しるしかあいか

 


 傷口に塩を塗りこまれた気がして心臓が止まった。跳ね起き、真っ先に右目を抑えたことに気付いて愕然とする。
「ひやあああああああ!!!」
 激痛を放つのが眼球の真ん中だ。全身に震えが走る。重大な個所が重篤な痛みに襲われしかも手足がびくびく戦慄くほど酷く痛む。目の粗い塩粒が混じったようで、細かな異物が眼球を削り立てる。痺れと熱が目の裏を通って脳天を刺した。火掻き棒で右目を貫き脳を引っ掻き回されるようで、
「うわっ、あっ、ああああああああああ」
 自制できずに口角から唾液を漏らしていた。
「あぐうううっ、うぐううう、あはっ、あっあああああ……、ひっ、いあっ、あっ、あああああぁぁ」
 ベッドシーツを掻き毟り、終いには壁を掻き毟って沢田綱吉は両目を開けた。激痛の中で寒気が走った。掻き毟った相手は壁ではなく少年の背中だった。
 綱吉は夢中で彼の背中にしがみ付いた。右目から血が溢れて顎を垂れて喉を赤くする。
「もういいっ!! もうやめてえええ!!!」
「二分過ぎた程度ですよ」
 沢田綱吉の寝室で、六道骸はベッドに腰かけストップウォッチを片手にしていた。その頭部に稲妻模様の分け目は無かった。髪先はいくつかの束に分かれて濡れている。首にタオルを引っかけて、ホワイトカラーのパジャマを着込んで片膝をベッドに立てる。
「僕の苦しみはこんなもんじゃなかった」
「…………っっ、っっっ、ぁっ」
 骸の背中に顔を押し付けつつ、綱吉が全身を痙攣させる。骸の背中にツメを立てたままだ、白ばんだ指先がパジャマを裂いて肌に食い込んでいく。骸は、背中をがりがりとやられても平然としてストップウォッチの液晶を眺めていた。
「もうすぐ三分です」
「痛い痛い痛い痛い痛いいた、ひっ、いたひいぃいっ!!」
「まだ」
「あっ、ぐっ、あがああ!」
 綱吉のツメが背中の皮膚に潜りこむ。骸の背中は赤いラインで埋め尽くされていく。
 背中を叩かれる度に体が揺れるので、前後に髪を揺らしていた。
「三分三十秒」
 冷静に告げると、気が狂ったような叫び声と共に首に手が回った。
 骸はようやく右目で綱吉を振り向いた。
「あ、ああっ、あ、ああうっ、ひぐっ、ぎっ、ああああぁあああっっ……あっ……あああ、ぁい、いっ」
 首を折りうな垂れるので骸からは綱吉の顔が見えない。綱吉は、唾液をシーツに垂らしながら硬く目を閉じていた。ビクビクと目蓋が痙攣する。閉ざされているのは左目のみで、異常を訴える右目は、目蓋がおかしくなったように小刻みに上下に戦慄いていた。赤く染まった眼球がある。
「らめっ……ええぇえっえっいだああっ……。あっ。ぐゃあうっっぐっあっ……」
 掠れた悲鳴と共に、首を握る手に力がこもる。綱吉を見下ろすオッドアイは憐憫も憤怒も見せずに冷然とした。首の皮膚が捩れて赤い線が引かれる。ツメが食い込む個所から血が漏れる。
「……よっ、」
 四分。告げようとしたが首が絞まるので喋れなかった。
「らめえええ、はふえ、はふえへぇ……!」
 体が傾いで綱吉が骸にもたれた。首を締める手がそのままだが一瞬で力が抜けて、右目を骸の肩に押し付けてぐりぐりぐりぐり眼球を抉るように押し付ける。
「いらいいらあああぁあぁぁぁあっ」
 けほけほと軽く咳き込み、六道骸は綱吉の手を解いた。
 指の第一関節までが真赤に汚れている。骸の血だ。その手を自らの右頬に宛がい、獣のようにしなやかな動きで体を返して腰を抱いた。綱吉の前髪を掻き分けるついでに額を強く圧す。がくりと首が後ろに折れて顔面が露わになった。
 元は澄んでいた瞳孔が赤い。瞳孔を囲っていたライトブラウンも血に塗れ、さらに周囲を囲う白色膜も染まる。下まぶたを乗り越えて血が流れ出し顔の片側を塗らしていた。骸は、綱吉の首を仰け反らせたままで、まじまじと赤く爛れた眼球を観察した。
 途切れ途切れに、うー、あー、だとかの悲鳴が漏れる。綱吉は唇を痙攣させて、金魚のようにぱくぱくとさせていた。
 やがて六道骸は悦に入った笑みを浮かべた。
「角膜……ズタズタになりましたね」
 ストップウォッチを脇に置いて、あぐらを掻いた上に綱吉を抱き上げる。綱吉は無抵抗で体を投げ出していたが、
「ふ――、ひれ……あぁあぁぁあ」
 弱々しく己の右手を掻き寄せ右目を抑えた。骸はその手の甲にキスをした。
「隠さなくていいんですよ。五分も過ぎたし骨身に染みたでしょう」
「あ、あぁ、あああああああ」
 手首を掴まれ右目から外されて、綱吉は半ば発狂したようにうめき続ける。左目が見開かれていた。涙が引切り無しに肌を伝う。
「痛いのはもう終わりですよ。助けてあげます」
 人差し指の腹が眼球を圧した。
 綱吉がギクリとする。直後、
「うぐぅあああぁぁっぁあああああ!!!」
