ケータイ深夜

 

 



 

 喉は渇く。お腹も空いた。
 でもこんな深夜だ、母さんを呼ぶわけにもいかないし、布団を手繰り寄せて背中を丸めた。
 風邪を引いてから二日目。ぜえ、ぜえっていう呼吸がやたらと耳に木霊して、知らない誰かの声みたいに感じる。噴きでる汗の原因すら、もうわからなくなっていた。
 体の奥から湧き起こる寒さのせいなのか、それとも熱帯夜に布団に包まっているせいなのか。
 真夏に風邪を引くのは損だ……。
 それでも、なんとかまどろんできて、シメたと思ったところだ。
 枕元の携帯電話が、ブルブルと震えだした。
「…………こ、こんなときに」
 番号を入れてある人間はごくごく少数だ。
 家族と、アルバイト先のセンパイやら後輩やらと、……友達くらい。限定一名だ。ヨロヨロしながら腕を伸ばすと、液晶に映っていたのは、六道骸の文字だった。
 呆然としながら寝返りを打って、天井を見上げた。
 汗が頬っぺたを滑っていって、枕が湿る。通話ボタンを押せば、不機嫌そうな声が鼓膜を突き刺した。繁華街を歩いてるらしく、喧騒も小さく聞こえてきた。
『生きてますか?』
「……、骸さん、今、何時だと思って……」
『深夜の二時。綱吉くん。君ね、コンビニのバイトを休んでるなら、いないってメールするなり何なり……。連絡してくれないと無駄足なんですけど。僕が来ることわかってるでしょ? からかうつもりですか』
「あの、ですねえ。な――んっで」
 何でそうなるんだよ! 叫びかけて、むせた。
 受話器の向こうから身じろぐような気配。すぐさま、強張った声音が追ってくる。
『病気ですか』
「かっ……、風邪ですよ。夏風邪」
『あ、あー、なるほど。綱吉くん、ボケボケしてるから』
「ボケって……、気付いたら声ガラガラで熱でてたんですよ!」
『それがボケてるってことじゃないですか。君のせいでいらない苦労しちゃいました。結局、カップラーメンも買わずにでてきちゃいましたし、お腹空いたままだ』
「買うだけなんだから、別にオレじゃなくて――、もっ。ゲホ」
『わかってないですね〜。君だから、僕はこうしてわざわざ深夜に外出して飢えを凌ごうとしてですね。この場合の飢えっていうのは、ただの飢えじゃなくて――』
「げっほ……、っぐ、げほ! っ、えっ!」
『もっとメンタル的……、な』
 骸さんが口ごもる。
 やったァー。この人を黙らせたのは、初めてのコトかも。
 偉業だ。今日の夜は人類史上初の――、って、堰、マジで止まら、な――。
「えっ、ぉ、えふっ。っがァ、げッ!!」
『…………』受話器の向こう側で、彼は完全に沈黙した。
 これはスゴイ。本気で。でも、勝利に喜ぶヒマはなかった。目の前に洗面器があったら、ツバでもタンでもげろげろ吐き出していただろう。鼻がツンとするあまりに激痛を生んで、目尻から涙まででてきた。
「う、っェ……、ぶふっ」
 鼻をかもうとしたところで、また堰だ。
 逃げ場を失って、二酸化炭素まじりの空気が耳から噴き出た。これ、かなり痛くて気持ちが悪い。ズルズルと枕に顔を埋めて、思わず携帯電話を放り出していた。
『つな――く、――ちょっと――』
 途切れ途切れに、叫ぶような声がする。
 呼吸を繰り返すだけで精一杯だ。右腕に納まった携帯電話を、荒い呼吸をしながら見つめること五分。ヨレヨレとしながら肘を曲げて、耳に近づけると、上擦った呼びかけが続いた。
 耳にキンキンくる。心配してくれてるみたいだけど、その心配が邪魔っていうか……、勘弁して欲しいっていうか。今、ずっと話しつづけられるほどの体力も気力も残ってない。
『綱吉くん? 綱吉くん、ちょっと! 医者はなんて言ってたんです――』
 たかが夏風邪なのに……。医者まで行かなくても。
 なんとか聞き取った部分にツッコミつつも、また目眩がした。遠のきかけた受話器から、切羽詰まった悲鳴が聞こえる。
『何か僕にできることは――』
 さっき、会話にちょっことでたカップラーメンが脳裏に浮かぶ。
「……お腹、すいた……」
