焔に漂い霧は知る
「いくぞー! えい、おー!」
肩を組んで叫びあって、最後にお互いの手を叩いた。
ザンザスたちとの闘いから一ヶ月。いつの間にやら並盛防衛隊みたいになってきたオレたちだ(多分、ヒバリさんのせいだと思う)。
不満を唱えるひとはいなかった。
あの闘いで、最後の最後に姿を見せた六道骸も例外なくオレのあとについてくる。よくわからないけど、人手が欲しいと思ったときには、骸は幽霊みたいにしてオレの後ろに立っていた。
「…………」
町内会からの召集だ。
小学校で放火予告があったらしい。ヒバリさんがやたら張り切ってることを除けば、いつも通り。
「五回目だろ? 今回も誰も妙なコトしてねーんじゃん」
「バカだね。今回こそ、捕まえる。不審火は昨日もあったんだよ。誰かは知らないけど、確実に、火を放つ誰かがいるんだよ」
山本をひと睨みして、ヒバリさんが踵を返す。
風紀委員の腕章の下に、『防火』の腕章をつけていた。これは、全員、つけてる。
「…………」
オレの真後ろに立ってる骸も同様だ。
振り返ると、彼は眉を剣呑にさせながら口元を抑えていた。
「……? どうかしたんですか?」
霧のリングが灯りを反射する。返事はない。
どうでもないって顔には見えなかった。堪えがたいものを、むりやり我慢しているように見える。骸は、自信たっぷりに飄々としてることは多い。でも、実際のところ、それのほとんどは演技だぞとリボーンが教えてくれた。コイツが霧のリング保持者として現れた、その夜のことだった。
「あの。ヒバリさんはああいってますけど、たぶん今日もなんもないだろうから帰っても大丈夫かなって思うけど」
「いえ。大丈夫です。何でもありませんから」
やや突き放した声音。リボーンは骸さんを警戒してるようだった。かくいうオレもこの人に対しては緊張してしまう。当の骸だってオレたちやリボーンに対して心を開いてるようには見えないけど。
この人は、捉えどころがなくて本物の霧みたいだ。
何を考えているのか。オレをボンゴレから引き摺りおろすとか、復讐だとか、そういうこと? 何かしら、物いいたげにしてる時はあっても骸は何も言わない。だから、その本心は闇に沈んだままだ。誰も知らない。
「沢田! 何してるの。行くよ」
「さー。極限だぞ! 今日こそ悪を撲滅だ!」
「あ。ハイ! 待ってください〜〜っ」
骸は、眉根を顰めたままで後をついてきた。
その左手でリングが光る。……放火犯がでたときいて、真っ先に骸を思い浮かべたのは、オレの胸中だけの秘密だ。いくら不気味でも、彼がそんなことをする理由はないだろう。きっと。
吐き気がする。胃袋の底から土砂が逆流してくるような、酷い気分が瞬間的にやってきた。
『いくぞー! えい、おー!』
彼の声がこだましている。吐き気が。ひどい。
僕がここにいることに意味はあるんだろうか?
