光覆の足跡 1.

 

 

 

 少年は航空券を蛍光灯にすかしてみせた。
 しあさって発のイタリア行きだ。三年前の身分とはずいぶん変わった。この頃は昔を忘れかけることすらあった。今日までの日々は、それほど濃密だったのだ。
「十代目ボンゴレの座を奪い取るのは、なかなか至難でしたね」
 呟き、デスクの奥底へとチケットをしまう。
 視線を感じれば、扉の前に背の低い影が立っていた。
 ニィと口角を吊り上げる。相手の内心を思えば噴出してしまいそうだ。
「クフ。何か言いたいことがおありですか? 家庭教師さん」
「特にねえよ。……イタリアは近い。日本に帰ることもねーだろ、身の回りの整理でもしとけや」
「ご忠告どうも。ですが、もともとイタリア在住ですよ。日本に未練はありません」
 ニコニコと告げるが、小さな家庭教師は眉間をしわ寄せた。
 ――骸はクフフと笑う。続けざまに笑い、手のひらで口元を覆い隠した。
「わかってますよ。ちょっと、からかってしまいました」
「テメェ、撃ち殺されてぇのか」
「おやおや。ボンゴレを敵に回すおつもりで?」
「ッチ。テメェは好かねえよ。とんだ隠し玉だぜ」
 九代目ボンゴレの遠い親戚の親戚。
 そこの養女の隠し子。事実が露見するや否やボンゴレファミリーは骸の獲得に乗り出した。
 少年の狙い通りだった。骸を支持するものと綱吉を支持するものとにファミリーは分裂した、が、九代目の宣言によって勝敗が決した。家庭教師が骸につけられたのだ。骸の十代目就任は、時間の問題となったのだ。
 人の好い笑顔を見せたまま、骸はポケットからキィを取り出した。ニンジンのマスコットがつけられた、どことなくファンシーな香りのする鍵型である。リボーンはことさらに眉根を顰めた。
「彼もつれていきますよ。管理は僕がしますので、ご心配なく」
「……一応、アイツはもうマフィアとは無関係な人間だぞ」
「だから、何だというのです? 僕とあなたとその他大勢のマフィアと関わった身ではないですか。今更、カタギだから置いていけとでも言うおつもりで?」
「ンなことは言わねー。聞いてみただけだ」
「冗談にしては笑えませんねぇ。思いつきで質問をしないでしょう」
「そうか? 元家庭教師として言っとくが、あれは役にたたねーヤツだぞ」
「おや。そんなに助けてあげたいんですか?」
「ンなワケはねーな。忠告だぜ、これは」
  少年は口角をあげた。
「 ――あなたは、重大な点を履き違えているんですよ」
 扉へ向かい、小さな家庭教師を見下ろす。
「人権など存在しない。あれは僕のウサギに過ぎません」
「ペットとでも言うつもりか。吐き気がする趣味だな」
「動物愛護なんて、かわいい慈善趣味ではないですか」
 ニンジンのマスコットを苦々しく睨み、リボーンは帽子を目深に下げた。
 横をすり抜け骸は廊下にでた。綱吉と十代目の座を争うと決めたさいに、腰を落ち着けた洋館である。町外れではあるが、それ故に人の来訪も少なく過ごしやすかった。地下への階段を降りながら、少年は鼻歌混じりにキィのマスコットを揉み潰していた。
 石造りの階段をおりれば銅製の扉があった。
「いい趣味をしてますよ、まったく」
 顔も知らない建築家へ賛美を与え、鍵を差し込む。
 ――カチリ。内側に開いた。
「こんにちは」
 岩肌の床に毛皮のカーペットを敷いた。
 ラビットファーだ。少年への当て付けでもあった。
「お元気にしていますか? 前回の訪問から時間を空けてしまいましたが、僕も忙しくてですね」
 少年は部屋の隅で丸くなっていた。
「今日は君に報告があります」
 足首につけられた鎖には薄い血の痕が滲んでいる。
 近寄っても彼は動かない。後頭部に手をつっこみ、髪を引っ張りあげればうめき声がした。
