※初代ボンゴレと初代霧の話です

 

 

 

 

 

Sicilia

 

 

 湿った部分を優しく擦り上げて愛撫する。
 別に卑猥な悪戯をしてるわけじゃない。彼は霧に包まれた林中で木登りを続けていた。山上の丘で、数本の大木が森の絨毯を突き出しているが、そのうちの一本だ。新緑も幹もすべてが過多な大気の水分でしっとりとして、背中を包むマントも短く切った前髪も水を含んでてらてらとする。
 あばら家は太枝に乗っていた。幹の一部であるかのように苔むして風景に馴染む。巨漢の胴回りほどもある野太い枝葉を足場にして、同じく野太い丸太を橋掛け、その上に建設していた。土地柄、雨が少ない地方だからこそできる荒業だ。鉄筋の上にヒョイッと乗り上げ、バシバシと硝子窓を叩くが、
「……いるんだろ! 開けろよ!」
 歯噛みした。暗い中で、一つだけランプの灯りが見える――だのに返事はない。遂に、彼は拳を思い切り叩きつける。ガシャアアン、と、いう粉砕音にも家主は振り向かなかった。
 外に負けず劣らず湿気でじめじめした場所だ。おざなりに戸棚とベッドがあり、小さな箱に衣服が投げ込んである。
 ボンゴレは、湿気でしわしわになった歴史書をめくる青年の背後に立った。彼は侵入した窓とは別の窓の方に椅子を向け、深く腰かけたまま背中を丸くする。
 濡れ髪を掻き揚げ、苛立ちをぶつけた。
「返事くらいしろよ。いるんじゃないか」
「この窓から来たら撃ってました」
 青年は平坦な声で返事をする。椅子に向かい合うテーブルにはテキーラの瓶が置かれる。横に並ぶのはグラスではなくピストルである。
 歴史書のページを新たにめくり、青年は首を傾ける。
「訪問者なんて五年ぶりだ。復讐をやりに?」
「ちがう。前までの喧嘩はもういいんだ。パルパの葬儀は終わったから水に流してやる。それよりおまえ、3月30日の話を知ってるか」
「下世話な話は好かないが新聞はたまに読む」
 ページをまためくる。異様なハイスピードで青年は読書を続けていた。
 じれったさに耐えかねて歩み寄るが、
「来るな。僕の居場所を当てたのだけは褒めてやりますがそれだけです」
 青年はピストルを手繰り寄せた。ボンゴレは立ち止まって眉根を寄せた。喉が独りでにため息を通す。
「人嫌いは相変わらずか。一人でテキーラは寂しいぞ」
 ジロリと黙って睨む両目。青年の両目は色素異常を起こしていた。左右で色が違う。フランスとシチリアのハーフである彼が、実は人種問題よりも外見的な理由で迫害を受けていることをボンゴレは既に調査済みである。青年は黒衣で首から足首までを覆って亡者のような姿だ。
 恨みがましい眼差しを向けてきた。そうしながら、動作だけは気の無いフリを装って気だるげに頬杖してみせる。睨み合いは数分に渡った。
 やがて、ボンゴレはそろりと歩み寄る。
 遂にテーブルの前に立ってテキーラの瓶口を握り締めた。
「呑んでいいか? 唇だけでも湿らせたいんだ。木登りなんて馴れないことしたから喉が渇いたし。おまえ、よくこんな上空にアジト作ったな」
「ふん。自治区の管理はどうしました。君が後継でしょう」
「あれは、従兄弟に譲った」
 左右で色の違う瞳が、ぎくりとして見開かれた。
 青年二人は体中にじっとりした汗玉を浮かべる。緊張がさらに高まり、二人は共に糸で綱渡りをするのと似た心地になる。均衡が崩れれば死すら有りえた。二人、共に射撃の腕がある。
「譲る? 僕は仕事を間違えたということですか」
「いいや。オレが自分から権力争いに負けてやった」
「君の従兄弟はそれほど有能でしたか?」疑惑に満ちた問いかけだ。ボンゴレとこの男との関係は浅い。だがボンゴレは真意を見透かして首を振る。
「そりゃあ、あいつは民と妻より金を愛するろくでなしだがな。ああ、待て――怒るなっ。パレルモを放棄したわけでも、オレが折れたわけでもないっ!」
「なぜですか、君はまだ賢い方だと思ったのに!」
 裏切りへの怒りを混ぜて青年が吐き捨てる。
「馬鹿らしくなったんだ」眉間に深い皺をつくりボンゴレは苦渋を語った。「3月30日以降、自分の無力さを知ったよ。フランス人もフランス人に関わったシチリアの民も殺される。ずっとシチリアを守りたくて――善良な民を守りたくて頑張ってたつもりだ。でも違ってた。虐殺を始めたシチリアの民は止まらなかった。彼らだって悪になる。人の善悪に垣根なんて無いって今更よくわかった」
「それで? 人間なんて悪が本質だ。正義なんて突き詰めればすべて偽善だ」
 ボンゴレは苦しげにしわだらけの歴史を睨んだ。