何度となく呼び出した疑問を今日も呼び出していた。理屈ではわかってる。意味はある。この条件を呑むことで処刑人たちの手から逃れることができた。
しかし理屈ではないところで、僕は反抗をしている。意味はあるのか。この子供に、仇さながらの彼らについていくことの意味が。自分で納得できるほどのものがあるとは現段階じゃ思えない。吐き気がする。彼らの――、いや、彼の。
たった一人、茶色い頭をして茶色い目をした彼。彼が無邪気な言動をするたびに吐き気がする。彼は嫌いだ。そういうところが嫌いだ。
『あの。ヒバリさんはああいってますけど、たぶん今日もなんもないだろうから帰っても大丈夫かなって思うけど』
『いえ。大丈夫です。何でもありませんから』
思い返すだけで、硫酸のようなものが胸に沸く。
いつか、殺してやりたい。四肢のどれかを奪うのでも犯すでも何でもいいから、彼のからだと心をずたずたに切り裂いてやりたい。
近頃、前よりも感覚が鈍ったことを感じる。この少年を殺す妄想で思考のほとんどが埋まっている自覚はある。仕方がなかった。その妄想がないと、僕がココにいることの意味は見つけられそうもない。
沢田綱吉は物いいたげな目で僕を見上げた。
何かを問うような、疑惑をかけるような眼差し。
こういうところもムカつく。こいつはウソが下手だ。……最初から、僕を疑っていた。吐き気がする。
「そんっ、なァ! ウソだろぉ?!」
夜空がオレンジに染まっていた。夕焼けによく似た色だけど、違う。光は地上から起きていて、瓦屋根の民家をぐるりと包んでいた。ヒバリさんが携帯電話で何事かを鋭く叫んでいた。
「ホースはどっかにねえのかっ?」
「それより近くの人に報せねーとマズいんじゃねえか?!」
いつになく狼狽して、山本が後退る。サイレンが聞こえてくるような気がした。
救急車のサイレンだ。まるでドラマの出来事みたいで、現実感が無い。体中の血液が凍ったみたいで、全身が冷えていた。呆然と、燃え盛るオレンジ色を見上げていると、後ろから肩を捕まれた。
「腰を抜かしてるんじゃない。 消防車が来るまでに十分はかかるよ」
「ヒバリ! 水を汲むんだ! 炎などに遅れを取ってるようでは明日に勝てないぞ!」
「ちょっ……。明日って……。君は馬鹿か。ていうか、離してくれる?!」
眉根を剣呑に吊り上げて、ヒバリさんが自らの肩を掴んだ腕を振り払う。
了平お兄さんは、気にした様子もなく空めがけて拳を振り上げた。
「消火活動は地道なものなり! ゆくぞっ!!」がしっと、両手でヒバリさんの腕を取る。彼が目を丸めたのも束の間、了平お兄さんは二軒隣へと駆けていった。
呆れたように目を細めたヒバリさんだけど、気持ちは同じなんだろう。
すぐに自分から走り始めた。獄寺くんと山本の姿もない。オレだけが、膝をついて震えていた。
「み……、みんな」いつものとおり、背後に人の気配がある。振り返らなくてもわかる。六道骸だ。彼からは動揺した気配もなく、見てみると、本当にいつもの通りの顔をして民家を見上げていた。
能面みたいな顔が炎に照らされてオレンジに染まる。
オッドアイっていう、左右で色の違う瞳もちかちかと光っていた。
その眼差しは、ゆっくりとオレを見下ろした。無感情だ。だけど。他は動いているのに、お前だけは腰を抜かすのか――、そんな嘲りが、口を開けてもいないのに聞こえてきた。
「お……、オレたちも、できることしなくちゃ」
骸は、こんな状況でも冷静だった。ゆるく首を振る。
「やれることはたかが知れてる。もう、彼らが全てを打った」
獄寺くんたちのことか。骸の青いほうの目に映る炎の影を見ながら、火花が散るたびに肩を竦めた。本当のコトをいうなら、腰も抜けてるし唖然として言葉もろくにでそうになかった。
これって情けないことだと思う。でも、誰が、いきなり放火現場に遭遇するなんて思うんだ。
オレはただの中学生だ。いつでもダイナマイトを振り回してるような獄寺くんや、日本刀に摩り替わるようなバッドを違和感なく持っていられるような山本とは違う。オレは――、と、骸の視線を追いかけようとして、ハッとした。窓辺に影がよぎったようが気がした。
「ね――」
今度は、それは窓辺に齧りついた。
