ミノタウロスの迷宮

 


怪物が檻から逃げたと通報があった。沢田綱吉は鞭を手にして単身で街に出た。イタリアの空は煙っている。濃霧が屋根を埋めて、壁だけが続いて見える。
一人、大通りに立ってみて気がついた。
「俺、何してるんだろう?」
鞭を手にしている。柄の裏にはBの刻印があった。
「ボンゴレ十代目の証……。そうだ、俺がやらなくちゃならなかったんだっけ。調教師としての責任がどーたらこーたら」
八歳頃の少年に成長した家庭教師を思い返してみる。シャツの襟を正して、綱吉は霧で包まれた町並向けて歩き出した。
「おおーい。どこだ?! でてこいよ。俺だよ。ツナだ!」
(んあ?! 何を捜してるんだっけ?)
握り締めた鞭を見下ろす。霧が濃すぎて前が見えず、綱吉は歩調を落とした。と、濃霧の向こうからラジオ放送が響いてくる。
(ああ、そうだ。脱走だ。俺が調教したアイツが)
片手で鞭の柄を取って、片手で鞭先を伸ばす。ピシィッと石畳みを弾いた。それをくり返しながら、先へと進む。霧の中でも鞭打が響き渡った。
「ツナがわかんないのか? お前を俺の手で殺すのは忍びないけど――、情けだ。お前は世の中に出ちゃいけなかったんだ! 自由になりたいなら俺がしてやる」
両目が鋭く細められる。若きボンゴレ十代目は凛として鞭で壁を叩いた。パララッと飛沫のように石のかけらが飛び散る。綱吉の額に、スゥッと橙色の光が集中した。
「霧がなんだ。俺には効かない」
鞭をしならせて、強く踏み込んだ。
上空に向けて一振り。ギュイッッと風を巻き込んで強い疾風を生み出した。霧の間に一線が走る。そこを縫い目にして、バッと霧が左右に別たれた。
「久しぶりだな。俺のミノタウロス!」
左右で色の違う瞳を持った色白の化け物がいる。長方形に伸びたビルの上にいた。屋上に立って、綱吉を冷淡に見下ろしている。少年は黒地で迷彩柄のシャツを着て、下には真っ黒いスラックスを着ていた。
「ええ。久しぶりですね」
  ミノタウロスは低く囁く。一歩二歩と近づいて、屋上の縁にブーツの端を引っかけた。
「君が僕を殺すんですか。ミノタウロスですか。醜い怪物……、神話の牛人間ですか。君は美醜で差別するようなヒトではないと思っていましたが」
チラリと左手の薬指に嵌めたリングをかざす。綱吉は後退りして鞭を両手に構えた。
「降りてこいよ。お前のトドメは俺がやる」
「…………」
大した準備動作もなく、ミノタウロスは屋上から飛び降りた。軽く膝を曲げるだけで衝撃を吸収して、右腕を体の前に突き出す。
ヴゥンッ。空間が震えて長身の槍が現れた。
上端が三叉の剣となっていて、禍々しい黒の刻印が胴体部に刻み付けられている。それで宙を凪ぎつつ化け物はオッドアイを細くした。ジワリと辺りに濃霧が広がる。
「何で逃げたんだ?」
「僕が永遠に囚われ続けることを望むんですか」
槍を手にしたままミノタウロスが距離を取る。綱吉は自らそれを詰めた。
「当たり前だッ! あのままいられたら良かったのに!」
「君は僕に会いに来てもくれなかった」
「それは、ミノタウロスッ、それは俺の役目が終わってるから! 俺はお前の調教師に過ぎなかったんだよ。そりゃ懐いてくれたお前には悪いけど――でも――、それが真実だっ!」
鞭を振るう。槍を小脇にしてミノタウロスが跳ねた。濃霧がさらに厚みを増して側にあるはずの人影すらも覆い隠す。綱吉は歯噛みして鞭を強く振るった。
「スキ有り。頭上が脆いですね」
ダンッ! 強音と共に目の前に槍が落ちてきた。目を丸くして後退る、その直後、
「が?!」
綱吉の両肩に衝撃が走った。
ミノタウロスは壁を足がかりにして宙を跳ねていた。肩の両側に着地することで蹴りを叩き込んだことになる。綱吉の膝が折れて前に突っ伏した。
後ろに跳ねてミノタウロスは槍を手に持ち直す。しれっとして告げた。
「調教不足だったみたいですよ。僕のかわいいボンゴレ十代目」
「クソッ……。ミノタウロス。遊ぶのは楽しいか?」
「ええ。まぁ」
