幻はうつつに出会う

 


 白い花びらが舞い上がった。紫色の空に点を穿って跳ね回る。沢田綱吉は二度ほど大きく瞬きをした。並盛の制服姿。いつの間に、着替えたんだろう? 
(どこだ? ここはオレの知らない場所だ)
  踏みしめるのは白い花だった。一面の花畑で、毛先の長い絨毯のようになってさざめいている。蠱惑的な光景だった。甘味を含んだ空気が場を満たし、鼻腔から染み込んで頭の内側に沈む。
(あ、れ……。ううん。こんなところ、誰も知らない)
  思わず、何も考えられなくなって綱吉は目を閉じた。すぐに身震いをする。脳天から足の裏まで、電流が走った。指先が痺れを残す。
  ギュウと片腕を抑えて、眉間を皺寄せて、悪寒を与えた存在を振り返った。
「寒いですか? 僕の世界は人肌よりも温かい筈ですが」
  悪寒にはおぞましい予感が混じる、が、今は少し切なくなる。
「六道骸?! 俺に用があるの? アンタから?」
  白いシャツに黒いスラックスを合わせて、六道骸は綱吉の左隣に佇んでいた。真白い斑点が綱吉と骸のあいだで飛び交っている。花びらは一様に空へ昇る。重力など無く、風も途切れることが無く、通常の物理法則から逸脱した世界であることは明らかだった。
「君は? 僕を呼びましたか? 君。僕は知っているんですよ。沢田綱吉は会いに来た。この音を知っている」
  六道骸は目蓋を降ろす。ごぷっ、と、か細く泡音が沸きあがった。綱吉は目を見開いて足元を見る。花畑の下から、響いた。
「霧のリングでの戦い、俺、ワザと骸の意識に入ったわけじゃない……。ん? お前、俺が入ったって何でわかったんだ?」
「それは侮辱にもつながりますね。わからない訳がないじゃないですか」
  綱吉は骸へと向き直った。
「ああ。見たよ。骸……。水槽の中で捕まってた。アンタはそうやって自由に動き回れるの? これが骸の世界? じゃあ、これって幻覚なんだ」
  睫毛の先を掠めて花が飛ぶ。骸が目蓋を持ち上げると泡の音が止んだ。綱吉は薄ら寒さで眉根を寄せた。
「アンタ、瞬きしてないな。呼吸も? 幻覚だから?」
「……大抵、死して魂だけの存在に落ちても、ヒトは瞬きのリズムを忘れることができない。しかし僕は違う。瞬きも呼吸もただ、肉体の束縛でしょう?」
  骸は片手を腰に当てると体をナナメに向けた。両目を細くしならせる。
「僕は君を招待した。君は招待を受け取った。君は本当に甘いタチなんですね。無意識に、何でも受け入れようとしている。それはいささか残酷ですよ。無防備すぎる。僕には劇毒になる」
  数秒ばかり沈黙して、綱吉は唇を尖らせる。
「何だよ、やっぱりアンタが呼んだンじゃん」
「ええ。その通り」
  綱吉は口角を噛んで後退りした。六道骸は平気な顔をして嘘が吐ける男だ。
  色違えの瞳は、はらはらと舞う花びらを眺める。先ほどの言葉通り一切の瞬きをせず両目を開けつづけている。
(悩んでるのか……?)不意に、綱吉はオッドアイから困惑を読んだ。
  読んだが、信じる気にはなれなかった。
「俺に何の用があるんだよっ」
  六道骸は危険思想を抱く。嘘も演技も上手だ。
「君を殺す」
  ただ呟いて骸は目線を落とした。
「そのつもりでいる。僕の手駒にしていつかは殺す。先に精神だけでも潰すことは容易い。今の僕は精神体ですから。しかし、今、君を前にしても僕はそれほど憎いとは思わない」
「俺の体が欲しいって話はどうなった」
  予想通りといえば予想通りだし、予想外といえば予想外だ。喉が緊張で震えていた。綱吉が拳を握って、一歩を後退る。
  その動揺を裏返したように、綱吉の背後から花びらがブワッと吹き荒れた。
「!」
  骸が片目を瞑る。赤目は目蓋の向こうに消えて、青い瞳だけが残った。
「大空のリングに認められた少年、ですか」軽い調子で言って、右の目蓋を開ける。赤目は鈍く光りだしていた。花びらの動きがビタッと停止した。
「この僕の自信を揺るがそうとするだけで、君は万死に値する」
  骸が目を細めると、花びらは一定の調子で浮き上がりはじめた。元の動きだ。綱吉は動揺して首を振る。
「もしかして、復讐者の牢屋から出られないからって俺の体を奪い取るつもりか? やめろよ。そんなことしてもすぐにバレる! リボーンは黙っちゃいない!」