「猫だ!!」小さな生き物は、爪をヤスリにかけるときの格好で、ガラスに立てた前足を上下にバタつかせている。すぐ後ろにオレンジ色の炎があった。
必死になって口を大きく開けている。三毛猫だった。
「に……、逃げ遅れ」
呆然と呟きながら、思わず、骸を振り返っていた。
とてもじゃないけど。オレはあんなトコロにいけない。でも骸なら行けるかもしれなかった。彼は驚いた目をしてオレを見返した。
唇が、二度ほどぱくぱくと閉口する。窓ガラスに突進しては跳ね返されてる猫のシルエットを見つめ、オレを見つめ、骸は一瞬だけ鬼のような形相をした。腕が伸びてくる。殴られるのかと、瞬間的に危ぶんだほどの剣幕だった。
右肩に五指が力強くくいこんだ。乱暴に、後ろに向けて放り投げられた。
「行けばいいんでしょう、行けば!」
やけくそになったような叫び声が、最後に聞こえた。
家が燃えていた。
ああ、そう。それくらいの感情しか湧かない自分自身に少しだけ驚いた。以前は、第三者が不当に苦しめられているのを見ると歓喜を覚えたものだったが。沢田綱吉に意識を集中させすぎたせいか。コイツが、不当な苦しみを味合わないと歓喜を覚えない体質になってしまったのだろうか。
きっとそうだ、と、思いなおす頃には、他のバカどもが消えていた。
「み……、みんな」僕と取り残されて、彼が途方にくれた声をだす。
自分の行動を決めあぐねている様子だった。
キョロキョロと辺りを見回して、全身で心細いと訴えている。僕と目が合うと、居た堪れないように大きくさせた。別に、どうとも思わないし、この子供が腰を抜かそうがなんだろうかどうでもよかった。今日の見回りは、トラブルの後始末に長引きそうだ……、と、茶色い瞳を見下ろしながら考えたところで、子供は勝手に傷ついたように瞬きしてみせた。
「お……。オレたちも、できることしなくちゃ」
ああ、ムカつく発言だ。にべもなく言い捨てる自分が内側にいた。
この後に及んで善人ぶる気だろうか。怖いくせに。通報も終わり、近隣に呼びかけに走った者がいる今では僕ら二人にやれることなど残っていない。火事なんて、子供の努力で消せるものでもあるまいし。
指摘すると、見るからに少年は肩を落とした。
でも、俄かに安堵したようにも見える。彼自身は気付いていないような、仄かな溜め息。
ほとんど無意識に卑怯で卑屈な態度をとるこの子供は、やはり一度は殺しておかないと。改めて決心したところで、沢田綱吉が声を張りあげた。
「猫だ!!」見れば、二階のガラスに張り付くように獣のシルエットが蠢いていた。
窓を破りたいようだったが、小さな生き物では非力すぎてやりきれないようだ。
僕にしてみれば、窓があるのは幸いだ。小うるさい断末魔を聞かずに済む。死ぬときは呆気なく死ぬんだから、足掻いても無駄だ。
イライラしていると、思いもがけずに振り向く目があった。
「……――――」
一瞬、彼の正気を疑った。
言葉じゃない。お得意の態度で訴えるヤツだ。
一秒と経たずに強烈な吐き気に襲われた。はらわたが煮えくり返って、胃が一回転をした。
自分は、――自分は怖くていけないくせに、どうして他人に強要できるんだ。
たかが猫だ。猫のために、そんなクズな生き物のために、そのために僕に命の危険を冒せといっている。骸ならいけるはずだよね――、そんな、言葉が視線の中にある。
目眩がした。沢田綱吉にとってこの僕が猫と対価ときた。
猫のために。猫ごとき生き物のために、彼は、僕に死んで来いと言ってる!
腕が伸びた。ほとんど殴るつもりで差し出した腕だったが、どうにか、沢田の肩を掴んだ。悲鳴をあげかけた唇には構わず、後ろへと投げ飛ばす。生意気にも尻餅をついて、後頭部をコンクリートに打ち付けずに済んだようだった。今の僕は、基本として、沢田の命令には逆らえない原則があった。
それでも、僕は機械じゃない。感情らしきものがある。はらわたが煮えていた。
我慢ができそうにない。このまま、無言の懇願を浴びせられるよりも。胃袋を吐きだすような苦痛を受けつづけるよりも。業火の真中に、この身を投げたほうが、まだ、マシ。
「行けばいいんでしょう、行けば!」
息を呑むような音が、微かに聞こえた。
