さようならと彼は言った。
 僕は追いかけなかった。彼も追いかけなかった。
 気がついていたんだろうか? 最後まで彼の中にいる僕に気がつかないようだ。それを仕組んではいるのだけど。この体に居着くしかなくなって十年。相変わらず、体に込められた彼の意志はたまに僕を裏切っていた。彼の脳に彼はいない、いるのは僕だ。けれども彼は生きていた。この体に染み付いている。年月と事象とが僕にそれと報せる。彼は生きているのだ。
「聞こえてるんでしょ……って、君相手にはこの口調を保つ意味がないんですけど」
 彼は、僕が憑依する前からアパートで独り暮らしをしていた。両親は遺産を残して死去していた。何から何まで僕にとっておあつらえ向きの人材だった。ただ一つ、あのボンゴレとの濃密な接点を除いて。
 時計が約束の時間に近づく。彼はイタリアに旅立つ。僕は追いかけなかった。彼も追いかけなかった。今日まで彼は。この体は少年に対してだけは反応をしてみせたというのに。
「いいんですか? 取り返しがつかなく、なりますよ」
 無味乾燥の白壁の中で全身鏡が際立つ。
 これは僕が購入したものだ。数年前だったか。
 生きているらしい彼をからかうつもりだった気がする。
 雲雀恭弥は表情もなく佇んでいた。肌の白さと切れ長の瞳。額をつければ、ただ鏡は冷たかった。
「さようならと、そう言ったんですよ。あと数時間で会えなくなるんですよ。君は、本当に追いかけなくて」
 追いかけなくて。(追いかけなくていいんですか?)この体の少年への執着を思うと意外だ。ずいぶんと。この体が少年を手放すなどありえないとさえ思っていた。どうせ、僕が彼の誘いを断っても『ヒバリさん、イタリアに来てください』
『……は。いやだよ。僕がそうゆうの嫌いだって、知ってるだろ?』
 腕がまた勝手に動くものだと。そうして彼と離れずに終わるだろうと。
 だのに体が動かなかった。少年が驚愕の瞳で僕を見下ろす。そのうちに彼は震えだして、アパートをでていった。僕は取り残されて自分の体をまじまじと見つめる。どうして? と聞いても応える声がなかった。戸惑う僕に反して少年は迅速だった。どうやらギリギリで僕に声をかける決意を固めたらしかった。次に顔を合わせたときには。突然に泣き出して、ただ『さようなら!』とだけ叫んで逃げていった。
(どうして追いかけなかったんですか?)放っていても追いかけ続けて来たのに。どうして。どうして肝心の場面で。ぐるぐる巡りだした思考が頭痛を呼び起こす。
 彼の行動に期待していたと気づかざるを得なかった。屈辱。屈辱? もっと重い。
 存在の否定とでもいうのか。頭を鏡につけたまま沈黙すると、秒針の進む音が。カチコチという音だけが聞こえてくる。そう、本当に時間はないのだ。少年が行ってしまう。薄目を開ければ雲雀恭弥と目が合った。黒目。前のオッドアイとは違う瞳。知らない男のようだ。前の体はもう腐っただろうか。久しぶりに完全な転生を完了して元通りに蘇った身体。僕の本当のいれもの。
 もはや僕にはわからない。あの小さなボスを追いかけたいと思う。
 わかってる。ボンゴレに入ればアルコバレーノに正体を暴かれてしまう。できない。ましてや僕が自らの意思で出向くなど。でも追いかけたい。これは誰の意思だろう。僕の意思か? 彼の意思か? わからない。そもそもどこに境界線があったと言うのだろう。
 どこに。どこからどこまでが僕の意思だ。どこからどこまでが彼だ。どこで勝手に動いていた。
 あの少年を引き寄せて抱きしめて口付けて、それをしたのは僕でもあったのに。
 すべてがあやふやになりつつある。ぼんやりと自覚する。
 鏡の黒目は淀みを濃くして恨めしげに僕を見つめる。そう、恨めしげに。僕は君がうらめしい。もうわからないじゃないか。ただ時間を止めたい。もしかしたら巻き戻したい。ただ行かないで欲しいと思う。 ただ。ただ求めてる。求めてることが恨めしい。君がうらめしい。全部が君のせいだ。鏡の顔を何度か殴る。どうして。
(どうして追いかけないんですか!)バリっと酷い音がして拳に鈍い痛みが走る。追いかけようか?
 すとんと頭に落ちた声音。……初めて声が聞こえた。
(追いかけようか?)
 酷いと思う。ただ呪わしい。あと彼に会いたい。頷いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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