光覆の足跡 5.

 

 

 

2.
 空港での一件はヤクザの抗争として報道された。
 千種と犬はうっすらと骸の行動を理解した。二週間のあいだに連絡はない。が、少年は、帰ってくるなり件のヤクザ組織壊滅を命令したのだった。「ボンゴレとは無関係を装ってくださいね」
「いいんですか? 友好関係にあると思っていましたが」
「恩着せがましいんですよ」
 出かけには持っていなかったアタッシュケースを携え、さらには黒いスーツを着込んでいた。
 扉を閉めて午後の日差しを遮るが、その前にさっとリボーンが屋敷へと足を踏み入れた。
「ツナは?」
「だしますよ。待ってください」
 千種が眉を顰める。事態が急転したことだけは感じ取れた。玄関先にいるままで、アタッシュケースが開け広げられた。イタリア語の文書を束ごと千種に手渡していく。
「こういうことになりました。読んどいてください」
 するりとタイを外す。すぐに千種は目を丸めた。にやりと少年が笑う。
「総て事実です。面白いでしょう?」
「はん。悪趣味だぜ。胸糞がわりぃーよ」
「どうとでも。あなたにしてみれば、地下で綱吉くんがグチャグチャにされてるよりはマシな状況だと思うんですが? それとも、そうした彼を想像するご趣味でもお持ちですか」
 無言でスーツ姿の子供は拳銃をとりだす。骸が笑った。
「VXをばらまいちゃいますかね」
「っち……。テメェはろくな死に方しねーな」
「彼ら、よく骸様に従いましたね」
 忌々しげにリボーンが舌を打つ。
「さすがに綱吉くんの命が惜しいんでしょう」
 けろりと笑い飛ばし、アタッシュケースを千種に預ける。
 取り出した紙袋が手にあった。短い言いつけを残して、少年は地下室へと足を向けた。
 殺気のこもった眼差しが背中にかかる。リボーンだ、が、気にすることもなく階段をくだり、地下牢を前にした。鍵をまわす感触は数ヶ月ぶりにも思えた。カチリと、音がして内側に開く。
 セメントを塗りつけただけの壁が少年を囲っていた。
 殺風景なものだ、骸がいないのをいいことに綱吉が外していた。
(目を離すと、これですか。あとでおしおきですね)
 少年はきちんとした衣服を着込んで背を丸めていた。部屋の隅だ。瞳には意思があった。
 二週間は、彼にとっては快適なものだった。精神的にもいくらかの安定を取り戻したよう骸には見えた。
「綱吉くん。おかえりの挨拶もないんですか?」
 だが、骸の口から紡がれる言葉は意外なものだった。少年は息を飲む。
「オレが……ボンゴレ十代目で、獄寺くんとヒバリさんがイタリアにっ?」
「六道骸はボンゴレ十代目の右腕です。というわけで、十代目をここからだして差し上げますよ」
「なっ……?!」驚愕で固まった数秒のあとで、綱吉は固唾を飲んだ。
「どういう風の吹き回しですか。目的はなんです? 獄寺くんたちに何をしたんですか!」
「おや。ハナから疑われるとさすがに僕も心を痛めますよ」
「む、むくろさんに心なんてあったんですか……?!」
「おやおや」愉しげに口角が吊り上がる。
「今のは、暴言としてカウントしますよ。僕だって生きてるんですから心の一つやふたつ」
 あっけらかんと言い捨て、きょろりと見回す。ふたつはおかしいと綱吉がうめいた。
 赤いトランクは入り口の隣で横になっていた。
「僕のとっておき、乱暴に扱わないで欲しかったんですけどね。君が空港に持っていかなかった時点で諦めてはいましたけど」近寄り、ニンジンのマスコットを取り外す。愛しげに親指でふさふさした部分を撫でた。
「彼らは自分からイタリアに行ったんですよ。十代目の為にそうしたといった方がいいかもしれませんが」
「どういう……意味ですか」
「これ、何に見えますか?」
「? ただのニンジン……じゃないですか」
 歩み寄るオッドアイに舌を噛みつつ、油断のない眼差しを向ける。
 骸は腰をおろし、数十センチの距離を空けて綱吉と向かい合った。ぶら下げたニンジン型マスコットの、葉の付け根の部分に人差し指を突き立てる。
「ここに穴がありましてね。そうするとほら。こんなのが入ってます」
 薄ぺらい金属の板だ。
「VXガスをご存じで?」
 綱吉は首を振る。色違いの瞳が奇妙な明かりを灯していた。
「五十年も前にイタリア軍が生成した神経ガスです。皮膚に触れただけで筋肉が弛緩し窒息に至る。殺傷能力は高くココにこめた微量であってもこの周辺の生き物を丸ごと殺せますね」