「お前は昔から俺を突っついて一人遊びするのが好きだったよな。いつも独り善がりだったけど、でもだからわかる。大人しく殺されるんだ。お前も、俺の手にかかって死ぬのがずっといいだろ?! 他のヤツにされるより!」
「……ええ。まあ」
綱吉が肩を抑えて立ち上がる。ミノタウロスは黙ってそれを見守った。
「そんなに僕を始末したくて仕方ないですか」
「当たり前だっ……。お前が俺に懐いてくれた日のことまだ覚えてる。俺は、お前が怪物でも何でも。ミノタウロス。好きだったよ。俺の後を無邪気についてくるお前を見てると胸が痛くなった」
ミノタウロスは目を反らす。思い出すように眉根を寄せた。
「僕も、君と一緒にいるのは楽しかった。ずっとこのまま君が居てくれるものだと思い違いをした時期もあった。今となっては忌むべき思い出ですがね」
「俺にはそうじゃない。リアルタイムで大事な思い出だ」
オッドアイが邪険な色を帯びる。じろ、と、綱吉を睨んだのには敵意があった。
「勝手なことばかり言いますね」
「……お前に俺は殺せない。だから、俺がここにいるんだ」
ますます胡乱に双眸を醜く寄せ合わせる。ミノタウロスは槍を引き降ろした。同時に駆け出して、綱吉の懐へと踏み込む。即座に綱吉が右に跳んだ。
「うわ!」
しかし、鼻先でマグマが噴出した。
目を瞑って綱吉が足を止める。ミノタウロスが槍を捨ててその場で宙返りをした。空いていた距離の分、足を伸ばして綱吉の胴体を穿つ。横合いから強烈な一撃が入って呼吸が止まった。
「あぐう! ……ぐっ!」
壁に叩きつけられて肺が縮み上がる。ミノタウロスが槍を取り直して振り被った。
ガキンッ!! 綱吉の顔面真横に三叉剣が突き立てられた。
「化け物呼ばわりされる理由、よく知ってるでしょう? 今更こんな手品に引っかかるなんて君も落ちぶれたようだ。今の君を観てれば試す価値もないことではありますが」
「?! ミノタウロスッ……、待て。一つ言わせろよ。殺されるのがイヤなら、檻に戻って」
綱吉の首をゆるく握り締めたまま、ミノタウロスが動きを止める。
「殺せないよ。お前には無理。でも俺もお前を殺したくはないんだよ。本当はね。だから、俺は、お前が檻に戻ってくれればいいと思う……。時間があったら会いに行くから」
「……一度も来なかったくせに、よく言える……。この口ですか」
喉を震わせて、ミノタウロスが顎を押さえつけた。べろりと舌で尖りを舐める。綱吉は眉間を強く歪めた。
「何するんだ。やめろよ」
「ええ。そうです。僕は君だけは殺せない。ですが、殺さずとも苦痛を与える手段はいくらでもあります」囁きを付け足してミノタウロスが口付けた。始めは優しかったが、次第に激しくなる。綱吉が咽た。
「もう終わりだっ! やめろ。認めない、こんなの」
「キスも調教の手段の一つだったのでは? 君はその点ではとても上手かったですよ。今、思い返せば」
「ミノタウロス! お前は履き違えてる! 主人にこんなことしていいと思ってンのか!」
「!」
鞭の柄を棍棒代わりにして綱吉が素早く叩きつけた。側頭に一撃を受けてミノタウロスが痩身を傾ける。その隙に、足を引っかけて転倒させた。
「ボンゴレ十代目を舐めるなよ!」
歯茎を剥き出しにして綱吉が鋭く叫ぶ。鞭を振り被ったところで、ミノタウロスがすぐさま体を反転させた。首を狙った筈の鞭が割り込んだ足首に絡み付く。
「それなら僕も言いたい」石畳に寝そべったまま呟いて、ミノタウロスが上半身を起こす。自然、足が下になる。鞭を引かれて綱吉が前のめった。
その頬を左右から掴んで引き寄せてミノタウロスが皮肉げに囁く。
「この六道骸を! 舐めないことですね」
「ミノタウロス?!」
「いつまで言いようにされてるんですか? 少々、失礼しますよ」
ミノタウロスは綱吉と額を合わせる。瞬間、バチッと白い稲妻が駆けた。綱吉の膝から力が抜けて、六道骸の上に倒れこむ。沢田綱吉はガクガクと震えだした。
「あっ……。俺、何を。何をしてんだ?」
