サイレント

 


 雷鳴が届く。綱吉はおぼろに考えた。
(ここはどこだ……。今は、何時くらいだろう。夜? 深夜? それとも朝。昼間。お腹空いた。今に始まった話じゃないからちっともわからん)
「空も君を歓迎してるんですね」
 男は鎖の先を掴む。だらりと、真ん中をたるませて、銀色の金具が二人の男を繋いでいた。片方の男の首をぐるりと巻いて絞める。彼は、肩まで伸びた頭髪を揺らして気だるげな視線を向けた。かしゃり。首を絞める鎖に手で触れる。
「ついに殺す気になったの?」
「違いますよ。一緒にご飯でもと思って。そこまで衰弱したら僕に歯向かう気がなくなるでしょう」
「…………」
「それに」男は妖しく含み笑った。
「戦意喪失してる君は美しい」
「むくろ……」伸びた前髪の奥で茶色い眼球が怒りを滲ませる。それすら嬉しげに覗き込まれた。それから、歩く。彼らは螺旋階段を昇る。六道骸は一定の歩調を保って歩きつづけた。手中の鎖をからかうように高鳴りさせる。
「一生懸命についてこないと、首が絞まりますよ」
 ホールにジャラジャラした音色が響く。骸は紳士を気取って一歩一歩を優雅に進む。二人は共にタキシードを身に付けていた。六道骸は胸にガーベラを差す。
 ホールは吹き抜けになっていた。直径五メートルほどのガラスが天井の真ん中にある。外を透かして、今は土砂降りの流線を写していた。時折り、白い閃光が駆け抜ける。そうしてまた雷鳴が響く。二人が昇り続ける螺旋階段は天井へ繋がっていた。屋上があるのだ。
 不意に膝が折れた。沢田綱吉の体がずるずると階段を滑る。
「死にますよ?」
 骸は微笑んで警告した。
 咄嗟に四肢を力ませて誘惑に耐えた。重力は、科学的名称の下に甘美な死をくっ付けて綱吉の到着を待っていた。誘惑から抜けるには昇るしかない。
(ちくしょう……)昇ったところでどうなる。先で待つのも死に似たものだ。
 片足を引き摺りながら、新しく一段を昇った。
 屋上には豪雨が吹き荒れていた。
「せっかくの正装が台無しだ」
 嬉しげに叫んで、骸は一直線に歩き出す。
 広々とした平面が続いていた。まるでコンクリートビルの屋上だ。屋内は豪勢だったため、綱吉はどこぞの別荘を想像していた。
「どこだ、ここは……」
「君の知らない場所。それで充分でしょう」
 クスリと笑って鎖を引く。綱吉はビルを取り囲む森に目を奪われていた。
(来た時、飛行時間は短かった。イタリアからそう遠くない。孤島……? あれは海じゃないのか?)
 森の切れ目が黒くなっている。悪天候が錯覚を引き起こすのか、夜の海が波打つのか。透かし見ようと目を細めたところで、六道骸がひときわ強く鎖を引いた。
「っ!!」べしゃりと伏した。体が横滑りを起こす。
 骸は鎖だけを手繰り寄せて綱吉を呼んだ。がつっと彼の革靴に後頭部をぶつけると横滑りが止まる。綱吉は即座に首の鎖を引いて咽込んだ。
「充分だと言ったでしょ」
 つまらなさそうに告げて、骸は扉を開けた。
 屋上の一角にガラス製の温室があるのだ。手動でレバーを上げれば橙色に強く灰を混ぜたような光が広がる。温室の天井に、三つの電球が並んでいた。
「考えごとがある時はここにくる。秘密の花園ってわけです」
 電球の下に長方形のテーブルがあった。フランスパンに七面鳥、スープ。銀製の食器が並ぶ。レストランのディナーを模したやり方だ。綱吉の喉が自然とゴクリと鳴った。
「我慢が効かない子ですね」
 面白がりつつ、綱吉の背中を押した。
 テーブルの端と端とで向き合う形で着席することになる。六道骸は照明を極小に抑えた。ガラス戸の天井を滑る雨は光を閉じ込める。蛍の光を十個ばかり集めた程度の明るさになった。
「野獣みたいにがっついちゃダメですよ」
 椅子にへたり込んだまま、苦しげに腹部を抱える綱吉に骸が顔を近づけた。鼓膜に息を吹き込むように、一語一語に熱を込める。
「主賓なんですから。上品に、ね」
 スゥッとタキシードの胸元にガーベラが差された。白い。
(た、食べたい)背後に迫る宿敵に鳥肌が立つ。綱吉の体がぶるぶると震えていた。振り返って骸の頭を殴る。それならできる。けれど一撃で仕留める自信が無い上に極度の空腹が邪魔をする。生理的な欲求と心理的な欲求とがぶつかる。顎から脂汗が落ちた。
「や、やめろっ……」