「む、むくろ?!」
本気で突っ込んでいくなんて、思っていなかった。
無茶だ。あんな、普段着そのままの格好で火の中に行くなんて。オレの不安をよそに、骸が蹴破った扉の破片すらも炎に巻かれていった。何を言っていいのか。わからない。膝が震えていた。
骸は死ぬの? 咄嗟に、六の文字の張り付いた右目が思い浮かぶ。
いや、死なない。死なないに決まってる。彼は人間とはちょっと違うのだ。ごうごうと燃え盛る民家から後退って、しばらく経ったころに、家人らしいOLさんが駆けてきた。ショックを受けて、オレと一緒に家を見上げている。
二人で、同時にアッと鋭く声をあげていた。猫が張り付いていた窓辺に人影が立った。
後ろから、胴体をグッと鷲掴みにする。驚いた猫が大口をあけながら彼の手をめちゃめちゃに引っ掻き回していた。思わず、窓辺に走りよって両手を握っていた。
「骸! はやく!」「――――」
背中にオレンジの光をしょって、今にも炎に焼かれそうだ。
肩が二度ほど窓を叩く。三度目に、ガッシャアアアンと音をたてて弾けていった。そのまま、長身の体が、猫を抱えたまま庭めがけて垂直に落ちていった。
「あっ、あ、あっ、あっ」夢中になって、走り寄った。
骸の全身がコゲてる。服を途中で脱ぎ捨てたようで、上半身が裸だ。指のあいだから、しなやかに三毛猫が滑り出した。立ち竦んでるOLさんへ、一直線に駆け抜けてく。それを見て、ハッとして骸の腕を掴んだ。とにかく、ここは危ないんだから、遠いところに行かないと。
ところが、掴んだ途端に、骸はオレの手首を掴み返した。
「……、――――触る、な」
「なにを……?」「僕に触るなって言ってるんだ!」
上半身をゆるやかに持ち上げて、彼を見上げて、言葉を失っていた。
顔にまで煤が広がって、額と右頬には明らかな火傷ができていた。よくみると、右側の前髪も少しチリチリと縮んでいて、丸ごと火に炙られたことが読みとれる。右目の六の文字と、赤色だけが数分前と同じように生気を灯していた。
苛立ったように骸はオレを押しのけた。そうして、よろめきながら立ち上がる。
今度はオレが手首を掴む番だった。心臓がガンガン言いながら、四倍以上の速さで鳴っている。
「それ……、火傷。手当て。あ、痕が残るじゃないか」
「――――」
ぎろりとした眼差しが振ってくる。
両手に力を込めた。離しちゃいけないんだ。
骸が行ってしまう。このまま行かせる、それは、それだけはダメだ。カンみたいなもので、鋭くこめかみが疼いていた。ここで骸を行かせてしまったら、取り返しがつかなくなると思えた。
「だ……、誰か! お兄さん! ヒバリさん?! 誰でもいいから、水をはやく!!」
オレのせいだろうか。きっと、オレのせいなんだ。骸が氷みたいな目を向けてくる。彼の呼吸も荒いけど、でも、顔の半分が焼け爛れてるのに、誰よりもずっと冷静に見えた。信じられなかった。
遠くの方から、バケツを抱えたヒバリさんたちが走ってきてる。
「……! ……!」
窓の向こうで、何かを叫んでいる気配がする。
どうでもいい。コイツを視界にいれると、それだけで目眩を覚えそうだった。もともと、人間なんて好きじゃない。皆、今すぐに死んでしまえばいいんだ。でも沢田綱吉は別で、殺すなら僕の手でやろうと決めてる。いつか、思いつく限りの恥辱と屈辱を与えたうえで絞め殺してやる。バラバラに割いてやる。生まれてきたことを後悔させてやる。
ちぐはぐな思考。そうだ。ちぐはぐな思考を、無理やりに押し留めた。
経験で知っている。 こんな思考は、死の前触れだ。気が弱っている証拠。
両手の中で猫が暴れている。手の甲にツメをたててキィキイと叫んでる。捻り殺してやりたい衝動は、窓にぶつけることにした。何度かぶつかって、ひときわ、強烈な衝撃が全身を打った。
庭先に転がって、ようやくガラスが割れたことに気が付く。
手のひらを通り抜けて、子猫は振り返ることもなく、飼い主らしき女のもとへ駆け出した。これだから、ああいう生き物は嫌いだ。入れ替わりに沢田綱吉が駆け寄ってくる。顔をクシャクシャにしている。最悪だ。
「あっ、あ、あっ、あっ」変な声を出したと思ったら、手首を捕まれた。
