光覆の足跡 道のりの途中

 


2.
「む、骸さまが料理してる……?!」
 千種の手から大ぶりのビニール袋が滑り落ちた。
 夕方は過ぎた。屋敷に入ったところで、誰かが台所を使っていることには気がついていたが、あの暗殺者に意外な趣味があったものと、一人で納得しかけていたのだ。骸が包丁を持ったまま振り返った。
 エプロンは灰色で、ど真ん中にカバを模したキャラクターが描かれている。
「カレーの試作させてもらいますね。千種も犬も食べるでしょう?」
「あっ、ああ、なるほど。それで、ですか」
 どぎまぎしながら、買い物袋を拾う。
「にしても、そんなに意外ですかね」
 指でエプロンを摘んだ。押入れのなかで眠らせて半年は過ぎていた。
「あ。牛肉つかいますか? 買ってきちゃいましたが」
「いいですよ。テーブルに置いといてください」
 火にかけた鍋を覗き込み、タマネギの水分が噴き出ているのを確認する。
「骸さま……。この、大量のニンジンは」
「材料ですよ。試してみようと思いまして」
 はあ。曖昧に頷いて、千種はビニールの中身を収納し終えた。
 まな板の前で骸はニンジンを摩り下ろしていた。なかなかに愉しげな手つきだ。オッドアイに明確な色はなかったが、時折りうかぶ微笑が薄ら寒いものを感じさせた。
「できたら呼びますから。あーと、あと、犬が逃げないようにしておいてください」
 頷く。千種は、深く考えることを放棄して台所を後にした。
 ――三日がすぎるのは早かった。骸は買い物袋を抱えたまま、沢田家の扉を叩いた。
 練習と同じエプロンを持参し、彼の後ろに付き従うのはリボーンである。出迎えたのは奈々だった。
 台所には赤いエプロンの綱吉。横には獄寺と、黒いスーツ姿の大男。家庭教師の話は教えられたようで、綱吉は目の奥を淀ませたまま『帰らないなら、そういえよ』とかすかに囁いた。
 リボーンは応えない。俄かな微笑みを称えて、骸は黒服男に向き直った。
「準備をしてください。始め、の声でスタートですので」
 十分もしないうちに男は合図を告げた。
「あれだ。よく煮込んどけよ」
(しょっぱなからやる気のない助言ですね)
 飴色に染まるタマネギを見下ろし、骸がぞんざいに頷いた。
「家庭教師さんのアドバイスはありがたく頂戴しますね。荷造りはいいんですか?」
「言われなくとも。まー、味にはあんま期待してねーから、ほどほどにな」
「二人がご飯作ってくれるなんて嬉しいわァ。で、これって何のイベント?」
「ボンゴレ十代目を決めるための競技です」
 イスに座る黒服男が、バカ正直に応答した。綱吉がずっこける。
「た、ただのカレー好きの集まりだから! 母さんはどっちが美味しいかを言ってくれるだけでいいのっ」
「あらあらあら。楽しみね〜」
「綱吉くん、涙が」
「た、タマネギのせいですから!」
 袖口でゴシゴシと濡らすものを拭う。
 骸が薄く笑った。言いつつも綱吉の瞳は台所をあとにするリボーンを追いかけているのだ。
 エプロンに描かれたカバも目を細めて笑っているのだが、その笑みと骸のとは明らかに質が異なっていた。
「制限時間は一時間。彼と話してるヒマはありませんよ?」
「わ、わかってます。獄寺くん、リボーンを手伝ってあげて」
 台所の入り口で背をかけて、ことの成り行きを見守っていた少年。
 火のないタバコを咥えていた彼は、頓狂な声と共に綱吉を見つめた。
「だって。放っておくわけにも……いかないだろ」
「沢田さん……。わかりました」
 獄寺の背を見送り、骸がうめく。
「友情ですねえ。でも綱吉くん、タマネギって皮剥いただけじゃ涙でませんから」
「放っておいてください!!」
「クフフフ。わかりました」
 腰を屈め、オレンジ色のタッパを取りあげる。綱吉が眉を顰めた。
 自宅から持参したものだ。ニコリと笑って、内容物が鍋に注がれていった。
 しばらく眺めて、やがて綱吉は鋭い視線を感じた。テーブルの一角に座る黒服の男だ。ボンゴレから派遣されてくる彼はマフィアの人間で、こと細かなチェックを行っているのだ。
(そうだ。リボーンがいなくても……。ちゃんとできるとこ、見せないと)
 包丁をタマネギに叩きつける。慣れていないのが明白な手つきだ。
 切り口は歪んでいたが、それでも鍋に注いでヘラで炒める。隣のコンロで、同じようにヘラを回していた骸と肩を並べていた。くっ、と、喉を笑わせたような微音の後で、低く小さな声が聞こえた。
「リボーンが離れたくらいでは完服しませんか?」
「……知ってたんですか、骸さんは」
「ええ。なかなかに良い反応をしてましたよ、綱吉くん」
