回想

 



手を離したら死ぬかな。
超直感というのは言葉を成さない。右から左に向けて針金が頭蓋も脳髄も全てを貫いていくのに似てる。その感覚は、一秒の数億分の一瞬だけで痛みは残さない。ただ強烈な悪寒だけを生み出す。
相手の青年は不思議そうな顔をした。
右足を駆け出させたままで、肩越しに振り返ってくる。左右で色の違う瞳を持って尖った顎を持って獣のように強靭な体躯を持った男性だ。滅多なことでは死なない。それは一番よくわかっていた。
けれど手を離したら死ぬかもしれない。まだ頭の左側にぐわんぐわんとする衝撃が残っていた。目尻が引き攣る。
掴んだ袖口を強く引いていた。
まだ不思議そうにして青年が口を引き結ぶ。
手が伸びた。やんわりと相手の指を掴んで引き剥がしにかかる。それに抵抗する。手首を掴みなおして、胸元に寄せた。
だんっ。遠方からライフルの発砲音がした。
青年は遠き空を見上げる。イタリアの空だ、澄み渡っていて淀みが無い。その唇が微かに蠢いた。
深呼吸をしていた。二度目、三度目、やがてオッドアイが静かに自らの靴先を見る。牛革は血で汚れていた。靴底は、べっとりと赤く爛れている。その感触はこの場に居合わせる者全員に共通するものだ。
推し測るように青年が見下ろしてくる。ただ強く睨み返す。
直感の余韻は完全に抜けた。何か足元を崩されるような一言、それが与えられたら手を離してしまう。それがわかる。
胸元に引き込んだ手が自ら動いた。
手を繋ぎあうと青年は踵を返す。そのまま、戦場とは全く別の方角目掛けて走り出した。
道中のことを覚えていない。自分から逃げ道を塞ぐようだった。目隠しをされたような気になって、来た道がわからないフリをして、引力に従って後を走る。
発砲音が幻聴になって鼓膜に残る。空にこだまする。曇り始めていた。雨の予感はしない、けれど。
青年は足を止める。互いに痙攣を起こしたように肩を激しく細かに上下させる。水が飲みたかった。膝が笑っていうことをきかない。
路地裏だった。人の声、足音、遠く離れた筈の営みがすぐ傍にある。ぜえぜえとしながら、六道骸が肩を掴んできた。汗で顔面をぐっしょり濡らして、前髪を額に貼り付けている。
青年は往来を指す。石畳を見た。無数の人の足がある。歩いていく。ずっと昔は日本という国でその中の一人をやっていた。
青年は踵を返した。
繋いだ筈の手からも力がなくなる。
超直感は何も言わない。先程の死の予感よりも、もっと酷い予感がするのに何も言わなかった。だから、これは個人的なものなのだ。誰の為でもない、自分の為だけの予感。手を離さないでいるとまた青年は引き剥がしにかかってくる。首を振った。
疲労で喉が引き攣る。視界すら霞む。
夜通し走った。今、頭上にある光は昨日のものとは違う。
首を振った。青年は、躊躇いがちに片腕を降ろした。
繋いだだけの手が残る。少し、休憩をすると、また走り出した。これから、休める場所があるのかなんてわからなかった。




おわり

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