 返す笑顔は不吉なもので溢れていた。綱吉が目を見開く。そうしたものが、簡単にそこらに転がっていたとは思いもしなかったのだ。蒼白の顔色は骸の気にいるところらしかった。
「土地も閉鎖されるでしょう。金属片は、特殊信号を受信して噴射口を開きます」
 いつでも綱吉を殺せる状態にあったのだ。固まる少年に目で笑いかけ、紙袋に手を入れた。
 オレンジの首輪があった。シンプルで、細長い。真っ暗になったような錯覚が綱吉を襲う。
「あの二人、ガスのことを話したら顔色を変えてイタリアに行ってくれましたよ。おめでとうございます、ボンゴレ十代目。あなたはすでに頼もしいファミリーを手に入れてるということです」
 綱吉がふるえる。彼が動く前に、骸が静かに宣言をした。
「暴れないでくださいね。ヘタしたら、ガスが漏れますよ」
(そんなヤワな秘蔵品じゃないですけど)クフと内心で嘲笑った。
 喉を引き攣らせ、綱吉はかたく両目を閉ざした。
 逃げられない。その言葉が何度も胸中を往復する。
 覆しようのない事実となるのだ。か細く震える睫毛を眺めつつ、骸が紙袋からドライバーを取りだす。首輪の裏側に金属板をとりつけた。両手の人差し指と親指とで生地を挟み、ピンと伸ばしてみせる。
 無造作に綱吉の腕へと押し付けた。
「うん、色は映えますね」
「な、で。ニンジンばっかり……っ」
「ウサギさんはニンジンが好きなものでしょう。君だって生でも食べてるじゃないですか」
 端にアクセサリーヘッドがつけられていた。一センチより少し大きい程度で、銀のニンジンだ。
「特注品です。デザインはもちろん、裏には極細の鍵もありますし、リードも取り付けられますし、皮もとても丈夫ですし、刃物を使っても簡単には切れないでしょう。十代目の首を傷つける確立のが大きいですからね」
 瞬間的に駆け抜けたものは、生理的な嫌悪というよりもっと根源的なところから湧き出る危機感だった。
 ともすれば意識をシャットアウトしてしまいそうな、壮烈な目眩として綱吉を襲っていた。そうした葛藤を透かしみるようしながら、骸の唇が笑った。笑んだそのままで、オレンジの皮を綱吉の顔面に掲げる。
「さあ、首をだしてください。巻いてあげますよ」
「…………っっ」
 骸は動かない。シィンとした沈黙は数分にわたって続いた。
 汗でびっしょりになりながら、綱吉は骸の前でうな垂れた。
 腕を伸ばし、スルとうなじを掠めて首輪を差し入れる。
 ちゃきちゃきと。金属の擦れ合う音がつづく。不意に聞こえた響きの異なる音色は、鍵を閉ざしたものだろう。指が首の後ろから抜かれても綱吉の呼吸が荒いままだった。はあっ、はあっ、とひびく声音は情事のあとのようで、骸はこの二週のあいだ彼に触れていなかったことを思い出した。
(ガスって。いつか、オレ、殺されるのか……な?)
 首がグイと引かれた。骸が首輪に指をいれて引っ張ったのだ。
 前のめりになった少年を受け止め、骸は小さな鍵をポケットにしまいこんだ。その唇を辿る。額を数ミリを離しただけの位置で口角を吊り上げた。色違いの瞳が銀色のニンジンを見下ろす。
「似合いますよ。 憎くて可愛い僕のウサギさん……、ですね?」
 底の見えない眼差しが至近距離で綱吉を射抜く。肌がピリリとした電流に苛まれた。
 心臓をあらぬ方向に跳ね飛ばしながら、迷いのこもった眼差しで俯く。骸は肯定と受け取った。
「面白いでしょう。無残で惨めで哀れで屈辱的でゾクゾクする構図じゃないですか。あのボンゴレがたった一人のか弱いペットに。僕のウサギに統治されることになる」
 見下ろす瞳にはドロリとくるものがあった。いつぞやに過ぎった思考がせり上がる。
(今だけ浮き出てるものなのか、気がつかなかっただけで前からあったものなのか)
 囁く声がした。『君は逃げられません』『僕が刻み付けた足跡がありますから』、骸の瞳には色があるはずなのに真っ黒に見える。綱吉の瞳からポロリと涙がこぼれでた。
 わずかに活目させたが、しかし骸はうっとりと目を細めた。
「でも、そうですね。二人きりのときには綱吉くんと呼びましょうか」はむ。下唇が食まれ、そのまま深く咥内を貪られる。首輪を引っぱられて頭を寄せられていた。
 絶望に涙したまま綱吉がうめく。口付けの合間を縫ったので、とびとびだった。
「む、くろさんは。オ……レ、を、人形みたい。に。した、いんですか……?」
 骸の動きがとまる。片方だけの眉が怪訝に顰められた。
「逃げられないのは」言い切るとクラリと目眩がした。