「さっき、戦意を喪失した君は美しいと言った。でも憔悴してる君のがもっと美しいと思うのですよ。あぁ、汗でびしょびしょ。これが邪魔なんですよね」
 前髪を掻き揚げる。綱吉がギクリとした。
 左のこめかみを垂直に昇った先で、髪留めが嵌め込まれた。綱吉の前髪を束ねて固定する。……どくどくと激しく心臓が伸縮する。パチンッ! とした衝撃を銃声と聞き間違える程に緊張していた。無事を悟っても筋肉が解れない。心臓が倍速で鼓動を始める。
「……う……」指先は引き付けを起こす。
 隠そうとしたのに気付いて、骸が綱吉の指を握り締めた。往復で撫で付けてほくそ笑む。
「細くて可愛い指ですね……。でもこれで何人殺したんですか」
 ぐっと下唇を噛む。六道骸は最後まで綱吉がボンゴレ十代目に就任するのを反対していた。四年も昔の話になるのか。
「可愛い人。でも君は残酷だ。僕と同じ」
 かくかくっ。痙攣する指先を握り締めてやりながら、骸は顔をあげた。綱吉のこめかみを舐めて、眉尻を辿って唇を滑らせる。
「汗と雨が混じってますね。両方ともゴミだ。汗は君の体の老廃物を含んでる。雨は下界に落ちて穢れたものが蒸発したものでしょう。綱吉。そうですね、僕はこの味が好きになれそうだ」
「う、っっ」下唇を強く噛むが意味がなかった。
「おや。涙まで。ええ舐めてあげますよ」
 べろりとさせて、骸は鼻を鳴らした。歓喜を訴えるのだ。片方の掌で綱吉の腹部をまさぐる。綱吉の顔面を弄ぶ傍ら、ずっと押し付けていた。
「胃袋がずっと動いてますね。お預けはつらい? 君の体は口より正直なんですね。そろそろ、焦らすの止めてあげますよ」
 テーブルの真ん中にはキャンドルがある。
 火を灯すと、向こう側に回ってグラスにワインを注いだ。着席すると、骸は綱吉にグラスを向ける。
「乾杯」一礼して、ぐっと飲干した。
 素手でチキンを鷲掴んだ。肉を引き千切るのに夢中になる。フランスパンも切り出されたものでなく、中央に置いてあったものを掴んで直接噛み千切った。六道骸は食い散らかすのを静かに見守り、時折りスープだけを口にした。
「僕の分もどうぞ?」
 げほげほと咽込んだところで、骸の言葉だ。ハッとした。
 慌てて口角を拭い、ナプキンで顔を拭く。スープの飛沫でぐしゃぐしゃになっていた。テーブルの上が綱吉の側だけ悲惨に乱れていた。スープ皿が床に落ちて木っ端微塵、横転したグラスによりテーブルクロスが濡れている。食べカスが四方に散らばっていた。
「…………。すまない」
 形式上の謝罪をうめく。席を立って水差しを掴んだ。こく、と喉が上下する。骸は柔らかに微笑みかける。何かの誘惑を行うかのようだった。
「久しぶりだからもっと食べたい筈ですよ」
「おま、けほっ! げほ!」咽た。胸元を抑えつつ睨む。
「何を考えてるんだ? オレをこんなとこに連れて何をするつもりだ? 骸。異常だよ。毎日、本を読み聞かせるだけで……。オレに何もしないで」
「ほら、あげるって言ってるんですよ」
 パンの一切れを掴み、投げる。綱吉は片手で捕まえた。
 強く睨みつけながら、数秒のうちに胃袋に落とす。綱吉は渋々とテーブルに片膝を立てた。
「……それじゃ、遠慮無く」
 最初は遠慮気味にパンの切れを取るが、骸が全く動かないことを学ぶと大胆になった。キャンドルの位置から肩がはみ出す。結局、スープ以外のすべてが綱吉の手に渡った。
「マジに何考えてんだ?」
 チキンをがつがつ貪りつつ綱吉が警戒する。
「僕は、僕のことしか考えませんよ」
「まぁ、そうだろうな」
 冷めたスープを啜る。六道骸は物音一つ立てなかった。
「君のことを考えた時期もあった……。そう。報告があるんですよ」
「ボンゴレのこと?」
 骨から肉を引き剥がす。口中で噛めば噛むほど肉は柔らかくなる。組織の中から肉汁が染み出てくる。ゴクン、と、呑み込んだ時に骸が告げた。
「ボンゴレ十一代目は出ない。頭首の血縁は死んだと見なされた。ザンザスをボスにする案は、君ほど柔軟に懐柔できない為に却下されました」
「…………。おい。おまえ、まさか」
「そうですよ。僕はボンゴレファミリーの一員です。霧の守護者を辞めてると思っていたでしょう? 違います。僕はまだあの亡者の巣で生きてる」
 綱吉がガタンと席を立った。
「オレをみんなのとこに戻せ!」