「イタリア行きが決まりました」
「…………っ」
 瞳が見開かれる。
 沢田綱吉はボロをまとっていた。
 両の手首には鎖の切れた手錠が取り付けられている。彼の持ち主を自称する少年によって取り付けられ、嬲られる内に鎖が千切れ、しかしこれもまた一興ですねと、その一言だけで付け続けられているものだ。
「それは……おめでとうございます」
「クフ。嘘はよくないですよ。本当はそう思っていないでしょう?」
「思っています」枯れかけた、弱々しい声音である。
 骸は腕に力を込め、吐息が頬にあたる距離にまで少年を持ち上げた。
「これ、で、やっとオレを離してくれるでしょう……」
 疲れきった声音だ。
 対する少年は目尻を細める。
 いっそ壮麗で愛らしい笑い顔だ。が、綱吉はびくりと身を竦ませた。
 この笑顔のままで、少年はいくつもの仕打ちを施してきたのだ。肉体にも精神にも鞭打つような数々の行い。綱吉の細腕にはいくつもの痣が残っていた。大の男に鷲掴みにされた際につけられたものである。
「また男の群れに突っ込んでさしあげましょうか?」
 ニコニコと笑んだまま骸は告げる。
「それとも今度は……。そうですね。美女に君を鞭打たせるのも楽しそうですね。ここを揉み潰してくれるような方々はいかがです」空いた手が、綱吉の腿の付け根を撫でた。
「写真もたくさん撮ってあげますよ」
 綱吉は眉根が大きく歪む。
 牢部屋の壁中に写真が貼られていた。
 綱吉の顔のアップもあれば遠巻きに撮影したものもあり、か細い文字でひとつひとつの日付が書き込まれていた。この部屋にカレンダーたるものはないので、それは綱吉の日付確認の役目も果たしていたのだが、そうして彼が頭の隅に写真の存在を認識せざるを得ないようにするのも少年の狙いだった。いつでも、骸は綱吉の心中を夢想することによって痺れるような感覚を手中にできたのだ。
「骸さん……!」
 瞳を閉じ、睫毛を震わせて綱吉が戦慄く。
「オレを置いていって。お願いし……ます、から」
 骸はうっとりとその耳に息を吹き込む。
 睦言と同じに甘く囁いた。
「行くんですよ。君もイタリアに」
 ゆるく綱吉が頭を振る。
 否定の意味を引っこ抜いて、骸は、ただただ哀れな醜態を楽しんだ。
「さっきのは冗談です。男も女もしばらくはお預けです。僕一人がお相手いたしますよ」
 綱吉は尚更に強く頭を振る。手酷い仕打ちは無数にあった。しかしどれよりも手酷いのは、骸と二人きりになった際に行われるのだ。かつて肩を並べた風紀委員の先輩とは違って、気を失うまでに肉体的な暴力をふるわれることはなかったが。骸のもたらすものは、生死スレスレの地獄と形象できるような快楽の繰り返しだった。毎回のように失神に至り、だが骸は許さずに少年をたたき起こす。手法は徹底して快楽によるだけで。いつかは殺される――。
 色情の最中に殺される、と、それは近頃の綱吉が盛んに抱く妄想のひとつであった。
「ウサギは寂しいと死んでしまうと言いますものね」
 軽やかに呟き、骸は綱吉を横たわらせた。
 鎖がじゃらりと音を立てる。自らの襟首を肌蹴ながら、骸は静かに扉を閉めた。
「向こうでも、変わらぬ寵愛を捧げてあげますよ」
「や……。もう……っ。許してくださ……!」
「許す? ありえませんね。僕をここまで悩ます方は初めてなんですよ……、ついて来てもらいますよ。地獄へだってね」鎖を引き寄せる。片足で引き摺られながら、綱吉がすすり泣きをこぼした。
「だって。ペットって、そういうものでしょう」
 骸は、ニコリと無邪気に笑った。


つづく

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