「趣味が悪いですよ。最初に、言えばいいじゃないですか」
「信じなかったでしょう? 今の気分はどうですか? 泣きたいですか? ああ、もう泣いてますけどどうですか胸にジクジクときませんか。僕が憎たらしくありませんか。罵ってくれていいんですよ?」
 ひそひそと囁かれる声に肌が泡立つ。
 綱吉の眉根が強く顰められているのは生理的な嫌悪からだ。
 理解していながら、しかし少年は語るのをやめなかった。
「それでどうこうなる問題ではないし君が絶望を深めるだけですけどね。もういい加減に諦めたらどうですか? ボンゴレのイスが綱吉くんにとってどんな価値があると――」バタバタバタと階段を駆け降りる音がひびく。
 綱吉と骸が同時に振り返った。
「沢田さん! リボーンさんが、オレのパジャマをどこにやったか、って」
「あら。それなら、お昼に干してたのよ。持ってきましょうか」
「さすがお母さま! お願いします!」
 獄寺がニカリと笑い、奈々の後ろについて行く。
 目を柔らかくさせたのは綱吉だ。ヘラを握りしめる腕から力が抜けた。
「支えてくれる人がいるんです。期待に応えるのって、すごく価値のあることだと思いますよ」
「結局、君が行き着くのは友情だとでも? ……上等な回答ですね」
「……――――?」
 不思議な違和感があった。ぴりっと痺れて、同時にドロりと纏わりつく……、冷気とでも形容していい空気。
 瞬間的に鳥肌が立ったが、覗き込んだ骸は常と変わらぬ平然とした面持ちで、綱吉を見返した。その右手が鍋のフタを閉める。
「はい、僕のは完成です。そちらはいいんですか? あと十五分ですよ」
「げっ。うわ、待って。まだ野菜が――」
 タイムリミットぎりぎりで終わった。このまま三十分煮込んだら、試食だ。
 骸はイスに座って緑茶をすすっていた。奈々が顔をあげる。
「ごくろうさま。ツッ君もお茶のまない? そこのあなたも」
「自分はいいです。自分はカレーを食べるのが仕事です」
「あら、そうなの? 骸クンの伯父さん、仕事熱心なのね」
「伯父さんは変わってますから。カレー研究家として余念がないんです」
 あっさりと納得した奈々に、綱吉が肩を脱力させた。面白がるように骸が奈々と綱吉とを見比べていた。
「この親にしてこの子ありって感じですね」
「どーいう意味ですか」
「小動物系の親子ってことです」
「人間を動物に例えないでくださいっ」
 骸とは離れた位置に腰かけて、綱吉がお茶を受け取る。
 荷造りを済ませたリボーンが戻り、風呂敷を携えた獄寺が部屋に戻るころには所定の時間がすぎていた。どちらから審査するかと尋ねるボンゴレの男に、綱吉のカレーを指名したのは骸だった。
 立ったまま緑茶をすすり、リボーンが尋ねた。
「どうしてだ?」
「口直しのできるものは後に取っておくべきでしょう」
「それ、遠まわしにオレのはマズいって言ってますか?」
 ヒクと口元を引き攣らせて、綱吉。骸は無言で見返し、鍋を見つめた。
「敵に塩を送ることはないかと思い黙ってましたが……。綱吉くん、水の分量間違えてましたよ」
 がばっと席を立ち、鍋に飛びつく。ウッソォとあがる大絶叫に、黒服の男が懐からポートレートを取り出した。
「第十三回目競技。十代目候補・沢田綱吉、味・形態ともに絶望的、と……」
「まあ、ツッ君は料理できないものね。ファーストフード好きだし」
「母さん、それ関係ないと思う」
 うめきながら、それでも綱吉はお玉でカレーを掬い取った。
 さながらにカレースープである。黒服男はマジマジと覗き込んだのち、スプーンを差し入れた。
「うわ。カレーなのにピチャッて言いやがった」
「インドのカレーみたいねえ。ツッ君、カレーのルー使った?」
「使ってましたよ。だから味はいちおう、カレーになってるのでは」
 好き勝手な論評にこめかみを戦慄かせつつ、審査の結果を持った。
 口をもごもごとさせた男が一言、うめく。「辛くないな」ポートレポートにペンが走った。
「十代目候補・沢田綱吉。失格だ」
「っぶ。いっきに失格?!」
「くはははっ。面白い結果ですねえ。そんなにマズかったですか?」
「味はカレーです。けれど求められてるのはカレーであって、カレーの味のするスープではない」
 オヤオヤと、実に愉しげに骸が笑った。全員の分を盛り付け、綱吉が引き攣ったまま一同を見渡す。自分も口をつけた。スプーンを咥えたリボーンが「うえ」とうめくのが聞こえる。
「そーゆー生々しい反応するなよ。マジ水っぽいけど……」
「綱吉くん、タマネギが切れてないですよ。タンザクみたいになってます」
「えっ? う、うわっ。オレのもそうなってる!」