 ものすごく魅惑的だ。切なくなってきた。
 あの独特の味、三分でできあがるお手軽さ、とっても手ごろなお値段……。お腹がゴロゴロと鳴くのを覚えながら、通話を切った。まだ何か叫んでたみたいだけど、まあ、いいや。もともと骸さんって、病気とかで精神的に弱ってるときに話してると、逆に病状悪化させてきそうなイメージだし。
 しばらくバイブレーションが続いたので、携帯電話の電源を切った。
 途端、室内がシンとする。心地よい静寂だ。こみ上げてくる堰に耐えて、両眉を寄せた。骸さんと話してよけいに喉が渇いてお腹が空いたけど、寝ちゃえば凌げるのだ。
 鼻腔を大きく膨らませて、息を吐きだす。口からも吐きだす。
 そのまま動かずにいるとウトウトとしてきた。
 寝る前に起きる、独特の浮遊感だ――、ゆらゆらしている。
 ゆらゆらがユッサユッサになって、ガクガクになっていく。首が上下に激しく振れていた。痛いくらいだ。というか、痛いし気持ちが悪い! 眠るときにこんなになるか!
「だああぁあ! って――」
 カーテンが開いてる。月明かりが入り込んで、明るい。
 それよりも人影だ。当たり前のように、オレの肩を掴んで揺さぶる人が居る。
「なぁっ、なげェっ、っ――?!」
 何でここに! 叫ぼうとして咽ると、手のひらが背中を撫でつける。
 すらりとした少年がいる。オッドアイで、前髪を前で分けてる。分け目はなぜか稲妻みたいにジクザク。こんなのは一人しかいない。六道骸だ。
 彼は、眉間にシワを浮かべていた。
 呆れた声音がやってくる。枕元で膝をついて、その手はビニール袋を握っていた。
「熱があるじゃないですか」
「ど、……どして、ココに。ゴホ!」
「タクシー使いました。君は窓にカギ閉めてないでしょ」
 そ、そういうことを聞いてるんじゃない。
 っていうかオレの部屋は二階だし、窓は歩道に面してるから、昇るための足がかりになるモノは何もないはず。混乱に目を見開く内に、オッドアイが曇りだした。演技だろうか。
 ビニール袋が、鼻先に差し出される。
「どうぞ。頼まれたものです」
 頼んだ覚えはないような……。
 視線に流される形で受け取ると、桃入りゼリーとペットボトルが入っていた。
 骸さんを見返すと、彼は無言でゼリーを取り上げてフタをめくった。疲れたとでも言いたげに、皮肉げに口角を歪ませたまま顔を左右に振っている。
「大方の予想はつきますよ。夜中に起きて、お腹が空いたけど頼める人もいないから我慢しようってヤツでしょ。今回は特別ですからね。ホラ、カップラーメンじゃないですど。流動食代わりにゼリーにしてみました。甘いものは疲れたときに効きます」
 よくもまぁ、深夜に窓から不法侵入しておきながら臆面なくベラベラ喋る。
 さすが、常識をどこかに置いてきたような骸さんだ。まだ混乱してうまく思考が働かないけど、でも今は、ちょっとありがたいのも事実だった。オレはペットボトルに飛びついていた。
 半分ほど、飲み合えたところでスプーンがゼリーに差し入れられた。
 極めて自然な動作だ。上半身を起こしたオレの目の前に、スプーンがある。
「はい。綱吉くん、あーん」
「あ……」
 ぱくり。
 なかば、反射で齧りつく。
「今どき、夏風邪はバカが引くって言うでしょ。なんでだと思いますか。夏風邪の大半は、クーラーの付けっ放しや体の過剰冷却が原因で起こると言われてるからですよ」
 オレが飲み込むのを見届けて、またゼリーを掬う。
 ちょっとバカっぽいと思いつつも、差し出されると齧りつくしか道がない。
 だって、冷えてるしツルツルしてるし甘いし美味しいし、お腹を空かせた病人に我慢しろっていう方が間違ってる。骸さんがあーだこーだと呻いてるのも気にならない。
「体調管理がなってないんですよ……。まぁ、深夜にバイトなんてやってる時点で期待はしてませんでしたけど。もっと自分を大事にしなさいー、なんて月並みなセリフを口にしちゃいそーです。この僕がですよ。第一、君はバイト中もボケッとして――」
「骸さん、そっちのモモも」
