水槽
「これが、僕の慈悲ですよ」
パチンとした音が浴室に響く。浴槽の中で蹲って少年はその音色を聞いた。両目の上には皮製の目隠しが被せられ、血の気を失っている。口はパクパクとする。酸素不足の金魚のような姿だった。
両腕は頭上に掲げたままで一纏めだ。
肘と肘とがくっ付くほどに強く皮製のベルトが絡みついていた。両足は自由だったが、水槽が邪魔をして身動きが取れない。
水槽は透明で、足元に薄く水が張っていた。
骸が底を混ぜると波紋を生む。骸は少年ののど仏を縛めていたものを見下ろした。皮製のベルト。たった今、外したものだ。
ベルトの面を下にして指先を降ろす。
つ、と沢田綱吉の内股を辿った。少年はギクリとして首を仰け反らせた。
「ぐっ……、うっ」
奥歯を噛み締める。その口角からは既に呑み切れなかった唾液が垂れていた。ぬらりと光る。それを眺めつつ、骸はベルトを伸ばした。足の付け根で誘うように軽く擦りつける。
「そのままで暴れたらすぐ死んじゃいますもんね。窒息するにしても水位があがらない内でしたらつまらない」
無感情に囁きつつ、綱吉の口角を拭う。
ぬらりとしたものが骸の指に映る。それを舌で舐め取り、六道骸はオッドアイを歪に笑わせた。味を噛み締めるように、何度となく自らの指先を舌でつついてみせる。
「今度こそ了承をいただけるでしょうね? 答えなさい」
「あん、た。骸。殺っ……」
「ころ? 殺す、ですか? 違うでしょう。殺すのは、僕じゃなくて君の大事な人だ。手始めに君が大事だと思う人を全部君の手で殺しなさい」
ブンブンと首を振り回す。目隠しの下から、透明の雫が顎に向けて伝っていった。
「い、や、だっ。いやだっ……、ねが、こんなこと、するなっ……、やめ――、せめて一思いに殺して」
こうべを垂らす。声音には絶望が色濃く滲む。六道骸に連れ去られ、監禁されてから一月は経った。沢田綱吉の理性は擦り切れようとしていた。
そっと触れる指が涙を拭う。
骸は自らの唇をゆるく綱吉のものと重ねた。
啄ばむように口付けをくり返す。だが、六度目のところで、拳で頬を殴りつけた。
「ぐっ!」
水槽の壁に後頭部を打ち付けて綱吉が歯噛みする。
「ふざけたこと言ってンじゃないですよ」鬱蒼と笑みを深めて綱吉の顎を掴む。めちゃくちゃに揺すりたてると綱吉が掠れた悲鳴をあげた。咳込んで、口角からぼとぼとと唾液を落としていく。
その中に薄っすら赤いものが混じる。
骸は手を止めた。
「僕は君が好きだって言ってるじゃないですか。だから君が自分の意思で世界大戦の引鉄を引いてくれればいい。僕のものにおなりなさい」
「断わるっ」
涙声で綱吉が叫ぶ。骸は気にせず二の句を継げる。
「そして僕と共にこの世界に終止符を打つ。さぁ、この世界全てに別れを告げなさい。でなければ責め苦は永遠に終わらない!」
ざぁっ。蛇口を捻られて水が流れ出す。綱吉が体を捩った。縛められた両腕を振り回して、引き千切ろうとするかのように体を前に引く。
「やめっ……ろお……、狂ってる! あんたは病気だ!」
「いいえ。僕は正気だ。ただ君に理解できないだけ」
「正気の人間がこんなことできるかァッ!!」
目隠しの下から涙して怒号を飛ばす。
ピチャッ。骸の頬に跳ねたものは唾だ。綱吉が飛ばした。
「骸っ。オレを殺して。でなければアンタが、死んで、やめて。こんなこともうやめろォッ」
浴槽を掻く足の片方を抑えて、骸がほくそ笑む。蛇口をさらに大きく捻った。どばどばと溢れ出る水流が飛び散って少年二人をびしょ濡れにする。腰まで水に浸かった。
「僕は君と生きたい。わかってませんね。僕と君以外が全部死ねばいいだけなんです」
