無限終牢

 



暖かな闇があります。僕はその闇をベッドにして寝ようと思いました。気が付きました。闇ではなかった。これは血の塊でした。思い出してきました、と、呟いたとき、返事が無かったので、僕は一人きりになったことを知りました。
「○×くん? また死んじゃったンですか?」
血の中に両手を突き入れました。血はどろりとしていて不気味に指に纏わりついてきます。
咄嗟に目眩に襲われました。美しく、可愛くあったはずの彼は醜く変わり果てていました。年はまだ十にも満たない筈なのに肌は浅黒く変色しています。眼球は白目を剥いて舌をだらしなく口角から垂らして仰け反ったまま動きません。こんな醜い死に方をさせるつもりで連れてきた訳ではありません。僕はてっきり涙の一つでもこぼすだろうと思いました。この結末を予想してもいたからです。ところが、涙は一滴も出ませんでした。僕は血の中から彼の遺体を抱き上げます。そうして、今度こそ、本当の闇を見つけてその中に引き渡しました。死体は闇に呑まれて、めぐります。
「輪廻、理念、転生、また巡り、君は砂に変わる」
うめいた言葉は呪言でもありました。彼の魂はまた巡ります。僕は巡りません。彼が巡る時期を待ってここを出ていきます。
「今度こそ君の体を完全に作り変えたつもりでいたのに」
この場所は精神にも肉体にも負荷を与えます。うつつにはない負荷をかけます。心と体を圧縮して潰すような衝撃だろうと僕は思います。僕は、その苦しみを経て、この場所に住むようになりました。
「まだ改造が足りないんですね……」
ただの人間だった頃、僕と眼が合うとただ独り笑ってくれた子どもがいました。彼はまだ僕の本性を知らず、知ってからはやはり笑わなくなりましたが、しかし僕には彼の笑顔が忘れられないものでした。彼が死ぬ度に僕は新しい彼の笑顔と出会います。彼は、いつも、何も知らない内は僕に笑いかけてくれるのでした。
僕は両腕を闇へと預けます。闇が伸縮して僕を貪り尽くそうとします。身を預けても、むしゃぶられた後には一片の欠片が残ることをわかっているので抵抗はしません。
闇に沈みながら、彼と、彼以外の無数の魂が眠るくらやみに沈みながら、僕はこころの中で腕を伸ばします。
(次は。どうしよう。霧の力を与えても人間にしかなれなかった。次は……)
まやかしの指が彼に触れます。彼は深く眠り込んだまま死につづけています。この子どもは、もう、二度と起き上がることはありません。
(次は……)僕には無限とも思える時間がありました。
ところがこの時にはそうでもありませんでした。触れるうちに、転生がすぐに起こると感じました。誰かが、あるいは時代が彼の魂を必要としているようでした。僕は不意に薄ら寒いものを覚えます。心臓まで伸縮してくる闇の寒さを忘れるほどの怖気でした。
このために僕をとっておいたのですか、神にするべき問いかけを抱きましたが、答えるものは何もいません。この場所には僕しかいません。長らく、そうでした。最初からそうでした。
(本当のことなんてわからないのか。……くん、○×くん)
実際のところ、彼の名前はもう忘れていました。ただの生命の塊に戻った彼を見ると途端に僕は酷く執着していたはずの名前もおぼろにしてしまいます。次のことを考え始めるからです。
(それなら、炎にしましょう。全て燃やせばいい。これが何かの意思なら、次の世界で君に大きな使命が課せられるというなら、僕は、君に世界を滅ぼせるだけの力をあげます)
僅かな幻想が宿ります。彼と一緒に世界を滅ぼす幻想でした。とても幸せな夢でした。僕は、それを抱いたままで闇に沈んでいきます。体は千切られこころは寒露の中へと埋まっていきます。
一片だけ僕は残ります。体とこころが闇を抜けたら、つまりは暴虐の限りを尽くされ死に絶えたら、急いで再生を始めないといけません。彼が巡るのを感じておりました。僕も追いかけないとなりません。寝るのは、その後です。

*****

「君、名前は?」
「え? 知ってるだろ」
首から鎖を通した指輪をかけている。少年は目を丸くする。生身での再会は久々だった。
イタリアの空は曇る。僕はここに残るが少年は日本へ帰る。
「その……。あの、ありがとう。霧のリング、受け取ってくれて。骸。おまえのやったことは許したくないけど、でもそれが全てじゃないってわかったから」
「名前を。君の口から聞きたい。僕はまだ聞いていない」
「…………」
せっかくの告白を無下にされて少年は面食らう。しばらくの間をおいて、背後で見守る仲間達を横目で見遣った。二人だけで話がしたいと彼を誘った。
沈黙は腹立ちを諌めるようなものだった。少年は唇を尖らせる。
「沢田綱吉。並中の二年で、もうすぐ十五……」
思わずピクリと眉根が動く。彼の口を通して聞くとやはり響きが違った。
「そう俯かないでください。僕は六道骸です。今は形式的には君の守護者。実質的には君の敵です」
「? わかってるよ、そんなこと」
「違います。君は僕が言わないと本当の意味ではわからない。久しぶりですね。さわだ、つなよし。良い名前です。今生である限り、僕はその名を忘れない」
少年は僅かに後退りした。顔色は青くなる。
「何いってるんだ? おまえは。やっぱり水に浸かりすぎて頭の中身が」
「おかしいですか? 僕は、君のその力が可笑しくて堪りません。どうも本当に何かが絡んでいるようだ。その炎、そうやって使うんですね。今生での因縁も今までにはなかった。僕らはきっと新たな段階に移行する」
「…………?! 何いってんだ?」
戦慄して、後退る。それを眺めるだけにする。いまは相応しくない。少年の仲間が見守っている。
にこりと優しく微笑んで見せて、肩を翻した。
「また今度、二人で会いましょうね。そのときにはもっと大事な話をしましょう。例えば深くて暗い闇の底での話とか」
「?! 水槽の? や、やだよそんな気持ち悪そうなの」
「おかしいことばかり言いますね。好きですよ。よろしくお願いします、沢田綱吉」
黒曜中の仲間も待機している。そちらに向かいながらくり返す。その名前には深い意味がある。
(僕の名前にも深い意味があるのですよ。沢田綱吉。君にとって僕の名前は死神が鎌を振りあげるのに等しい威力を持ったはずだ)
いつの世界でもそれは変わらなかった。僕の水面に深い闇が張っている。それがさざなみを立てる感触に身震いして、彼の連れ去り方を考えた。
(根元の方で語りかける声があります)
童話でも紡ぐ気分だ。僕は内側で眠る闇に、僕を殺し僕を愛し僕を慈しんだ敵どもに思いを飛ばす。闇は黒いだけでかたちはない。車の助手席に横たわるとすぐに眠りが訪れた。
(もしかしたら、彼に与えた炎の力を持ってしてこの魂を焼き尽くしてもらうことが、何かの意思が僕に与えた赦しではないかと少し思いました。けれど、僕は、それには気付かないつもりです。だって僕は生きていたいし、彼を諦めるつもりもありません)
報告は耐えることがない。僕はずっと見えない意思に語りかけるようにして、彼の魂との絆を確認しつづける。それしか絆がないと理解しきることが恐ろしい。今生の死に勝る恐怖はただ一つ、この一つだけ。
(全て混沌としています)
それは世の常だったから、やはり、彼を諦める道理はどこにもないと思いました。

 




おわり

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