「……わかりました。でもオレはどうすれば良いんですか。毎日みたいに半殺しにされてるのにどうしろって。ムリですよ。オレ、そんな。そんなに、強く……ないです」
「半殺し? ――ああ、君を抱いてることですか?」
「……――――」
 こくこくと首が頷く。
 少年の笑み方に色が混じる。
 情事の最中を連想させるようで綱吉が奥歯を噛んだ。
「前も似たようなことを聞いてきましたね。僕はしたいようにしてるだけですが」
「オレには。つ、つらいだけです。いやなんです。二週間前のだって、ほ、ほんとうに」
 くっ、と骸の喉が鳴った。「メンタル的なものが君にはよく効きますね。僕はメンタル的に嬲るのが一番好きですよ。相性がいいじゃないですか」
「やめてくださいっ……。そういうの聞くとこっちまで頭がおかしくなりそうで」
「クフ。でも、なりきれない。綱吉くんはそういう人ですよね。そういうところ好きですよ。ふつうなら殴るくらいで済ますんですけど、君の場合はボンゴレ十代目だっていうんですから。少し前まで大嫌いでした」
「今でもオレを嫌ってるじゃないですか」
「ええ。嫌いです。ボンゴレも嫌いですよ」
 それなら。開いた口が貪られ、綱吉が鼻でうめいた。
 ガクと力の抜けた体を支え唾液で濡れる唇を拭う。骸に笑みはなかった。
「ものの考え方が違うんですよ。好きとか嫌いでなくて。執着したものは二つと言いましたね? 片方は動物でしたが片方は十代目という概念で、あとはどうでもよかったんです。でも綱吉くんはそこに引っかかる。十代目として僕の視界に入ってきた。今にして思えば、それって防ぎようのないことでしたよ」
 腕の中で少年がうめく。ぜえぜえと彼が息を吸う音がした。
 そういったものは在らぬものを骸に連想させる。首輪の上から首筋を舐めた。
「……綱吉くんとやるときが、いちばん熱が篭って愉しいですよ」
「ぐっ……!」首輪を引いて手繰り、唇を近づける。
「耐えてください。傍らで、綱吉くんが耐えて耐えて耐えていこうとする姿を見てますから。それで端からひっくり返して差し上げますから。そしたら、また耐えてくださいね」
 啄ばむようにしながら繰り返し、しかし骸の手のひらは毒のこもった首輪を握っていた。
 絞められた首筋で肌が引き攣り、いくつもの線が走る。
 ぶらぶら揺れるのは銀のニンジンだ。
「僕はですね」
 頬が僅かに赤らんでいる。
「ウサギが好きなんですよ」
 ニコリとした満面の笑みがあった。唇が離れたのちも縛めは緩まらない。
 綱吉が目を白黒とさせる。すぅと目を細めて口角をあげた。
「ボンゴレ十代目の主人は誰ですか、綱吉くん?」
 威圧をこめた、有無を言わせぬ口調だ。
 色違えの瞳には、幽静としていながらも燃えるような光があった。
「……ぅ、……ぐッ」ギリギリと首輪がしまる。
 流れた涙は生理的なものか心理的なものか、骸には判断がつけられなかった。綱吉にもわからない。ポトリとカーペットに落ちてシミを作る。その頃に、うめいた。
「……――骸さん、です」
「綱吉くんの主人は?」
「……それも、骸さんです」
「そうです……。いい子ですね」
 あやすように額へ口付け、後頭部を撫でる。
「リボーンが待ってますから、行きましょう」
 首輪を引いて立ち上がらせた。
 子供は、玄関の扉に背中を預けていた。
 綱吉が目をまたたかせる。肩を強張らせた。
「……リボーン……、二週間ぶり、だな」
 ニンジン付きのそれを一瞥するも、彼は一言だけを述べた。
「また、お前の家庭教師だ。よろしく頼むぜ」
 一瞬、呆けた顔をしたが。 ボンゴレ十代目に戻ったというのは、そういうことだ。
 パッと顔を輝かせる綱吉を見届けたのち、骸が上階へ足を向ける。
 小さくうめいて、リボーンと骸の背中とを見比べた。リボーンのところに行くのはあまりに簡単だ、が、首輪に仕込まれたものがある。駆け出すことができない。
 リボーンは、ふっと綻ぶように笑った。
「行けよ。怒りゃしねーぜ。今日はこれで失礼する」
「そんな……」引止めをかけようとして、そうしたところでどうにもならないと気がつく。
 目で頷いて、綱吉は骸を追いかけた。
 背中で リボーンが片手をあげた。
「チャオ」
「また。またこいよ、リボーン!」
「放っといても来ますよ。家庭教師なんですから」
 呆れたように骸が呟いた。
 

 

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