 はたとして、骸さんが手元を見る。
 半分に切った桃がゴロりとゼリーの海に沈んでいた。オッドアイを半眼にしつつも、スプーンがちょこちょこと動いて一口大になるよう細かくした。半眼のままで、再びスプーンが差し出された。
「……してて、よくクビになりませんよねぇ」
 あそこは、人手不足だから滅多なコトじゃクビにしないんですよ。
 胸中で返答しつつ、口をもごもごとさせる。フルーツゼリーがこんなに美味しいとは知らなかった。もしかして、骸さんだからよっぽど高いヤツを買ってきたんだろうか?
 全部を食べ終えて、ようやく胃袋も喉も一息ついた。
 横たわれば、ペットボトルが枕元に置かれた。なんだかビップ待遇だ。
「ああ。あと、これも」思い出したように、骸さんがビニール袋を引っ張った。
 中から、長方形の小箱を取り出してる。まだ、何か買っていたんだ。骸さんの両手が、白くのっぺらとしたシートを広げた。
「ひえぴた。効くらしいですよ」
「そうなんですか……。ん」
「…………え?」
 くぐもった声があがる。
 目を閉じて、心持ち額を突きだしていた。
 骸さんからくぐもった呻き声が聞こえてくる。動揺でもしてるみたいで、シートを摘んだまま目を白黒とさせてる様子が脳裏に浮かぶ。想像なので、実際はしてないだろうけどね。
「あ、と。僕が?」
「? 食べさせてくれたじゃないですか」
「それは、前もやったことがあるから……」
 ごにょごにょとした声だ。骸さんらしくない。
 前って、ファミレスに行ったときのことだろうか。オレが骸さんに食べさせたんだっけ。目を開くと、ギクリとしたように肩を弾ませてきた。
 驚いた顔のまま硬直してるから、ちょっと見ものだ。
 自然と、ひえぴたに目が行った。近頃、主流になりつつある冷却粘着シート。幼児の熱さましなんかに使われてるし、会社員が息抜きがわりに張ったりもするらしい。
 シートの、貼り付ける方の側にはコバルトブルーの粘着液が染みていた。
 涼しそうだ。体の芯から湧き起こる熱もどうにかしてくれそう。上半身を起こそうとしたら、骸さんは慌てたような声とともにオレの肩を押さえつけてきた。視界が彼のからだで覆われる。
「貼ればいいんでしょ?!」なんて、投げやりに叫んでる。
 体温の低い手のひらが額を探った。前髪を挟まないよう、退かしているのだ。
「ズレるから、動かないでくださいよ」
 わずかに声が震えてる。
「ン……」
 ヒヤリとした感触。
 気持ちがいい。喉を鳴らすと、シートを押し付けていた指が動きを止めた。一瞬だけだ。四隅を押し付けて、張り付いたのを確認すると覆い被さっていた影が遠のいた。
 神経質に長いため息がした。見れば、骸さんは自分の膝頭を見下ろしていた。奇妙に思えるくらいにジッとした凝視だ。オレの視線に気付くと、彼はパッと膝を伸ばした。
「そろそろ行きますから! 僕だってヒマじゃないンです」
「あ……、玄関から。せめて」
 実は、半分寝ぼけてきていた。
 窓辺に寄って、骸さんの横顔が月明かりに強く照らされてる。やたらと真っ赤になってるよう見えるけど、オレの視界もけっこう真っ赤だ。熱がでてきてる。恥かしくなるくらいの気分だった。
 詰まったような声が、口早にうめき返した。
「それは、ちゃんとした訪問の時に」
「ああ、そうですか。ハイ」
「それじゃお大事に」
「ハ〜イ」
 窓枠に足をかけて、骸さんが夜のなかに身を乗りだす。
 出た後に、また窓まで閉めるんだから器用な人だ。足音が遠のいて、消えて、静寂が戻ってきた。やたらと頭を回ってた高熱が引いてきたのはそれと同じ頃だった。
 ……風邪のせいだろうか。骸さんが、ちょっと心強く思えてきた。
 まだ、熱があるに違いなかった。 寝返りをうった。









06.08.16

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>つぶやき(反転)
骸さんが教えてもいない自宅を知ってる件については思い浮かんでいない綱吉さん