 頭の中が沸騰したように感じて絶叫した。断末魔が尾を引く。左目も右目も限界まで見開いて戦慄いていた。背中を折るほどに反らせるが、それに逆らって骸が強く腰を引く。人差し指を眼球から離した。六道骸は固唾を呑みこみ喉で震えた。
「……美味しそうだ」
「ああぁぁあっっ、あーっ、ひ……ぎぃ……ぐあぁあああうっうっ、あ、あぁああああああ」
 唾液を垂らし両目を見開かせ綱吉が硬直する。その赤く爛れた右目には刻印が刻まれていた。六道骸の右目にある『六』の文字とは違った。
「忘れないで下さいね。君は僕のエサだ。沢田綱吉。永遠に呪ってあげますよ」
「あ、あっ、あっ」
 脳がおかしくなって綱吉は言葉が出ない。焦点の無い瞳をまじまじと見つめ、綱吉の右目に刻まれた文字を見つめ、
「……君が愛しいですよ……」
 六道骸は唇を左右に引いた。鬱蒼とした眼差しには純粋な思慕があったが同時に鬱々とした深淵が切れ端を見せる。
 沢田綱吉は自失して首を折ったまま動かなくなっていた。
 それを頭を左右から抑えて真っ直ぐにさせる。
 下から掬い上げるようにして額を合わせたまま、骸は少年の顔を見上げた。片側を赤くして右目を赤く光らせて我を失っている。漏れる言葉はほとんど廃人のものに等しい。
 満足して骸は微笑んだ。
「おやすみなさい」
 そう、と、両手を胸の前にした。綱吉の鼻先まで運ぶ。
 ぱあん! 強く叩き合わせる。
 沢田綱吉は、両目を剥いて間近の骸を見返した。骸も見返す。両者の瞳は真正面からぶつかり合っていた。二人は頭から布団を被っていた。沈黙が最高の演出になって綱吉を追いつめる。やがて、綱吉は赤面して布団から顔をだした。
「や、やっぱやめた!」
 骸も遅れて布団から顔を出す。
「なんでですか?」
「おまえが何度もしつっこく聞くからだよ! しか、しかも、何でこう肝心な時にゃ黙りこくって……!! 恥かしいだろ?!」
 ベッドの上であぐらを掻き、両手をワナワナさせつつ脂汗を掻く。
 骸は、綱吉の背中にぴっとり体をくっ付けた。
「綱吉くんをじっくり見たい気分だったんですもん。いつになったら脱ぐかと思っても全然脱がないんですね」
「何なんだ何なんだっ、し、しつこかったくせにいざとなったらオレに任せるってのか?!」
「…………」
 振り向き、早口で捲し立てる綱吉に骸は曖昧な笑みを返した。唇は笑っていたが目が笑っていなかった。
 横合いから伸びた手が、綱吉の額を掻き揚げ右目を露わにさせる。澄んだ瞳だ。ライトブラウンが闇の中でも明るく在る。
「な、なんだよ、今更ご機嫌取っても今日はしないっ。永久にしないっ!」
 綱吉がフイと顔を反らす。なので、骸が陰鬱に唇を窄めて空気を震わせたのには気付かなかった。
「しましょうよ。初えっち」
「もうそんな気分やめるっ!」
「言ったじゃないですか。全てをわかりたいって。僕の苦しみをわかりたいって。一つになってもいいって……そう言ったこと、忘れないですよ。ずっと覚えてますからね」
「粘着質な迫り方をするなーっ!!」
 顔を押しのけられて、骸は肩を竦める。
「執着したくなる気持ちもわかってくださいよ。さっきは最高でしたよ。もう一度かわいくねだってください。今度は、ちゃんと、やってあげますから」
「それ……、やたらと、アゲマスとか、自分本位な言い方がムカつく……」
「じゃあ、やらせろ」
「それもなんか違うーっ?!」
 肩を取られてベッドに引き倒される。くすくすとして、骸がふざけるように体を撫でた。指先がパジャマの襟元に伸びて止まる。オッドアイがジッと見下ろした。誘うように、少し高慢に細くしなる。
 骸はひたすらに綱吉の右目に視線を注ぐ。
「綱吉くん……。僕を受け入れてくれるんでしょう」
 すぐには返事が無かった。が。綱吉は、最初に答えたのと同じ言葉を囁いた。
「骸さん。好きだよ。骸さんの好きにしていい」
「……ええ」
 低い声で応えて、開いた胸元にキスを落とす。もぞもぞと動くうちに、綱吉が身を捩った。骸の髪が肌とこすれてくすぐったい。と、
「あ?」肘に硬い物が当たって、綱吉は瞬きをした。
「なにこれ。ストップウォッチ?」
 六道骸が顔をあげる。ほとんど同時に綱吉は眉間を皺寄せた。手中のものが、砂のように解けて無に帰る。驚いた末、綱吉は骸を睨みつけた。
「骸さん……。いつから悪さしてた?」
 露わにした肌を指で辿りだす。骸の手つきが特に卑猥だったというわけではないが、
「んっ?」びくっと腰が跳ねた。
 薄く笑みを浮かべながら、骸は綱吉の右目を見た。ライトブラウンの奥で俄かに光明が潜む。血の色が滲み出し、死者を示す刻印が浮かび上がる。
「後にしましょうよ」
 六道骸は、自分と同じ名を見つめて、笑みに生ぬるさを混ぜた。


おわり





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