ふたり



 腕を伸ばしてみてから後悔しても遅い。それはわかる。けれどもヒバリにはそこから先がわからなかった。殴ってみたけれど何も変わらない。

「ちょっと。ウチの学校には家政婦さんとかいないんだけど」
 やがて、諦めてヒバリは早口で告げた。黒目を寄り合わせて唇を尖らせる。不機嫌を知らせる為のポーズだ。相手は顔面が崩壊しているので見えないかもしれないが。
「困るんだよね……。救急車呼ぶ前に沈めてやってもいいんだよ。霊柩車のがお好みとでもいうつもり」
 がぁん! 壁に向かって蹴ってみる。ビクともしない。靴底と壁とに挟まれた頭蓋骨の話だ。
 ヒバリは気鬱にため息をついた。壁に飛び散った赤い斑点を見るのがイヤになってきた。床のカーペットも血だらけで、すでに八人もの男性が倒れていた。腕組みしたまま、まだ意識があるはずの男の頭蓋をぐりぐり壁と足裏とで捏ねてみる。悲鳴もない。つまらなかった。
「清掃代、要求したくないな。君たちとは関わりたくないよ」
 男のアロハシャツを見下ろす。彼の懐からサイフを抜いたところで、応接室の扉が開いた。
「ヒバリさーん、帰りまうぎゃあああああ!!」
「まうぎゃ?」
 呟きながら、見つからない内に素早くサイフを仕舞い込む。仮にもヤクザものなんだから、十数万は――、いや、カードが入っていれば壁と床の掃除代はなんとかできる。ヒバリは男の頭を蹴ってソファーに向かった。カバンを拾う。
「帰ろうか。遅いよ、綱吉」
「え、えええ?! なんですかこのスプラッタ! 血! 死体!」
「生きてるよ」
 いささか呆れながら、床に落ちてる一人を小突く。
「返事がないですよ?!」
「返事がなくても生きてるヤツは生きてるよ。呼吸してるんだから」
 腕を引けば、抵抗はあったがそれでも沢田綱吉は従った。怖気づいたようにヒバリを見上げる。その視線を、横目で見返して携帯電話を取り出した。相手は草壁だ。早めに処理をしなければ明日は血臭の中で仕事をしなくてはならない。
「死体だらけね。そんな変に興奮するシチュエーション、ごめんだね。今はそういう気分じゃないよ」
「何なんですかヒバリさん。怖いですよ……?!」
 校門を出ながら、ヒバリは肩を竦めた。
「匂うかな。血を感じる?」
「?! いや……、ていうか、ヒバリさんあれだけ暴れてたのに血がついてないんですか? においだけ?」
「切り裂いたわけじゃないからね。口から血はでるけど」
 それくらいなら、避けられる。暗に告げられてツナは目を丸くする。口角がひくひくとしていた。
「あ、あんまりそーゆーのやめてくださいよぉ……。おかしいですよ」
「僕も降りかかる火の粉は払うからね。そういう方法をもって火の粉をかけてくる相手にはそういう方法で払ってあげるの。理屈が通ってるだろ?」
「ビッミョーにオレのことごまかそうとしてません?!」
「さぁねえ」
 いつも通りに右から左に受け流して、鼻腔を膨らませた。自分では血のにおいは感じなかった。不意に、ツナは足を止める。数歩を過ぎてから振り返る。黒目に冷ややかな光が混じった。
「綱吉。帰ろうよ。僕は、綱吉を送り届けるまで帰れないから」
「ヒバリさん。なんであんなことになってたか知りませんけど、でも、やっぱり相手が誰でもあそこまで酷くするのはよくないですよ」
「そうだね。そうかもしれないね」
 気のない声にツナは苛立ったように唇をすぼめた。
「オレの話、聞く気がないでしょう?!」
「それはないよ」
(ただ僕があいつらを許すことがないだけで)
 深く息を吸い込んで、肺の半分ほどまで吸ったところでヒバリは呼吸を止めた。ため息をつきかけていた。それに気付いて、取り消すように静かに細く息を吐き出した。
(イライラしてるのかな)周囲に人はいない。住宅街の向こうに夕焼けがにじむ。そう、と、肩に手を置いた。ギクリとしたように触れたところが強張る。
 腕を伸ばしてみてから後悔しても遅い。それはわかる。
「綱吉……。君の声だけだよ。だから、あんまり僕を責めないでくれるかな。自分で衝動が抑えられる人間だったら、初めから、僕はこんなところで今みたいには生きていないんだよ」
 あまり饒舌な輩ではないとヒバリには自覚がある。ツナもそれは知っている。沈黙した唇を軽く掠めてみても戸惑うように後退るだけだった。実際、人を殴って嬲って陥れてもヒバリはあまり後悔しない。後退りした分だけ距離を詰める。獲物を追うような残虐な気分は数秒だけの夢だった。
「ヒバリさんだって怪我するかもしれないじゃないか」
 後退りを諦めてツナは言う。ヒバリはくすりとする。
「何も変わらないんだよね。殴ってみても同じだよ。あんまり気にもならない。でも綱吉がそういうなら」
 主語をつけないのはヒバリなりの逃げだ。ツナにもそれはわかる。
「…………」「…………」
 流れていく風は、やわらかいので前髪すらはためかない。沈黙のあいだにヒバリは決めた。ツナの首筋に骨ばった手のひらが押し当てられる。先程よりも深い口付けの後に囁いた。
「僕の家、くる?」
「…………。いい。遠慮します。帰る」
「あ、そう。じゃあ送るよ」
 ツナは複雑そうにヒバリを見上げた。
「オレ、女じゃないんですからね」
「わかってるよ、そんなこと」
 納得できない様子だったが、何も言わない。ふと虐めてみたくなってヒバリはニヤリとした。
「僕は男だよ。女じゃないよ」
「わかってますよ!」
「じゃーなんで赤くなるのかなー、綱吉は」
「放っておいてください!」
 風がついに止んだので、代わりに、なびいて見えるふうにツナの髪を引っ張った。迷惑そうに眉根を寄せる様子を楽しんでいた。その胸ポケットで携帯電話がバイブレーションを続けていた。
 着信だ。少年を家に送り届けてから、電話を折り返すつもりだった。

 

 


おわり




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