「違うっ……、違ううっ」
口角を噛み締めて綱吉が顎を引く。
嗜虐的に笑い出したのは骸だ。高笑いを数秒で止めて片手で綱吉の後頭部を鷲掴みにする。水面へと叩きつけた。
「苦しみなさい。悶死直前までの責め苦をどれほど経験すれば綱吉の足らない頭でもわかるようになる?! 苦しめ!」
最後は呪詛も同然になって水中から引き上げる。げほげほと激しく咽て、綱吉は結ばれた両腕を痙攣させていた。
「げほぉっ、あ、はぁっ、はぁっ。や、めろ――」
「じゃあ次の間に死んでみせなさい。胃袋が破裂するくらいまで水が飲めたらさすがの僕でも調整がつけられずに君を死なせるかもしれない」
「が?! ぐ、」悲鳴が途切れる。呼吸が整わない内に水中に顔を突き込まれている。綱吉が縛められた体をがむしゃらに揺すりたてた。
馬乗りになったまま、片膝で少年の腹を圧迫して骸はくすくすとする。オッドアイは、見開かれて浴槽の中で白泡を吐きつづける綱吉の後頭部を眺めていた。
抵抗が徐々に弱々しくなる。骸は、それから一分あとに手を持ち上げた。
「……げっ……、がはっ! ごふっ、ぐっ!」
びちゃびちゃと水を吐きつつ咳込んで、綱吉が青白い顔を骸へと向ける。目隠しがびしょ濡れになって肌に吸い付いていた。水槽の中は既に満杯になろうとしている。ただ寝そべるだけでも綱吉の顎が水に浸かる。
「やはり死ねなかった。綱吉、永遠に苦しむのはイヤでしょう?」
そうっと手を放しつつ、骸は浴槽からあがった。
蛇口を捻る。水流の放出が緩やかになった。じょろじょろじょろ、残酷な響きを孕んで浴室を満たしていく。綱吉がブルリと体を震わせた。
「止めてっ……。水……、げほ」
「イヤです。肌で、感じてくださいね。徐々に溺れていく人間って直で見るのは初めてですけど。さぁ、僕に懇願なさい。助けろといえば助けてあげます」
刻々と増えていく水嵩を止める術は綱吉には何もなかった。軽く咳込みながらも首を振る。
「助けるならっ、みんな、に、して」
一瞬だけ傷ついたような目をして、骸は首を振った。
「イヤです。断わる」呟きながら手を伸ばす。蛇口を強く捻って、水流を強くした。ギクリとしたように綱吉が身じろぐ、が、既に顎が浸るほど浴槽が満たされていた。
「君はまた恨みがましい目で僕を見るんでしょうか? それとも真っ赤に泣き腫らした目で僕に懇願するんでしょうか? わかってるでしょうがこれは辛いですよ。死んだ方が楽だ」
片膝をたてた座り方をしたまま、骸が左手を水の中に垂らす。右手では綱吉の前髪を掻き揚げた。
「死ねっ……、死ね」
呪詛を耳にする。睦言を得たように笑った。
「言葉遣いが悪い子にはお仕置きです。君が大好きで大嫌いでたまらない男からの愛の口付け」
茶化すように語尾で媚びを売る。
半ば水に没しかけた唇に吸い付いて、息を吹き込んだ。
「けほっ。か、かァ、ふッ……!」
途中で気がついて綱吉も必死になって骸の口に食いついてくる。顔をあげると、骸は無造作に目隠しをずり降ろした。
泣き腫らした両目がある。酷く怯えていた。
「…………」深く息を吸い込む。そのまま両腕を顔とを水没させる。既に、鼻先まで没しかけた少年はエサを与えられた金魚のように大急ぎで骸の口と自分の口とを重ねた。
「君を離さない。もう僕と一緒に破滅するしかないんです」
何度目かの息継ぎで顔をあげる。骸は不意に囁いた。両目は真剣すぎるほど真剣になって爛々とする。
おわり
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