「オレなりに考えた。なぁ、パレルモの自治よりよっぽど有効にシチリアを統治して――善良――ここを強調する――、善良な市民を守る方法があるって考えたんだよ。聞いてくれ。おまえが欲しいんだ」
 テキーラの瓶をテーブルに戻しながら深呼吸をした。
 突飛な要求だが青年は驚かなかった。
 逆に、興奮が冷めたように両目を細く伸ばして、歴史書を抱き上げる。
「これは何かわかりますか。イスラエル人の書いたものだ。僕は、苦難の道を辿る彼らに同情する……。ボンゴレくん。この僕に、シチリア島民を守れって? 僕が彼らを恨んでるってわかってるでしょう?」
「守って欲しいのはシチリアの民じゃない」
「なんですか?」
「オレだよ」
「ハァ?」
 要領を得ないというよう、青年が柳眉を顰める。ボンゴレの声には確信の響きがあって、その為に室内中によく通って染みた。
「おまえは身内を裏切らない。裏切られた経験ばかりがあるからだ」
「いいえ? だからこそ裏切りますよ」
「それは相手が信頼できないからだ。なぁ。オレを信じてくれ。決しておまえを裏切らないよ。大事にする」
「……妙なことを強調しますね。それは、君が計画してる新組織の合言葉ですか?」
「そうだよ。頼む。オレに命を預けて」
「僕の何が欲しいんですか? 残念ながら実力あるのはコレだけだ」
 悪戯するように青年はピストルを握った。
 ボンゴレの横腹へと押し付ける。ボンゴレは無表情になって、静かに、銃身を摘んで銃口を外した。脂汗が二人の頬を垂れる。
「その実力だけを見込んでわざわざ訪問したんだ。どうしてもイヤっていうなら金塊を積んでやるよ。ビジネスにしよう」
「どんなですか」
「一生分の専属契約」
「…………」
 殺し屋稼業の異端児は、椅子の背もたれに腕を引っかけた。まんじりともしない眼差しでジッとボンゴレを睨みつける。その時間は長く、二人の青年の脂汗が渇くほどだった。
「君が本気だというのは、わかりましたよ」
 眉根をひしゃげるのをみて、ボンゴレは悪戯っぽく歯を見せる。苦しげに眉根を寄せていた。
「そうか。了承してくれるか?」
「冗談がきついですね。ご覧のように、僕は外をまともに出歩くことができない。3月30日以降、僕の身の周りはさらに危険になった。右目もそうだがフランス人とのハーフだと知れたら殺されかねない。組織なんでしょう? 人がたくさんいる。君はともかく他の者は僕を殺したがりますよ」
「まさか!」
「しますね。そういうものなんです。君にはこの苦痛がわからんでしょうがね」
 神経質に右目を抑える。赤い眼球には異国の刻印が押されていた。時折り、神は何らかの意志をもって子に試練を与えるが、この青年は試練が人より多く与えられていた。一瞬、哀れみの眼差しを向けたがすぐに掻き消してボンゴレは腕を伸ばす。励ますように青年の背中を撫でた。
「オレのとこじゃそんなことさせない。同じ志を持てる仲間だけを集めるつもりだ」
「信用しろって? 君の言葉を?」
「そうだ。できないか? オレがおまえを蹴ったり殴ったりしたことがあったか? 考えてみてよ。逆があるくらいだろ」
 いいこといったとばかりに、鼻腔が膨らむ。青年はムッとした。
「僕が君に暴力振るうのはこの際どうでもいい。ボンゴレくんのね、そういう、希望主義とでもいうんですか。いい方に捉えて前に前にって考えが癪に障るんですよ。恵まれた坊ちゃんの夢物語なんて興味が無いんだっ。審判を待てばいい! どうせ人など誰一人復活しない! なぜか? 人が醜い故に罪が浄化されないからだ!」
「興奮するなよ! 喧嘩しにきたんじゃないんだ。おまえは強い。頼む。その命とその腕、オレと、オレが作る組織のために役立ててくれ」
「概要を言ってみなさい」
 跋が悪そうに眉根を寄せてから、青年は足を組み直す。傲慢な仕草だ。
 若きボスは、ゆっくりと自らの両手を広げた。背中のマントがなびいて広がり、王者の威厳を付け加える。芯があってよく響く声をしていた。
「新しい組織はシチリア島を守るためのもの。島の外からの悪人、中に潜む悪人、すべてから守って、正しい人々と共に祖国を独立に導くためのものだ」
「見つかれば処刑されますよ。きみは、危険思想の持ち主だ」
「そうだな。だから秘密厳守が絶対。秘密を漏らすやつは殺す」
「へえ。君が? へえ」
 堪えるようにボンゴレは顎を引く。冷徹に囁いた。
「一人が漏らせば全員が死ぬから当たり前だ。これは鉄のように硬い掟にする。今の予定じゃ、構成員の数は七人。オレがボスで、おまえらが幹部。オレはオレで動くから、おまえらもおまえらで手下を作って動くんだ。あくまで自分たちの意思をもったまま動いて欲しい」