ギクリとした。沢田に触られた。汚い。汚水に突っ込んだ腕で触られたようなもの。
「――――」反射的に、僕の手を掴んだ沢田の、その手首を掴み返していた。一瞬、思考が止まる。離そうとしたのに、僕の手は、自分から沢田に触れている。
思考ができないでいると、沢田は、戸惑ったように眼差しを上向けた。
どういう意味で、手首を掴んできたのかを聞いてる。無理やりに喉を動かした。
「触る、な」「なにを……?」
「僕に触るなって言ってるんだ!」
茶色い瞳が、呆然とする。手首を掴んだ彼の手から力が抜けていく。
僕が、沢田の手を掴んでるから、僕の手首から指が滑り落ちないだけだ。その事実を正確に認識するあたり、僕はいささか自虐的な性格をしていると思う。気付かなければ楽なコトなのに。
顔面があつい。特に左側。
右目が燃えるように疼いてる。酷い火傷を追っているんだろう。昔、イタリアの研究所で受けた実験よりはマシな痛みだ。千種なら痛みを和らげる方法を知っている筈だ……、少年を押しのけて、立ち上がる。膝がグラリとして、重心がとれなかった。
再び、手首に人肌を感じた。吐きそうな気分になってくる。
「それ……。火傷。手当て。あ、痕が残るじゃないか」
睨み付ければ、傷ついたように茶色い瞳が潤みだす。今すぐ、駆け出したい衝動が芽生えた。ぐらぐらとする。胃袋がぐらついている。……にくい。きらいだ。僕はこんなにコイツを嫌ってるのに。見てると吐き気がするのに。何度も、妄想の中で殺してやったのに。
顔が火で炙られている。熱い。燃える。右目が、死の予感によろこんで震えてる。僕が死にかけるといつでも右目が喜びだす。死の記憶に歓喜するよう出来ている。
「だ……、誰か! おにいさ――」沢田綱吉が何かを叫んでる。
こんなに大嫌いなのに、いつか殺すのに、どうして、僕が心配されなくちゃならないんだ。
ぐらぐらする。吐き気がする。
半年もせずに消えるそうだ。
ホッとしたオレを、彼は喜ぶでもなく、蔑むでもなく、わずかな微笑と共に見下ろしていた。
顔の半分を包帯が覆っている。右目には眼帯。傷の経過を聞くためにリボーンが呼び出したのだ。当の本人は、報告を聞くとすぐにでかけてしまって、オレは骸と一緒に取り残されていた。
開けっ放しになった窓ガラスを、スライドさせて締め切ると、「では」と短い声がした。振り返っても、彼の背中は何も語ってないよう見えた。
先日の放火騒ぎ、犯人は捕まった。
炎上した民家の、お隣さんの一人息子がやったのだ。骸もそれは知っているだろうけど、何も聞かないまま立ち去ろうとしてるなんて、興味がないのかな。あのあと、骸はすぐさま救急車に乗せられたから、詳しいことは知らないはずなのに。
「骸――」
声が、喉から漏れた。
自分で自分の声にギクリとしてるオレがいる。
「……、さん」言いよどむオレを、一応は待つ気があるらしい。骸は、戸口に手をかけたままで眼差しを寄越してくる。右半分の顔のほとんどが包帯に覆われているから、左目の青だけが、鮮明に輝いて動物の目のように光っていた。
「あの……さ。ごめんなさい。あと、ありがとうございました」
「なぜ、謝るんですか」
「オレのせいで、怪我をさせたから」
上目で見ると、骸は口角を指で抑えていた。カサカサの唇だ。
「あ、あと、オレのせいで猫を助けようと思ってくれたんだろ? ごめん。オレが、そういうこと――、その、言ってはいないけどさ、骸がやってくれたらなァって思ったのは事実だしさ。それで、でもそれで猫も助けられたんだし。ありがとう……、って何いってんのかよくわかんないけど。とにかく、オレのせいで火傷を……、いや、だから、とにかく、ゴメ――」言葉の途中だった。
気が付けば、視界に影が差していた。骸が能面を貼り付けて、目の前でしゃがみこんでいた。
その両腕が迷いなく伸びてくる。両足の、腿を抱え込まれた。
「――――?!!」
呼吸が、止められた。
苦しさに目を細めて、慌てて四肢をバタつかせた。骸の左目が、ハッとしたようにオレを見下ろす。一瞬だけだ。すぐに、彼は鋭利な光を宿して両手にさらなる力をこめた。ワケがわからない。骸――は、オレを殺す気なのか。やっぱり、コイツは復讐だけのためにここにいて――?