「オレはぜんぶ食べますから! 気を落とさないでください!」
 前のめりに俯く綱吉だが、獄寺の言葉で持ち直したように顔をふりあげた。
 その意気ですと励まし、景気付けとばかりに獄寺が皿を傾けいっきょに空っぽにした。ラーメンの汁を飲むかのような光景だ。綱吉がうめく。「なんか、そのビジュアルって悲しい……」
「ツッ君、ぼろぼろねえ。お料理修業でも始める?」
「クフ。いい案ですね、奈々さん。では僕のをだします」
 黒服の男に視線をやり、骸が席を立つ。注視される中で盛り付けたカレー皿が置かれた。ニンジンやジャガイモは、一口で頬張れるサイズに、きれいに切り分けられている。しかし豚肉は大ぶりで見栄えが良い。
 沸いたどよめきは、トロりとしたカレーの色合いに対してだった。
「なんですか……? オレンジ色してる」
「クフ。すり下ろしておいたニンジンを混ぜました。その色ですよ」
「……十代目候補・六道骸。変化球、と。見た目はマル」
「クフフフフフ。味もいいですよ。どーぞ」
 男がカレーにスプーンを差し入れる。とはいえ、これでは結果を待つ必要もないだろう。
 綱吉はため息をついてリボーンを見つめた。視線に気づいてるだろうに、彼は振り返らずに黒服の審査に耳を澄ませていた。カレーの濃厚な匂いがあたりに立ち込めていた。
「……ほう。なかなか。うまい。いけますね」
「ま〜。あらあら。ホントにおいしい! 凄いわ、骸クン」
「ん。こりゃ、ダメツナのは話になんねーな」
「ありがとうございます。市販のルーでも程よい旨みがでてるでしょう?」
 骸がはにかんだ。エプロンに描かれたカバと同様の晴れやかな笑顔だ。綱吉が再びため息をついた。
 スプーンを握りしめるのは獄寺だ。が、声を荒げるのは抑えたようだ。無言でがつがつとカレーを掻き込む。それを見て、綱吉も自分に配膳されたカレー皿を見下ろした。
(これで五連敗……かあ)
 隣のイスが引かれる。六道骸だ。
「君は食べないんですか? けっこう、試行錯誤して開発したんですよ」
「……」迷いの滲んだ沈黙の末、眉間を皺寄せた。
「これ、嫌がらせですよね? オレ、ニンジン苦手だって言ったのに」
「そーいうわけでもないんですよ。とにかく、ほら。食べてみてください」
「やですよ。見るからにニンジっ」
 有無をいわせずにスプーンを突っ込む。
 ガタンとイスごと揺れて、少年が両手で口をおさえた。
「ぐ。んっ。ぁ、だあフッ! 熱!」
「ああ。そういえば、よそったばかりですね」
「おまっ。骸! 沢田さんに何してやがんだ!」
「賞味していただこうと思っただけですが。どうですか、苦くないでしょう?」
 え。水を飲み干したところで目を白黒とさせる。はにかんだ笑い顔に流され、皿を受け取っていた。オレンジの色合いはニンジンそのもので、何度も瞬きした。ゆっくり、スプーンですくう。
「食べてやることないですよ、そんなの」
 空にした皿を持ち、獄寺がつっけんどんに言い放つ。
「……――あ、あれ。ニンジンだけど……」
「クフ。リンゴを一緒に摩り下ろして、苦味を消したんです。ニンジンの味をしっかりと残すのに苦労しました」
 綱吉が二口目を口に運ぶ。珍しいものを見るように、骸とカレー鍋を見比べた。
「食べられるみたいですね。おいしいですか?」
「ま、まずくは――」
 不味くはない。逡巡の末、言い直した。
「美味しいですよ。これなら大丈夫です」
(別にこんなとこで意地張ってもしょうがないよな)
 口中でジワリと広がる味わいは初めて出会うものだ。
 笑みを深くする骸は、本心から微笑んでいるよう見えた。
「よかった。色も気に入っていただけました? これ、水の代わりにトマトジュースを使ってるんですよ。オレンジが赤っぽいでしょう」
 黒服男と奈々が感嘆をもらした。しげしげと奈々がカレーを見下ろす。
「レシピ、教えてもらっちゃおうかしら……」
「奈々さんにでしたらいくらでも」
 ニッコリと笑顔を向けて、骸は自らもスプーンを咥えた。
 ポートレートにペンが走る。カレーの味をこと細かに綴ったあとで、骸の名に丸をつけた。一同に向けて掲げてみせる。綱吉は見ようとしなかった。「第十三回目競技。十代目候補・六道骸の勝利とする!」
 無邪気な拍手は奈々のものだ。獄寺は綱吉作のスープカレーを新たに盛り付け、リボーンは腕を組み、帽子の下からポートレートを見つめた。拍手が尽きるころ、骸が呟いた。
「ついでにウチの夕食にしたいので、千種と犬を呼びだしていいですか?」




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