また前後から、ぴったり調子をあわせて聞こえた。
『どっち?』『きみは、どっちに生き残ってほしい?』
「あるいは」「二人とも死んでほしい?」
 声が調子を外す。でも、今度は、聞き取れなかった。
 まともな思考ができなくなっていた。なんだ、なんだよコレは。そんな思いでいっぱいで、目の前の光景が理解できない。言われる内容が。ヒバリさん。六道骸。なんなんだ、なんだっていうんだ。
 後ろから絡んだ指は、顎を這いずりあがって咥内に突き進んでくる。
 長方形の、ポッカリあいた窓は黒に塗り替えられた。彼がフェンスを降りて、ちかよってきたのだ。彼は血に塗れた腕をオレに伸ばした。窮屈な穴から伸ばして、両頬を掴む。引っぱられた。
「…………っ」顔のないそいつは悪魔とか、そういう形容が似合う。肌が粟立った。
『呼んで』
『ぼくは、どっち?』
「――――?!」
 口に入った指と、頬を締め付ける指とが、ギリギリとツメを立ててきた。
 顔を顰めるオレに構わず声がくりかえす。どっち、どっち、どっち。どっち?
 どっちも、一ヶ月も会っていなかった。ヒバリさんと骸がオレを挟んで鉢合わせて、帰っていった。
 あれから二人とも見かけなくなった。風紀委員は存亡の危機にたたされてるし、千種さんと犬さんは何度も家にやってきては骸の居場所を訊いてくる。最後に見たのはオレってことになる、けど、一ヶ月前のあの日。
 それから先は、知らない。どうなったかは、知らない。
「どっち?」「どっちだと思うの?」「どっちに生き残ってほしいの?」
 ねえ、と、左右から声がする。後ろの人と、前の人が、それぞれで右と左の耳朶を掴んでいた。
『たぶん、きみが思うとおりになる』
  ――ブツ。全てが黒く染まって、殴られたような衝撃。
  そこで、途切れていた。

 

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