「ダメです。そして話は最後まで聞きなさい」
 一喝に怯んで、だがすぐ綱吉は悔しげに拳を握った。骸は突き放した声で告げる。
「言っておきましょう。僕を殺すつもりがあるなら無駄です。このビルの扉は暗号で閉じてある。僕しかパスワードを知らない」
 綱吉は荒々しく席についた。再び水差しから直接に水を呑む。骸は苦しげに眉根を寄せた。
「昔の綱吉だったらこの報告を喜ぶと思いますよ。ボンゴレファミリーは血族以外の男を頭首に据えました……。獄寺隼人が君の代わりを勤めてる」
「隼人が」
「そう。今、君が戻れば彼は喜んで席を明渡すでしょう。しかし君でなければならない理由は消えた」
「…………。信じられないな」
「これが僕の嘘だと言いたいのですか」
「ああ。おまえなら、言うよ……」
「…………」ゆっくりとテーブルに肘を載せる。六道骸は、両眼を細く窄めてみせた。唇が躊躇うように開閉を繰り返す。やがて、小さく問い掛けた。
「君はさぁ、僕がどうしてこんなことをするのか、本当にわからないのですか?」
「心当たりは一つあるよ」
「言ってみなさい」
「昔は何が何でもマフィアになりたくなかった」
「そうですね。そうでしたよ、君は」
 綱吉が額を抑えた。歯噛みして首を振る。
「本気にしちゃ駄目だよ、骸。考え方なんて変わるものなんだ」
 六道骸は頷くことも無ければ首も振らなかった。キャンドルは四分の一ほどに縮んでいる。おぼろげな光が辺りを揺らす。天頂は雨で覆われて空の向こうでは雷鳴が吼えたてる。
「僕は、僕なりに幸せになれると考えました。そういう時期があった。当時の君の態度が僕にとって救いになっていました。でも、君は、僕が期待した通りには成長しなかった……。薄汚れた鼠の一匹になった」
「ボンゴレを変えたいと思った。その使命はお前の希望に添わなかったか?」
「殺して欲しくなかった」
 搾り出したようなダミ声だった。骸はうな垂れた。
「何を考えているかだ? 何が目的だって? ここにきてから何度同じ質問をしたのですか。いいですよ教えてあげますよ。でももう後戻りはできないのですよ」
 雷鳴が落ちる。告白の最中にも落ちた。辺りが白く染まる度、骸の言葉を聞き逃すような錯覚に襲われた。確かに聞こえている。だが、頭がそれを受け付けない。
(そんなに純粋だったのか)ようやく辿り付いた言葉が胸を刺す。綱吉は脱力して背もたれに体重をあげた。頭がずきずきとする。急激に貪り食った為か、胃袋が引っくり返りそうな程強く捩れている。気持ちが悪い。
「何を考えてるんだ。目的は……?」
 口元を抑えつつ、うめく。骸の答えは寧ろ哀れに感じた。
「君と穏やかに過ごしたかった。それだけです」
 片手を杖代わりにして額を支えた。そうでないと卒倒する。異様な気持ち悪さで失神しそうだが、ここまでくれば、心理的なものが原因だとわかる。頭の中も体も骸の言葉を否定したがっている。
「やめろよ。骸」
 腕ががくがくとしていた。どう取り繕っても裏声しか出ない。
「そんな……、冗談を、いうのはさ、泣けてくるだろ」
 骸は体を硬くして目を反らしつづけている。元頭首の目尻に涙が溜まる。
「骸……。なんか言って。黙らないで」
 返答はなかった。やがて、キャンドルが潰えて、光が最小に近づく。雷が幾度も落ちる。温室を隅まで白くする。雨が、ガラスの上を滑り落ちて地表を目指す。
 あと一つ。確かめたい。ようやく震声がこぼれた。
 綱吉は大いに歓迎した。だがすぐにまた途方に暮れた。
「君は、あの時期、僕を愛していませんでした?」
 骸への憎しみが道を失って体内を荒らすのだ。競り上がるものを堪えて目を閉じる。雷が起こす白い波が見えなくなる。代わりに、しばらくすると、誰かの指が頬に触れた。しきりに唇を撫でられる。綱吉は首を振る。
「黙れよ。やっ、ぱり、だまってろよ、骸……ッッ」
「傷を抉られますか。僕もだ」
 冷静に返すようで骸の言葉も戦慄いている。
「時間は巻き戻らない。そればかり考えた。だから、僕は君をここに連れてくることにしたんですよ」
 綱吉は無理やりに思考を止めた。唇に触れるものの正体は考えない。とうの昔に終えたはずの片思いも思い出さない。


おわり





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