光覆の足跡 2.
2.
台所には千種の作ったスパゲッティがあった。
食べ終えた頃に、当の本人が現れる。いくつか言葉を交わし、骸は自室へと赴いた。寝室とは別の部屋だ。
一直線にデスクへと向かい、上に折り重なった書類をバサバサとはためかせる。
探すのは長方形の封筒だ。日本にいる間に引き受けた些細な仕事の数々――といっても暴力団の助っ人や殺しの処理など、ろくなものではないのだが――、それらの集大成がつまっているものだ。
「見当たりませんね」ややおいてから、呟いた。「すぐ持っていけるようにココに置いておきました。盗むような馬鹿もこの屋敷にはいないはずですし」
「犬のバカが……。封筒ごと持っていった可能性は」
「ああ、その馬鹿ですか。ありえそーですね。ひとまずは千種が支払っておいてくれますか? 後で犬でもしめあげて、見つかったら立替代をだしますよ」
「わかりました。……では」
部屋の入り口で千種が頭をさげる。
肩には横長のボストンバックだ。外出の準備は完璧である。
帰国の前に秋葉原へ行き、レアな電気製品を購入したいと言い出したのが発端だった。電気大国日本のウワサは骸も聞いている。千種の要望を止める理由もなく、いそいそと出かける後姿を見送った。
明後日には出発である。
千種も犬も、各々の方法で日本に別れを告げていた。
告げるものが何もないのは骸だけらしい。リビングに犬の姿はなく、家庭教師もいずこかに姿を消していた。しかし屋敷に一人きりというわけではない。獄寺隼人は玄関を見張りつづけているだろう、侵入を許せばウサギを殺すという戯れの言葉を信じて。
(綱吉くんを助けるなどという連中はこなくなったので、便利といえば便利ですが)
上着を脱ぎ、ソファーの肘掛に被せた。今朝方の夢のせいか、長い袖に腕を通すのを窮屈に感じた。
常にまとわりついて締め付ける感覚は、どこかテープの粘着力を想像させる。冷え込んでおり、半そでの迷彩シャツでは適切さを欠くのだが気にとめる様子はなかった。四人掛けの真ん中にドサリと腰を降ろした。
見上げた天井は薄汚れている。四角形の板が幾重にも重なって打ち付けられていた。
ゴシックの寂れた情感は共に高級感を醸しだす。こうした屋敷に住むなど、昔には考えられぬことだった。以前に作成した書類が思い浮かんだ。『六道』の家系についてを記したもので、事実確認のためにボンゴレから提出を求められたものだった。裏づけがとられ、文面は認められたがわざと書き漏らした事柄がいくつかあった。
「十歳にしてマフィアの女。十二歳で五十歳の妻子あるマフィアの養女」
感慨のひとかけもなく、蚊の鳴くほどの声量で囁いた。そのマフィアがボンゴレの遠縁だった。
「十六歳で「ムクロ」を出産。二十歳、息子「ムクロ」を捨てる。二十六歳、事故死」
(父親は誰だなどというのは愚問ですね)
事故の原因は何か。それも愚問だった。骸である。
(どこまでをわかってるんでしょうかね、ボンゴレ九代目は)
そもそもの「ムクロ」も偽名だ。本当の名前は意識的に忘れようとしている内に、本当に忘れてしまった。
けれど、それら事実は関係がなかった。ボンゴレファミリーとの血縁関係と実力、これだけで後継ぎに悩むボンゴレには充分だ。クフフフフとひとしきりに笑い、ポケットからニンジンのマスコットを引きだした。
チェーンで結ばれたキィがぎらりと光る。ゆっくりと、ざらざらしたニンジンの表面をなぞる。
そういえばと、骸はペットに食事を与えていなかったことを思い出した。普段は千種か犬に任せるが、たまには自分で運んでやるのもいいだろう。腕時計を一瞥し、上着を取り上げ立ち上がる。
(何か、ものを作る材料ってありましたっけ。缶詰しか思いつきませんが)
当初は頃合を見て殺す気でいた。その襟首を掴み引き摺り倒してやりたい、追いつめて追いつめて身が裂けるほどの孤独を味あわせてやりたい、と、そんな衝動は出会った当初からあったものではあるが。確固とした目的意識の方を優先して行動していた。衝動が幅をきかせはじめたのは、長期戦を覚悟して屋敷をかまえ、ヒマがあれば少年たちとの戯れに顔をだすようになってからだった。彼はからかえば面白い子供だった。
戯れに唇を啄ばめば、真っ赤に染まり口をパクパクとさせる。ニコニコした笑みのままで尋ねた。
『その反応、もしや初めてなんですか?』
『なっ、な、なな何すんですか!』
『キスですよ』
わざと、ことさらに呆気らかんと言い放つ。
『い、イタリアの人ってみんなそうなんですか』
『意味がよくわかりませんが。と、いうと?』
『大したことじゃないですけど。ディーノさんも同じことをするんです』
骸は目を瞬かせる。少年は意味をわかっていないようだった。
赤いまま首を傾げ、イタリアの挨拶ってよくわからないとか、そのわりには獄寺くんはとか、言葉を連ねる。
骸が笑い出しても不思議そうな顔をするだけだ。その少しあとに、自分の出生を明かし十代目候補として名乗りをあげた。ボンゴレは、二人の十代目を見極めるためにいくつもの競技を用意した。
勝敗などやる前からわかっている。少年を這いつくばらせたいという望みは時期を待たずして叶うはずだった。骸の計算は微妙な角度で切り崩される。確かに少年は負けつづけた。が、いつでも仲間の手を取れば笑顔を見せた。リボーンが骸の家庭教師になったあとですら、同じように。骸の苛立ちは募った。地下室に攫った最初の夜。綱吉は深い絶望を目に宿す。少年の服を剥ぎ、深い満足感を抱きながら、骸はもがく背中を踏みつけた。
「ああ、さすが千種。こういうとこに気が利きますね」
フライパンにパスタが残されていた。
ペットボトルと、思いついてニンジンもトレイに並べる。
ニンジンを見つけたときの反応は想像するだけで楽しかった。
差し出せば礼を述べるのだろう。目尻をひくひくと戦慄かせるだろうか。もしかしたら、泣くかもしれない。
(生で皮がついててもきっと食べてくれますね。食べなかったら新しい遊びにも使えそうですし)
地下室の扉の前には冷気が塊で留まっていた。剥き出しのままの腕が冷える。
鍵穴に差し込んだキィを回して苦笑が浮かんだ。
中からヒュッと息を飲む音。ゆっくりと扉を押した。
「おはようございます。体の具合はどうですか?」
――ウサギは寂しいと死んでしまう。胸中で呟き、隅の少年を見つめた。
故意に作り出した孤独は少年をゆるかに蝕み、うっすらと淀んだ膜が目の奥で蠢いていた。それは骸が植え付けたものである。愛しげに目を細めた。その膜を見据えるように。
つづく
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