「聞いたことない組織図ですね。統一できるんですか」
 頷いて、ボンゴレは一対の瞳を煌めかせた。野心と希望が混じった煌めきだった。
「これをファミリーって呼ぼうと思う。オレたちはこの世で一番強い家族の絆で結ばれるんだ!」
「いかにも君らしい……」
 気だるげにため息。青年は小馬鹿にした顔で睨み上げた。椅子の四足が、ギッと床板と擦れて乾いた鳴声を立てる。
「ファミリーですか。さっき、僕を裏切らないって言いましたね。約束しておいて、裏切ったらどうするんですか?」
「それは絶対にしない」
「この世に絶対なんてないですよ」
「……わかった。保証をつけてやる。そうだな。――今、オレはファミリーを立ち上げるっていう大事な仕事があるから――、何があっても殺すのだけは許さない」
「許さない? 上からものを言うなんてもうボス面ですか」
 からかいつつ、青年は色違えの瞳でジッとボンゴレを射抜く。言葉の続きを待っているのは明白だった。そこに、一筋の期待を垣間見て、ボンゴレは固唾を呑み込んだ。
「……さっき復活っていったな。もし復活した後の世界があるんなら、その先でオレを殺すなり嬲るなりすればいいさ。おまえの好きにしろ」
「君を?」
 ボンゴレは低い声で返した。キュッと唇を結ぶ。
「ああ。約束しよう」
「君は死後の世界を信じる?」
「信じないよ」
「僕もです。おやおや、この取引きは保証されてないも同然じゃないですか……。でも、いいですよ。そこまでいうなら君の家族になってあげても」
「そうか!!」
 ぱっと顔面と声色とを虹色にしてボンゴレが両手を握る。
「よしっ。じゃあ、早速荷物をまとめてくれ。ここをでるぞ」
「せっかちな父さんですね」
 青年はくすくすとしていた。色の違う瞳が、妖しげに鈍く光明を放つ。彼が背筋をしゃんと伸ばせばボンゴレよりも頭一つ分高い背丈になる。見下ろされて、ボスは僅かに後退りをした。
 くすっと口角をナナメにすると、青年は埃塗れの鈍色コートを取り上げた。いくつかの身の回り品を袋に詰めると、紐を使って腰のベルトに結ぶ。
 最後にマントを羽織る。フード付きのもので、両目を隠すほどに深く被った。
「組織の名前は決まってるんですか?」
「まだだけど候補はあるよ。マッフィア」
「マフィア?」
「古い言葉で、勇敢を意味するんだってさ。教えてくれたのは組織のメンバーだ。この人はすごいぜ。七百年前の東ゴートの生き残り――、何かの歯車が違っていたら、王子としてシチリアに君臨してたかもしれない人だ」
「なんだか妙な人間ばかり集めてるんですね? 君って人は」
「そうか? 祖先は、平和と共存を願ってたんだって。あの人は、組織を通して祖先の志しを実現させる気だ。信頼できるよ。普段は雲ばっかり見てボケッとしてるけど、戦ったらホントに強いんだ」
「ファミリーの一員ということは僕も必然的に信頼しなくちゃならないんですか?」
「そうだ! ちゃんと仲良くしろよ、おまえ」
 二人は硝子の破片を踏みしめた。窓を出れば森が出迎えた。大洋となって地平線まで続く。村が点在するだけでまったく切り開かれていない地方であるのだ。パレルモに向かうには六日の旅が必要になる。
 地平線に呑まれ行く夕日を見つめつつ、彼は言う。
「いいんじゃないですか? マフィアって名称……。3月30日には、こんな声明があちこちに貼られていた。フランス人に死を、これがイタリアの叫びだ(MorteallaFransiaItaliaanela)――。この穢れた名文の頭文字を取ってもマフィアになるのはただの偶然ですか? 曰く付きの僕らにはピッタリの呼称じゃないですか?」
「おまえ、それ、個人的な怨恨で言ってないか?」
「そんなことはありません」
 しらっとしつつ青年は小枝を折る。
「オレは、よこしまな気持ちでおまえらを引っ張り出すわけじゃ――、マフィアを始めるんじゃない」
 疑わしげに見遣りつつ、ボンゴレ。青年は物知り顔をして鼻で笑った。まるで五百年先、千年先の出来事全てを知っているといいたげなせせら笑いで、彼のそんなハッタリは不安を掻き立てた。ボンゴレは厄介者を見る目付きをする。
「おまえを信じてるからな」
「どうぞ。僕も君を信じてあげますよ。ボス?」
「何でそう最後に疑問符を……。まぁ、いい。アジトに案内するよ」
 森には霧が立ち込める。二人分の人影は、するすると幹を降りて霧中に飲干された。



 

おわり




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