光覆の足跡 4.
3.
「っあ。はあっ!」
五階までのエスカレーターを駆け上がり、両膝に手をついた。
買い物客が不審の眼差しを注いだ。騒ぎを聞きつけていないのか、五階には俄かな観光客が残っている。
一階からでるつもりだった。しかしエスカレーターの前には警備員が集っていた。幸いにも発見されなかったが、その場に留まるわけにも行かず上へ逃げたのだ。綱吉は頬を伝うものをゴシと拭った。
(どうしよう。どうやってでれば?)
(考えろ。リボーンならどうするか……!)
踵を返し、しかし階下から届いた悲鳴に足を止める。
ガンガンと酷い音がした。誰かが駆け上がっているのだ、深く考える前に脂汗が滲みでた。
強烈な熱を額に感じる。肩越しに振り向いたまま動けないでいると、オッドアイの少年が姿を見せた。
視線が瞬間的に交差する。彼は目尻だけでニコと微笑んだ。そうしながら段上の少女を突き飛ばしトランクを踏みつけ数段をまとめて飛び越える。考えるよりも全力で駆けだしていた。
ハァッ、ハァッと、本格的に走る前から呼吸が荒くなっていた。
「なっ、で、オレなんかに……っ」
酷い怖気で背筋が戦慄く。竦んだ足がもつれそうだった。
「十代目になるのが目的じゃないんですか?!」
「走りながら喋ると体力を消耗しますよ」
すれ違う人々は一様に目を驚かせて少年たちを振り返る。
フロアを横断し、やがて綱吉は業務用のスチール扉を見つけた。
逡巡は一秒を切っていた。扉を開ければ同じくスチール製の階段がある。二段飛ばしに駆け上がる背中を骸が三段飛ばしで追いかけた。距離は見る間に縮まっていく。長らく続いた監禁生活のため綱吉に体力らしい体力はない。目眩と頭痛と吐き気のなか、気合だけで駆け上り、その気合が潰えようとした時に階段が終わった。アルミの手触りがする扉を、倒れこむようにして開け放つ。瞬間的に息を飲んだ。
「……――――っっ」
一面に青が広がっていた。
穿きだしのコンクリートの上にヒートポンプが並べられている。
その後ろで大量のファンが回転し、さらに遠方にはぐるりをフェンスが取り囲むのが見えた。僅かな人影に心臓が跳ねる。あちらが見学用のスペースなのだろう、しかし、そちらへ走る前に、背後でガンとスチールを踏み鳴らす音がした。
「っっ!!」
転がるように、綱吉はフェンスとは反対の方向へ駆けだした。
「自ら袋小路に飛び込んでくれますか。助かりますよ」
両者共に肩で息をしているが、どちらに分があるかは明白だった。
脳裏にリボーンが浮かぶ。ディーノが浮かぶ。獄寺隼人が浮かぶ。ヒバリが浮かび、拳を握り締めた。
「なんでですか! オレなんて……っ、もう利用する価値もないでしょう?!」
視線だけを寄越して、骸が扉を閉めた。表情も変えずに大股で少年を追いかける。
行き着いた一角には腰の長さまでの低い鉄柵があった。柵に背をつけ、骸と対峙する形になりながら絶叫した。「来ないでください!」
すぐ背後で風が荒む。心臓が裏返りかけていた。
「きっ、来たら飛び降りますからっ!!」
「ここからなら確実に死にますよ」
「本気ですっっ!」
骸の目がすぅと細くなる。
平然とした面持ちのまま、迷いもなくつかつかと歩みを進める。
「ちょっ――」
予想と大幅に違う反応だ。狼狽が表にあふれた。
慌ててフェンスを乗り越えるが、飛び降りを決意するどころか、両足をだしたところで腕を掴まれた。肌が食い込むほどの握力で、もう一方の手は背後から顎を鷲掴む。無理やりに顔を上向かせられた。
オッドアイは、瞳孔を開いて静かな炎を滾らせていた。
「許せませんね」
呟いた声は氷のように醒めている。
「むくろさ……ん。放し」
「綱吉くんにはもはや自ら命を絶つ権利はないんですよ」
背筋がふるえる。まだらに黒いものが手足に絡んだようだった。
刹那に浮かんだのは、地下牢での記憶だった。敷かれたウサギの毛皮に身体を横たえる、その度、自分が壊されていくかのような錯覚で身震いがした。ニンジンのマスコットが怖かった。左右で色の違う瞳がぎらぎらした光を宿す。薄く笑んで侮蔑を吐きながら六道骸が圧し掛かる。壁一面に張り出された痴態の数々、たち込める苦痛と快楽と死の香り、手足に嵌められた手錠――。
「……――――っっ!」
首筋にかかる吐息に、ゾッと肌が沸騰した。
衝動に突き動かされ、渾身の力で骸の腕を振り払っていた。
視界が大きく揺れる。脳のオーバーヒートと肉体の疲労と、すべてが限界を過ぎていた。よろめいた少年の左足はコンクリートを踏み外した。身体が傾いた。
足元から風が噴きあがる。
魂すらも攫っていくかのような錯覚がした。
その錯覚は現実味のあるものだ。十数秒で地表に叩き付けられるのだ。が、ガクンとした衝撃で落下が止まった。頭上から苦痛に喘ぐようなうめき声がした。
「……骸さん……っ?」
両手で綱吉の右手首を掴み、眉間に皺が寄せられていた。