「でしょうね。落ち着きなさい、沢田綱吉。君を殺すと言ったが今すぐとは言っていない」
  綱吉が焦れた。脂汗が頬を伝う。
「俺を帰せ! こんなところにいたくないっ」
「……僕を一人にしますか?」
  虚を突かれて言葉を失う。綱吉は唖然として骸を見返した。上半身が、独りでに前のめりになって臨戦体制を整えていたところだった。
「何を? 骸?」
「君は大変優しい男だと見受けます。ここに僕一人を置いて自分だけ脱出するような酷いことをするのかと聞いているんです」
「ええっ……?! お、俺が酷いの?!」
  叫んでから、綱吉は勢いを無くした。気まずげに骸を睨む。
「俺がここにいても何も変わらない気がするよ。アンタこそ俺に酷いことする気なんじゃないのか? 骸? 何を考えてる?」
  オッドアイは花畑を見渡した。地平線まで白い群れが伸びる。
「質問は後にして、歩きましょう。せっかくの招待状を無駄にするのは勿体無い」
  視線を戻しながら骸はニコリとした。綱吉と初めて遭遇した時のような、快活な少年の顔だ。拒否権はないも同じだった。言うなり、骸は踵を返す。
  綱吉は追いかけながらも舌を巻いた。自分の中にある動物めいた部分が、危険だと警告を発する。
(こんな世界……。人が作ってるなんて)
  紫色の空を見た。花びらが無数に昇っていく。
(想像力? 何でこんなものを考えるんだ? こんな世界がコイツにとっての楽しいところとか? 変すぎ、それっておかしくないか?)
  半眼で斜め上にある顔を見る。整った顔立ちだ。六道骸はこざっぱりした服を着ても充分映える。花畑を歩きながら、骸は低い声で呟いた。
「この世界はそんなに物珍しいですか? いい香りではありませんか」
「ずっと嗅いでると頭おかしくなりそうだよ」
  正直に感想を述べる。空気が、甘さを重みに服を濡らしていって、衣服を着用したまま潜水する気分だった。骸は眉一つ動かさない。
「現実世界には生えない花であるから、と、言ったら驚きますか?」
  僅かに体が傾ぐ。綱吉は不安げに自らの心臓を抑えた。それを見て骸は目を丸くする。
「ああ、」クスリとしたのに厭味は一切無かった。
「毒素はありません。ご安心を」
「……俺、やっぱ帰る。どうしたら帰れるんだよ?」
「企業秘密です」
「ちょっとぉっ?! 茶化すな!」
  さくさくと早足で花を踏みしめながら骸が首を振る。スラックスのポケットに両手を捻じ込んだ。
「歩きましょうよ? 世界には果てがあるのか、知りたくありませんか」
「ここはアンタの妄想だろー?!」
「その言い方は、ちょっと癪に障りますね」
  軽く呟いて、しかし骸は達観した眼差しを綱吉へと注ぐ。綱吉は付いて行くしか無かった。
(この陰険ヤロー。ちっとも俺の話聞く気ないな。くそ)
  苛立ちは長く続かなかった。綱吉は勝手に別れの挨拶を述べることにした。
「招待、ありがと。今度あるなら最初から殺さないつもりで宜しくお願いしますよ」
  隣の少年が歩調を緩める。訝しげに眉を寄せた。
「沢田綱吉?」
  綱吉は、俯いたまま照れていた。
「俺は。ああ、一応な、一応ですけどやっぱり言った方がいいかと思って。アンタを一人にしたいって訳じゃないよ……。みんな、骸を待ってるよ。俺も――、」
  声が途切れる。骸が細い声で聞き返した。
「待ってる?」
「いや……、わかんないですけど」
  頬を掻く。待っているのだろうか? 友達を不幸にしたくはない。
(骸は友達かな? 骸の仲間は俺の友達か?)
  胸に痛みを覚えて、綱吉は残りを放棄した。
「わかんない。でも、骸は待ってる人がいるんだから、アンタを一人にさせたくないと思ってる人たちのとこに行きなよ。こうやって会えばいいんじゃないですか? 大事にされてるんだからさ」
  小さくため息をついて、骸は足を止めた。
「千種達には会いません。僕が行くと彼らは決意を弱める」
「そうなの? 喜ぶんじゃないのか?」
  花びらが上昇する。直後、そのスピードが僅かに弱まった。ほとんど空中に静止する状態だ。
「偽善者め。反吐が出る」
  骸の眼光が鋭さを増す。綱吉が震声で応えた。
「ゴメン……。友達も大事だけど、友達とは少し違うやつなら大事じゃないってワケじゃない……みたいで」こめかみに痛みが走る。自分も待っている一人なのかと綱吉は落胆した。
