十五夜
夜空に光がない。
都会の空は、まるで光沢のない絨毯だ。真っ黒で空いっぱいに敷き詰められている。つまらさそうに見上げながら、彼は鼻をヒクリとさせた。匂いだけで、何かわかる。
(肉。……赤ん坊って肉食べれるもんだっけ)
沢田家の屋根はなだらかで、寝転がるようにしながらヒバリは両足を伸ばしていた。
空、光がない、並盛町も変わったのだと少年は思う。風紀委員を用いてもどこまで変異を捻じ曲げられるのかはわからなかった。死んだはずの祖母が脳裏で笑いかけてきた。
(風紀委員の定例会、2回連続でナシにしたのは不味かったな。草壁がうまくやるだろうけど。こころともないし、僕がいかないときちんと運営に手を貸さないやつもいるし)
とたん、と、音がして黒目が上向いた。
ヒバリの瞳は、空と同じように真っ黒いだけで光がない。
真っ白い皿を片手にして、少年が申し訳無さそうな顔をしていた。ハシゴが屋根にかけられて、ゆっくりと登りつめながら沢田綱吉は屋根にのぼる。逃げ腰になって、いささか震える彼の横顔を北風が凪いでいった。戸惑いを浮かべた茶色い瞳を、じっと見てヒバリは鼻を鳴らした。
「何のよう。群れに帰ったら?」
「あの。ヒバリさんが持ってきてくれたんですから」
ボンゴレファミリーの定例会ということだが、今日は、なぜだか焼肉会になった。
ヒバリは肉だけをリボーンに手渡すと踵を返した。ディーノが呼び止めたが、無視だ。そうして屋根に逃げた彼だが、自分の居場所を綱吉がわかったことも驚きだった。顔にはださなかったが。
「別に。それ、ただの貢物だから。丁度昨日届いたから持ってきただけ」
「……おいしいですよ」
うめいて、綱吉がヒバリへとにじり寄る。
警戒した面持ちだ。なにか、反撃があったら即座に逃げる準備はあるぞとでもいうような。
軽いため息を鼻腔でついて、風紀委員長は皿を受け取った。真ん中で肉が山になって、周囲を野菜が取り囲んでいる。遅れて、箸を手渡されてヒバリはカボチャを口にした。焼肉のタレはすでにかけてあった。
綱吉は、やはり警戒した顔をしていたが、それでもヒバリの隣にいた。
黙々と積み上げられた肉を食べる。
ヒバリは肉が嫌いというわけではない。だが、人前でものを食べるのはあまり好きではない。皿の半分ほど食べたところで、ヒバリは、横目だけで綱吉を振り返った。
ボンゴレ十代目と呼ばれる彼は、不思議な直感があるとヒバリも聞いている。
「僕が今、何を考えてるかわかる?」
「何でオレがヒバリさんの行き先がわかったか、とかですか」
くすりとしてヒバリは目を細めた。ニヤ、と、口角が上がる。
「どうかな。正解は秘密だよ」
「ヒバリさん?」
訝しがる声。ヒバリはくすくすとしていた。
(なるほど。直観か。何で、僕は君のそばでは物を食べる気になってるのかな)
肉を一切れ摘んでみる。風は冷たかったが、これしきのことを気にかける神経は持ち合わせていない。ヒバリは薄く笑ったままで箸の先を綱吉に突きつけた。
「届けものご苦労さま。食べる?」
「へっ……。あ、いや、オレはけっこうもう食べて」
「あれ。僕の誘いに乗れないの」
「……?!!」
「あげる。今日は月がきれいだから」
茶色い瞳が途方にくれる。そこに空が映る。
自分は真っ黒だとヒバリはよく思う。外見だけではない。
祖母もまっくろい人だったとヒバリはよく思う。だからこそ並盛町は平和になった。風が吹くたび、シャツに巻きつけた風紀委員の腕章が揺れ動く。視界の隅に映る腕章は、ときおり、きらりと光る。
綱吉の背後に月があるのだ。真っ白い月。真っ黒い絨毯の中に落ちたシミ。
(さて。僕にとって君達は――君はどうした生き物になるのかな)
「食べなよ。……あげるよ」
薄い笑いが知らないあいだに口角を彩る。
ずい、と、突きつけた箸の先を狼狽した眼差しが辿る。綱吉は何かを言おうと――恐らく、苦し紛れの言い訳を――して口をあける。ヒバリは、その一瞬のあいだに迷うことなく箸を突き入れた。
「ぐむぅ?!」
「お肉。おいしいでしょ。僕が持ってきたものだからね」
「なっ。げ、げほっ! ヒバリさ……?!」
月はきれいだ。ほとんど定例句になった月への賛辞を思い浮かべつつ、ヒバリは、うわ言のように囁いた。
「月見は好き? 僕は好きだよ。昔は、よくしてた。家族が生きてた時分はね」
「……っえ。ひ、ヒバリさん。ヒバリさんの家族って?」
「なんだろうね。君は、僕をどういった人間だと感じるのかな」
彼が何を言っても構わなかった。一人遊びのようなものなのだ。が、ヒバリは呼吸を止めた。数秒間だけ。綱吉は困りきった顔をしながら、咥内のものを飲み込んだ。
「強い人だよ。この町で、一番」
茶色い瞳。そこに映るのは黒い空。
だけれど、彼の輪郭を光らせるものは白い月だ。ヒバリは、ほくそ笑んだ。
「僕はね。この町が好きだよ。あの学校も。僕の場所だから」不思議そうな顔をする。綱吉を見返しながら、自嘲するように顎を引く。再び箸を取りながら、今度は、ニンジンを摘んだ。
焼けすぎてへにゃっとしおれてしまう。齧りながら、綱吉を睨んだ。
「いつまでここにいる気? 群れるつもりなら噛むよ」
「――えっ?! あ、ああっ! すいませんッッ」
慌てて茶色い頭が逃げていく。ハシゴの下に消えていったのを確認して、ヒバリは月に背中を向けた。肉を噛みしめ、口のなかで磨り潰しながら空を見上げる。真っ黒い空だ。
(うん。こっちのが馴染む)
多分、彼は、あっちのが。
背後にあるものを思う。ほんの数秒。
一人きりのまま、ヒバリは黙々と残りのご飯に手をつけていった。
おわり