左右の腿を捕まれて押し上げられて、まるででんぐり返しの体勢だ。両手で掴みかかろうとしたけど、骸まで届かない。おぼろげな声音が聞こえてくる。キンキンと耳鳴りがした。
「きみは……ころして」
足のあいだに割り込んだ骸の体が、緊張している。
「る」か細い声。聞き取れない。何かをブツブツいいながら、骸が両足をさらに割り裂いた。手酷い柔軟体操で、しかも強制で、限界まで足を水平に開かされて関節が軋んだ。
「むっ、くろォ。何して……っっ。やめて! やめてっ、――――っ」
息を呑み込んでいた。ぞっとするような眼差しが見下ろしてくる。
一瞬だけ、だった。骸が首を伸ばす。唇に、カサカサしたものが押し当てられた。風みたいな素早さで、骸が身体を跳ね起きさせた。自分の唇を、まるで汚らわしいものでも触ったというように抑えて、眉間をシワ寄せる。呆然としてしまった。
「礼はまだいいんです――」
言葉を選ぶような、奇妙な間のある言葉だった。
「しかし、どうして謝る。謝るくらいならするな!」左目に怒りを宿して、飛び出していった。
階段を駆け下りる音を聞きながら、ずるずると体を大の字に広げさせた。がっくりとしていた。なんだか、よくわからないが命拾いをしたんだ。あと、もう、骸に罪悪感を感じることもしなくてよさそう。
カァッとした熱で右目が痛んだ。
言葉にできなかった。君は絶対に殺してやる!
叫んだつもりだが、存外に弱々しかった。憎しみだけで人を犯せてしまえればよかった。
むらむらとしたものがこみ上げたとでも言っていい。謝罪をするのか。悪いと思っているのか。僕が君のために動いたとでも。事実は、そうだ、しかし、それをこの少年が自覚して行ったのなら。殺したい。
「むっ、くろォ。何して……っっ。やめて! やめてっ」
悲鳴が中途半端に終わる。
無様な格好で、奇妙な方向に身体を折り曲げて苦しそうに胸を上下させている。沢田綱吉と目があって、また、――もう何度も何度もそうしたように吐き出したい気分になった。
自覚して行ったのなら? 殺したい? そうだ、殺したい。殺してやる。この世界のすべてが破滅すればいい。最後には僕だって死ねばいい。誰も残らなければいいんだ。
「――――」少年が息を大きく吸い込む。その唇がヒュッと音をたてる。
「ぁ……」さざめく程度の悲鳴。何かに気が付いたような。誰のものか、僕のものだと理解したのは、唇に濡れた感触が当たってからだった。少年が茶色い瞳を限界まで見開いた。
正気に返って、怖気がした。なんてものに触れたのか、理解したくない。
吐き気がこみあげてくる。瞬間的に、目眩がするほどに根強く。胃袋が右側にギリギリと締め上げられる。巻きつけた包帯の奥で皮膚が燃えてる。右目が嘆いている。
何かを言わなければならないと思った。
「礼はまだいいんです――」
にわかに、後悔が先立った。言葉選びに失敗したかもしれない。
「しかし、どうして謝る」
沢田に対して、正直に尋ねたのは初めてかもしれなかった。茶色い瞳が硬直している。
「謝るくらいならするな!」 言い切るなり、扉に体当たりをしにいった。階段を転げるように落ちた。
道すがら、見つけた公園を一直線に目指して走り抜けた。コンクリートが、炙られて、薄い蜻蛉をゆらめかしていた。熱い濁流が喉を焼いた。
「うっ……、ぐっ」公園の手洗い場の、セメントでできた壁に額がくっつくほどに顔をよせる。ボトボトと、生暖かいものが喉から直接落ちていく感触が続いた。
生理的なものが目尻に浮かんでくる。胃袋の底まで吐き出して、ようやく顔をあげられたが、まだ感触と記憶とが残ってる。鳥肌が立っていた。ぞわぞわと嫌悪感がとぐろを巻いて胃袋を締め上げる。
恐怖なんてもの、とうに忘れたと思いたかった。でも僕の身体はまだ覚えてる。研究所での日々を覚えている。からだが竦むだなんて。
「はっ……、は、ふ、くふ……」
ぜいぜいと胸が上下する。薄笑いが零れでた。
あの少年に惚れただなんて、有りえる筈がないと思いたかった。
おわり