「貴様の所属は? マフィアだろ?」
「うん、十代目候補。ザンザスに勝っちゃったし」
  強い酸液が噴きついたような痛みで喉がひくりとした。骸は淡々と噛み締める。
「君は敵だ。君にとっての僕も敵だ。ただ、勘違いさせる理由が多いことはわかっている。君の体が欲しいから、その体を守りたいから僕は誤解されやすいんだろうな」
「……敬語使わないのか?」
「使いますよ。ただ君には演じるのも馬鹿らしくなる瞬間がある」
  口ごもる。あからさまに見下されている。綱吉には言い返す言葉がわからなかった。
(俺が立ち入っていい問題じゃないんだな。これは)
  深呼吸をする。強い口調で告げた。
「帰りたい。骸」
「ええ。いいですよ」
  あっさりと同調して、骸が手の平を差し出した。
「キツネに化かされる話って聞いたことがありますか? タヌキに化かされるのでもいい。あれらも幻覚を使うんですよ。僕と少し似てると思いませんか」
「もうおしゃべりはいいんだ。骸。俺は、アンタを倒したこと後悔してない。アンタは俺の仲間に酷いことした!」
「そして君にも酷いことをした。僕だって後悔していない」
  綱吉は目尻を吊り上げて骸の手を掴んだ。ぎりっと必要以上の力を込めて骸が握り返す。意地でも耐えるつもりで綱吉は両足を踏ん張らせた。
「で?!」
「君は絶対に僕のものにする」
  視線が交錯する。互いに睨み合っていた。骸が皮肉げに双眸を歪める。
「体、傷など付けないようにしてくださいよ。僕の体になるのだから。沢田綱吉。予約は僕がしてる」
「俺の体だ。何をしようと俺の勝手、予約なんか覚えないっ!」
  頑なに言い返して、しかし綱吉は悔しげにうめく。
「元気でな。いつか、檻から出られるといいな」
「…………」
  骸が視線を流す。白い花びらが足元で渦を作っていた。
「馬鹿ですね」
  ポツリ。呟きが綱吉の胸まで落ちてくる。
  酷く無感情な声だ――、その芯に常にはない感情がある。怯えだ。綱吉が手の平に力を込めた。逆らうように、骸が腕から力を抜いた。
「馬鹿は嫌いです。綱吉は、嫌いだ」
  両手で押してくる。どんっ!
「わっ?!」
「せいぜい、風邪でも引いてください」
  厭味たっぷりに見下ろす骸の姿がブレる。花びらが解けて消えた。ガシャアアン! ……カラカラッ、と、プラスチック製の青蓋が道路を転がっていくのを見て、綱吉は自覚した。ゴミの集積所に大の字で倒れこんでいた。
「い、っづ……、う」
  後頭部を派手にポリバケツにぶつけた。頭を抱えて寝返りを打つ、その直後に、
「さ、沢田綱吉か?」
「?! お兄さん」
  ランニングシャツの少年が仰天した。笹川京子の兄だ。
  綱吉は慌てて腕を伸ばした。周囲に置かれたゴミ袋が邪魔をして起き上がれない。
「あ、あんにゃろぉッ」
  唐突にキツネやらタヌキやらを例に出していた。ようやく綱吉も合点した。パジャマで素足、時刻は早朝! 住宅街は朝靄に包まれて、ひっそり静まっていた。
「どうしたんだ? 早朝トレーニングにしては場所がクレイジーすぎないか!」
「い、いえあのっ。ト、トレーニングとは違うっ」
「そこまでボクシングしたいか?!」
「違ーう!!」
  笹川了平は大きく瞬きをした。
「違うのか? じゃあ何してるんだ? こんなところで」
  差し出された手を掴みつつ、綱吉は肺の底からため息をついた。ゴミを被って体がちょっと臭う。やたらと疲れていた。
「何……って……」
  疲れは当然だと綱吉は胸中でうめく。一晩歩かされたのだ。
「化かされたみたいです。どっかのバカに」
  視界に映る空は霧中にあっても紫でないとわかる。いつもの青だ。不思議そうな顔をする了平に綱吉は浅く笑いかけた。
(もしかして本当は今すぐ殺すつもりで連れ出されてたのかな)
  六道骸に起きただろう心変わりを想像してみて、しかし三秒で止めた。綱吉にはあまりに無謀な推測になる。空気は朝方独特のカラリとしたものを含んで、彼の世界にあったような生ぬるさも甘さも何もなかった。




おわり



>>霧のリング戦直後くらいなイメージです。

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