「僕を殺そうと」
「そんなっ……。うそ、何でだ? ごめっ……、俺、なんてことを」
「アルコバレーノの幻覚能力ですね。これはマーモンですか」
額にキスを落として、骸はずるりと綱吉の下から抜けた。
「ま、待って。骸さん。待って……。久しぶりなのに。ほんとに、ごめん」
「弱気な調教師さんですね。まぁ、大体、君の言ってたことは真実そのものでしたよ。だから簡単に幻覚に侵されたんでしょうが」
骸の肩を抑えて、綱吉は恥じ入るようにぶるりと震え上がった。足元に目線を落として呟く。
「会いたかった。ずっと。ごめん。ずっと謝りたかった……。ボンゴレがアンタを閉じ込めるとは思わなくて。ずっと骸さんは俺には優しかったのに」
「君にはね」
オッドアイが妖しく光る。綱吉も骸も処置がなされた理由を知っていた。骸の傍若無人な振る舞い、それと綱吉との恋人関係が問い立たされて投獄されたのが二年前だった。
骸の肩を抑えながら綱吉は震えていた。脂汗が滲み出る。
「もど……って、くれないのか……? このままじゃ殺される。戻れば生きてはいられる。それは俺には希望だよ」
「…………」
綱吉の手を振り払うことはなく、骸は空を見上げた。
主人の行動に添うように霧が晴れ渡る。夜のイタリアには星が瞬いていた。冷気が少年二人を包み込む。
「君を寄越したアルコバレーノを後悔させてみますか」
綱吉は腕に力を込めた。
「骸。ゴメン。何が何でも牢獄に戻らないつもりか」
「何が何でも僕を戻したがるんですね。僕に生きた屍になれと?」
拗ねたようにうめいて、骸が立ち上がる。槍が闇に飲み込まれて消えた。亜空間が余韻を残して萎んでいく。
「確かに僕は君を殺せない。それがわかって、洗脳した上で君を寄越したアルコバレーノのやり口はわかります。ですが」
声音は低く、細くなる。骸は切なげに綱吉を横目にした。
「僕だってわかることはある。君は、僕の誘いを断わらない」
左手を差し出す。霧のリングが左手の薬指にある。それを見下ろしながら、綱吉がこうべを垂らした。
六道骸は嘘を言っている。
綱吉が誘いを断わったことなど何十回もある。しかも、どれも今と同じ誘いだ。
骸は譲らなかった。左手を前に突き出す。
「そうでしょう? 綱吉くん」
「……ああ……」
掠れた声で、うめいて、うな垂れたままで綱吉は骸の手を取った。しばらくは互いに言葉はなかった。
再び辺りに霧が立ち込める。
深くて、濃い。互いの間すら霧が入り込んで見失いそうになった。だが骸は霧の生成を止めなかった。励ますように綱吉の背中を叩いて、こめかみに軽く口付けた。
「ありがとうございます。僕からの譲歩は、ファミリーに声明を送ることにしましょう。ボンゴレ十代目はミノタウロスとやらに誘拐されたことにしてあげますから」
額を探られて、綱吉は目蓋を閉じた。
ポトリと涙が落ちる。再び幻覚が全感覚を支配する直前、イタリア全土が迷宮のように見えて竦み上がった。
「まるで僕らこそがミノタウロスの迷宮に迷い込んだようじゃありません?」骸がうめく。綱吉の思考に感染したかのようなタイミングだった。額を擦り合わせたまま両目を半分閉じて、唇だけで低く紡ぐ。
「僕と君は生け贄の子どもです……。出口のない迷宮で、逃げ惑って、食べられるだけ。どうしてこうなんでしょうか。君から離れたくなかった」
「…………。ミノタウロス。俺を連れて行くのか?」
白い稲妻が瞬いた後で、綱吉がうめく。再び幻覚の虜だ。綱吉の双眸はありありと困惑を貼り付ける。くすり、と、笑って骸は若き調教師の手首を取った。
「ミノタウロスだって迷宮から出たいに決まってるじゃないですか。それに出口がなくても、新しく作ることができるかもしれないとは思いませんか?」
抵抗する気は起きない。だけれど骸の言葉はハッタリに過ぎないと綱吉にはわかっていた。

 




おわり




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