光覆の足跡 道のりの途中
1.
子供に声をかけるよりも、差しだされた手紙を開ける方を優先した。
「僕の予想を上回りますね。何を考えていらっしゃるのか」
「十代目を選出することを考えてんだろ。何なら、棄権もアリだろーぜ」
「クフフ。とんでもありません。就任を歓迎しますよ、家庭教師さん」
不敵に子供を見下ろし、体をどける。背後から首を伸ばしていた千種が壁にぶつかった。が、その手は骸が放り捨てた手紙をしっかりと掴んでいた。広げた手紙を犬がしげしげと覗き込む。
「綱吉くんに挨拶はしたんですか?」
「してねえよ。する必要、あるか」
「それは僕にわかることじゃないですね」
嘲るかたちに口角が吊り上がる。
肩越しに振り返り、鋭く少年を睨みつけていた。
「どうせ数日で会うんだ。つうか、テメーが気にする範疇じゃねえよ」
「おやおや。初めてのアドバイスがそれですか」
表面だけの苦笑だ。言いつける声音は朗々としていた。
「千種、家庭教師さんを適当な部屋に案内してあげてください。ここで生活するそうですから」
「わかりました。買出しはどうしますか」
「僕が行きます。寄り道もありますし」
文末の数行を指差した千種が、目線を下げる。むすりとしたリボーンの顔があった。
互いに会釈もしない。「ハンモックはないぞ」と一言、告げた。
リボーンが露骨に眉根を顰め、ばちっと弾けた火花だが、千種も仏頂面を崩さなかった。
「それにしても。場所が沢田家ですか。僕はボンゴレに嫌われてますかねぇ」
(実際のところは、こちらが罠でも仕掛けると危ぶんだのでしょうが)
両手を組ませる。目尻が吊りあがった。
(間違ってはいないんですけどね)
「不服か?」
「いいえ。構いませんよ? どのようであれ全力を尽くします」
互いを見ぬままで交わした言葉は、キンと響くほどに冷えていた。
階上で大時計が午後の訪れを告げる。(ここでボンゴレの座を奪えなければ日本に来た意味が……、いや、今日まで生きてきた意味そのものがなくなってしまいますからね)
「とにかく、美味しいと言わせればいいんでしょう」
ものいいたげな視線が二つ、骸に集中する。ひとつは千種の背を追うリボーンが振り返ったもので、ひとつは、外出がためにスニーカーを引っかけていた犬だった。共通した疑問を口にしたのは、犬の方だった。
「骸さま、料理なんてできたんれすか?」
「失礼な。やらないだけですから」
キッパリと言い捨てて、犬と肩を並べる。
奇妙なものを見るような、マジマジとした視線が降りかかる。揃って屋敷をでて、犬は軽い挨拶を残して駅へと足を向けた。縁のあるヤクザから、抗争の助っ人を依頼されているのだ。
骸が軽い調子で言いつけた。
「半殺しもナシですよ。今は大事な時期なんですから、目立たずに」
「あ〜ァい、あい。歯ァ抜いて骨折くらいで済ませまあ〜す」
気だるげな声を背中に曲がり角を通り過ぎる。向かう場所はひとつだ。天にかかる雲はうすく、コンクリートに落ちる明かりはボンヤリと滲んでいた。二十分ほどで、見慣れた家屋の前に立っていた。
呼び鈴に応えるのは、彼よりも頭ひとつ分も低い少年だった。
扉が開くなり、鈍い悲鳴がこだました。
「なっ、何でいるんですか――っっ」
「こんにちは。敵情視察ですよ。今度は、君の家で勝負をするそうですから」
「ええ? そ、そうなんですか? って、ちょ、ちょっと骸さん。そんな、勝手にあがらないで――」
「あら。骸クンじゃないの!」
黄色がかった声に、骸を押しとどめようとした綱吉が脱力した。
そのスキで少年を押し返し、骸が玄関をあがる。ニッコリとした笑みで、骸は奈々へ会釈した。
「ひさしぶりですね。お元気にしてましたか?」
「もちろんよ! 骸クンもお元気?」
「はい。おかげ様で。奈々さんは、相変わらずお綺麗ですね」
「やっだぁ〜。ウマいんだから!」
「か、母さん……」
ぐったりする綱吉だが、すり抜けざまに奈々が綱吉の額を弾いた。
くすんだ悲鳴に骸がクスリとした笑いを返す。その仕草は淀みも嫌味もなく旧来の友人が行ったかのように違和感のないものだった。「もう、友達甲斐はあって損ないのよ」
「ちゃんともてなしてあげなさいねっ。骸クン、前はしょっちゅう遊びに来てくれてたじゃないの。忙しい中で、こーしてまたツッ君とこに来てくれたのを喜びなさい!」
(か、母さんは詳しく知らないからだよ)
胸中でのうめきは、当然ながら奈々には届かない。
骸とニコニコと笑い合った末、奈々は買い物にでかけていった。
見送る顔には笑顔が貼り付いていた。いくらか強張った面持ちで睨む視線は後ろからだ。
「クフフ。本当に視察ですってば。何もしませんよ」
「そう言いながら、二週間前、獄寺くんの腕を折りましたよね……?」
「ああ。そんなこともあったかもしれませんね。でも君には何もしてないですよ」
ケロリといいのけ、台所へ足を運んだ。綱吉が怪訝な顔をするのにも構わず、戸棚をあけて食器と器具を確認してまわる。大鍋を引っ張りだしながら、骸が振り向かないままで問い掛けた。「彼の腕はくっつきました? まっすぐにやれたと思うので、意外と直りは早いはずですよ」
「そーいう問題じゃないでしょう……っ。大体、いきなり人ん家で何してんですかアンタはっ!」