フェンスに深々と胸を食い込ませている。落下を止める間際に思い切り打ち付けたのだろう、歯を食い縛ったままで骸は少年を引き上げた。フェンスの内側に無造作に放り投げ、自らは胸を抑えて深呼吸を繰り返す。
「っ、ハぁ、――」
綱吉は動けずにいた。
勢いを余らせて転んだまま、上半身だけを起き上がらせ骸を見上げる。
全身がドクドクと脈打っている。ゲホっ。ひときわ大きく堰をついた後で、骸が口角を拭った。
「死んだ程度で逃げられるとお思いですか!」
「どう……、して」
骸の眉が吊りあがる。
あからさまな怒りに息を飲む綱吉だが、さらに骸は嘲るように口角を折り曲げた。
「疑問だらけに質問だらけですね」突き放すような早口だ。
「殺すつもりがあるなら最初からそうしています。実際に君が死んだとしても」
綱吉は眉を顰める。一瞬だけ、骸が瞳を迷わせたよう見えた。
「……食べてあげますよ。綱吉くんは、僕の中で僕と共に生きる」
歩んで距離をつめた。綱吉の逃亡を阻むように両足で腰を挟んで跨いだ。跨いだままで膝を落とした。色違いの瞳にあるのは、咎めるというよりは縋るような色合いだった。
「もしかしたら、……その方が、ずっとマシだと思わないこともないんですから。君が同じところに堕ちるのを願うより確実じゃないですか。そうです……。あなたが本当にウサギならば……」
(な、何を言ってるんですか)
綱吉は内心の驚嘆を隠し切れなかった。骸は理解を求めてはいなかった。
「そう、まさしく僕にとってウサギであるなら同じ結末になる」
身体を近づける少年に、来るなと叫びだしたい衝動が走る。
「本当にウサギみたいですよ。今の綱吉くんは目が赤いですから」
頬に残る涙のあとを見つめ、少年の背中に腕を伸ばす。後頭部にも片手を回し、綱吉の顔を自らの肩に埋めさせた。「僕は、赤いの片方だけですから……」
「やめっ。お、おれがペットだって言いたいんですかっ?」
「違いますよ。綱吉くんは人間でしょう?」
身動ぎしようとしたが、後ろ頭を抑える手のひらが許さなかった。
「だからウサギのように一人で死ぬことも許しません。総ては僕が決めます」
いっそ恐ろしいほどにあまい囁きだった。手のひらが勝手に拳を固めた。
「ついてきてもらうと、いつか言いましたね。悩むほど気をかけたものは今まででふたつだけなんですよ。あの生き物とボンゴレ十代目……。今のあなたはボンゴレ十代目でもないしボンゴレの候補ですらありませんが」
突き飛ばせと、脳から発信する信号を身体が全力で拒否しているようで、指先だけが戦慄いていた。見えないもので心身を縛り付けられたかのようだ。恐怖ととてもよく似ている。けれども、正確には、何が自分を縛り付けているのかわからなかった。骸が薄く肩を笑わせた。
(この人にはわかるんだ)
絶望じみた黒色が胸の真ん中を蝕む。
新たな涙が頬を流れ、骸の肩口を濡らした。
「…………」ぎゅうと縛める圧力が大きくなる。綱吉は抵抗を止めた。酷い絶望が、少年の身体を無気力と言う刃でズタズタに引き裂いていた。もはや血も流れない。
骸は少年をコンクリートへと引き倒した。胸を辿り、自らの胸にも手を当てる。
「先程のは、なかなか効きましたよ……。飼い主を煩わせるペットにはお仕置きをしなくてはいけませんね」
からかうように言い捨て、綱吉に跨ったままで目鼻に触れ唇に触れる。確認するような触り方だった。
「君は九代目と似ていない。今朝、彼から電話で言われましたよ。ボンゴレ十代目と認めてくれるそうで……。僕を、息子だと。あの声で言われた途端に鳥肌が立ちました。あまりにおぞましくて。僕はそんな言葉を望んでいたわけじゃない……。綱吉くんは、十代目になるのが目的かと問いましたね?」
内ポケットから取り出されたものに、綱吉は目を丸めた。航空券だ。
バサバサと風ではためくチケットを骸はあまりにおざなりな手つきで空へとかざした。闇が闇を憎むこともあるのですよと、淡々と告げる。「一生をかけて彼らを後悔させてやろうと思いました」
「あの女とボンゴレの男が僕を奈落のなかに生み落とした」
見下ろす両眼に淀みはない。
「ボンゴレへの復讐が僕の総てです」
しかし暗鬱とした漆黒があった。深々と。どうしようもないほどの根深さが見て取れた。
ひときわ強い風が吹く。綱吉は目を見開かせた。骸の背後を、ジャンボ機が横切っていた。ゴォオオと大気を轟かせながら、上を目指して伸び上がっていく。
乱れた気流が少年二人にふりかかり、袖や頭髪を大きくはためかせた。
その最中で骸が指先から力を抜いた。
「……っ?!」
「だから。少しだけ違ったんです」
四枚のチケットが、散り散りになりながら遥か上空まで吹き飛ばされていく。
飛行機が去り行く方角と同じだ。見る間に小さくなるジャンボの後姿を見つめ、骸が呟いた。
「また、あの屋敷に戻ろうとは考えていなかったんですけどね」
つづく
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