「視察です。これをいうのは三度目ですよ? 会場に何があって何がないのか、知るのは当然の権利でしょう。今度はどちらがより美味しいカレーを作れるかだそうで」
え。短い戸惑いに、骸が微笑みを深くした。
しかし問いかけは期待を少しばかり外したものだったので、ひっそりと毒づくハメになるのだが。
「カレーって……。イタリアの人ってカレー食べるんですか」
「……食べますよ。カレー味のパスタなんかもありますしね」
素直な感嘆を聞きつつ、ニコリと微笑む。
「それよりも、どこからその情報を仕入れたかが不思議じゃないですか?」
綱吉が顔をあげる。視線が玄関へ向かうが、冷ややかな声音が遮った。
「今、ポストを見ても黒の手紙はないですよ。僕にはリボーンが教えてくれたんです」
「あいつ……」驚きと怒りとが声音に混じる。が、骸を思い出したように一瞥して、綱吉は奥歯を噛んだ。「一昨日から姿消してるんですよね。母さんが心配してるから、今度会ったらとっとと戻ってくるように言って下さい」
笑みを深くしたまま、骸がオッドアイを濁らせる。
何食わぬ顔で頷く。刹那、ぞくぞくとしたものが骸の背筋を掻いた。人と交わるときの感覚に似ていて、けれど彼が覚え知るもののどれよりも深く鋭く脳髄にギンと響いた。
「すぐに会えますよ。次の勝負のときには、必ずね」
(本当に、まだ何も知らないんですね。リボーンは君の家庭教師じゃなくなったんですよ)
事実を知ったとき、少年がどんな顔をしてどんな声をだすのか。どんな瞳でリボーンを見て、どんな色で己を睨みつけるのか。絶望か憎しみか、もっと違う何かか。暗い光が心臓を炙り、総ての想像が骸を楽しくさせた。
続けて開けたのは、なぜだか沢田家の冷蔵庫だった。
「そ、そこは勝負には関係がないと思いますっ」
「野菜室はからっぽ、ですか。なるほど、それで先ほど女が買い物に」
「人の家の台所事情なんてどーでもいいでしょう……っ」
ぱたぱたと駆けより冷蔵庫のトビラを閉める。掠めた指先は冷たかった。
わずかに目元を歪ませ、しかし踵を返す。慌てて綱吉が後を追った。
(テ、テーブルに出してくれちゃった器具の片付けってオレがやるのかな? ええ?)
「綱吉くんはどんな食材が好きですか?」
振り返らないままでの質問だ。綱吉が目をギョッとさせた。
「参考までに。料理はどれくらいできるんですか? 家事の手伝いなどは?」
「……え、えーと。オレ料理なんてからきしダメですけど……って、なに言わせるんですか!」
「クフ。気がつくのが遅いですね」
振り返った骸はすでに玄関をでて、ぼんやりした白光に細身を晒していた。
逆光が表情の細部を隠すが、それでも嘲るような微笑みは俄かに視認できた。
「それならば今度の勝ちも僕のものですね。総ては時間の問題とみえる」
カチリと歯を鳴った。勝負の行方を指したのでなかった。ボンゴレの椅子、そのものだ。
「そんなの、まだわかんないですよ」
「クフフフフ。本当にそう思っているのですか?」
骸が目を細める。ほどい悦楽を伴って指先まで広がるものがあった。
睨みつける少年の瞳に燃える赤がある。負けまいと虚勢を張っているのが見て取れる。陽光を受けてきらきら光る目尻の粒を笑って、「綱吉くんは卑小ですね」と小さく囁いた。
「君は、こんなことで泣くんですか」
「泣いてなんかないです」
「そうですか? 目が赤い。ウサギみたいに」
「からかわないで下さい。とにかくも、まだ勝負はついてない。次は勝ちます!」
「どこまでも友情を気取りますか。そんな生易しいことを叫ぶバカは大嫌いなんですよ、僕」
両の瞳は嘲笑に染まり、底の見えない黒すら浮かんでいた。少年が下唇を噛みしめて俯けば、ニコリとして満面の笑みを取り繕う。綱吉は頑として骸を見ようとしなかった。
「その生易しさはボンゴレに相応しくないですが、個人としては好きですよ」
表面を撫でるだけの言葉だ。骸はそれを承知し、綱吉も感じ取っていた。
「次を楽しみに。その暁には、サラダでもおまけにつけてさしあげます」
いらないです。やや、掠れた声があがる。返る声音はやたらと弾んでいた。
「そう言わないでください。ニンジンも用意してあげますから」
眉が盛大に顰められ、ものいいたげに唇が震えた。が、しかし綱吉は唇を噛んだ。このオッドアイの少年が、望みを汲み取ることなどないのだ。全身を震えを抑えるよう、すっと、息を吐き出しながら囁いた。
骸本人が思うよりも大きな声がでて、オウム返しに尋ねていた。
「ニンジン、嫌いなんですか?」
「そこまでいかないですけど。ニンジンとアスパラガスはあんまり」
綱吉が目を丸くする。ああ、いえ。淀んだ返答をしたのは、骸だった。
「意外な気がしますね。食べられないんですか」
「あったら食べますけど、あの苦味が苦手で」
「へえ。そうなんですか」
オッドアイが奇妙にけぶった。
「……骸さん?」ゆるく骸は頭をふった。
「それならサラダはいりませんね。後日、よろしくお願いします」
踵を返した骸は、すでに後ろでもごもごと叫ぶ声を聞いていなかった。次は片付けてください、と、そんな台詞も当然ながら聞かなかったことにした。
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