茨の産声2

 

 

「この馬鹿。最低です。僕ながら目眩がするほどに君が嫌いになりそうだ」
 甘んじて罵倒を受けるつもりではいた。僕も、僕が嫌いになりそうだった。鏡に映る男性を、殴れるならばその奥歯が抜けるくらいには殴り続けてやりたい。それはすぐ隣の六道骸を殴っても同じだ。
 ギロリ、と、彼も剣呑な視線を向けてくる。僕らは互いに白くなった世界で拳を握り締めていた。
「何が彼を急かしたんでしょうね。妨害の策は?」
「思うに彼なりに焦ったんだろう。僕のキスがあって、その週末だ……、勢いがついたともいう」
「馬鹿げていますね、どうするんですか」
「どうもこうも」
 目蓋を閉じる。ピシャリと、言い捨てた。
「マインドコントロールを使う。笹川京子から、沢田綱吉がしてきた告白の記憶を奪う」
「沢田綱吉には?」
「……告白した記憶を奪う」
 六道骸は鼻を鳴らす。自嘲じみた響きを持つ。
「何てややこしいことをするんでしょうかね。これも、恋だからですか?」
「お前は望まないのか?」
「まさか。そうしてください」
 背負った闇に溶け込みながら、六道骸が目を閉じる。ただ、黒いだけの瞳。黒いだけの髪。五年前には僕はその姿を保っていた。

 彼とは反対に僕は両眼を開けた。深夜だ。笹川京子の家に忍び込むには絶好の時間だ。僕は、僕が好きだ。僕のいいところの一つに、欲しいものは何でも手にしてきたことがある。女にすらも彼を与えるつもりはなかった。

 侵入は簡単だった。笹川京子の部屋は思っていたよりも少女らしくなかった。白い壁紙に白いベッドシーツ。ドット柄のピンクカーテン。あと、タンスの上にあるヌイグルミも少女らしいか。鼻頭に貼られた絆創膏は、少し、イメージとズレる気もする。
 そこまで考えて気がついた。僕は笹川京子なんてどうでもいいし、全く、これぽっちも、接点がないのだった。含み笑っていた。
「沢田綱吉の記憶、差し出してもらいましょうか」
 いっそのこと告白だけでなく全ての記憶を奪ってもよかった。
「……ツナくん?」マインドコントロールが為に右手をかざす。その最中で漏れ出た言葉を耳にして、動きが止まる。先程の軽い妄想を真実にしたくなった。
 笹川京子は薄っすらと目を開けた。甘ったるく、囁きかける。
「お眠りなさい。心地のよい寝場所を敷いてあげますから……、さあ、乙女よ。僕の目を見て」
 僅かに喉が震える。笹川京子はゆるゆると目蓋を閉じていった。その唇が、微かに、うごめく。記憶の抽出はすぐに終わる。だが、その記憶を、今の彼女は回想しているのだ。
 ふっくらした唇は微笑みを作った。嬉しげに、くすりとする。
 首を締め上げてしまえたら楽しかった。酷く苦痛だった。かざした右手がガクガクとする。僕の、僕ですら知らない、まだ到達していない彼の意識の奥に笹川京子というのがいて――、そうして、彼の愛を受けているのだ。
「……いっそ、僕は……」
 沢田綱吉に憎まれるべきかもしれない。
 彼を犯すか、彼が大事にしてるものを殺すか、何か一生忘れられないトラウマを与えてやって、殺したいというまでに憎まれるべきかもしれない。
 そうしたら、沢田綱吉は僕を他の大事なものと同列に並べてくれるかもしれなかった。憎しみと愛情は裏表だという。それなら、どうしようもなく憎まれてしまえば、どうしようもなく愛されているのと同じ意味になるのだろうか。
 笹川京子はぐったりとして枕に頭を預けた。次は、沢田綱吉の記憶を奪う番だった。

「同じ意味にはならないと思いますよ。それでも、僕は、賛成しますが」
 六道骸は静かに言った。この頃、彼は頻繁に姿を見せるし、自分から僕の意識を引っ張り出すときがあった。基本的に自分勝手なので、僕の都合はお構いなしだ。深層世界に強引に引っ張りこまれるので、千種達は、唐突に意識を失う僕を本気で心配し始めていた。
「つまり、僕に沢田綱吉を犯せって言っているのか。お前」
「代わりましょうか」
「お前、男同士のセックスのやり方も知らないだろ……」
 六道骸はしばし黙る。無言で、黒い瞳を向けてきた。
「ナビゲーターはやりませんよ。それなら、僕がやる。実際的には同一人物なんだから感覚も同じ。異存ないでしょう――、」そこまでいって気がつく。そうでは、ない。
「賛成するといったな。お前は、憎まれるだけで一生愛されないってわかっていてもそうしたいのか? 賭けにもなりませんよ。彼の恋人ではなく支配者になるつもりならそれもアリでしょうが」
「似たようなものじゃないか。僕は、抱き締めてほしい」
 六道骸の飢餓感は僕にも伝わる。愛されて欲しいと願いつづけている少年だというのもわかる。僕の本質は、そこに集約されることも知っている。
「そのやり方じゃ、両手に鎖でもつけて、その腕のあいだを潜らないと一生抱き締めてもらうことすら出来ないと思いますが」
「方法なんて構わないでしょう? 僕は彼がいい」
 僕も、彼がよかった。不意に笹川京子への嫉妬心が蘇る。六道骸は、唐突に僕とのアクセスを切り上げた。すばやく嫉妬心の蘇りを察知したのだ。

 僕は苦しむことを嫌う。それなら感覚を遮断させて無機質な塊になった方がマシだ。それは彼も同じで、さらに、彼も僕と同じに苦しむ自分の姿を見たくないのだった。二人とも極端にナルシストなのだ。ともあれ僕も自分が苦しむ姿を見ないで済んだ。僕の頭の中では僕は完璧な人間だった。

「のっ、このっ」
 目を開ければ、沢田綱吉は懸命に両手の縛めを解こうとしていた。学校帰りの彼を捕獲して、制服のネクタイを利用して縛り上げて路地裏に連れ込む。沢田綱吉の寝室には家庭教師がいるので、狙うとしたらこの時刻なのだ。捕獲は数分で終わったが。
 沢田綱吉は僕の体の下でもがいていた。
 何をされるか、まだ何も告げてはいないが感じるようだ。脂汗を浮かべて真っ青になっている。
 どうしようか。何も言うつもりはなかった。ただその記憶を問答無用で奪って――、六道骸の言葉が蘇る。くす、と、口角が微笑んだ。それに気付いて沢田綱吉が動きを止める。
 その鼻先に、ただ右手を突き出した。
 右目が熱くなる。マインドコントロールは、すぐに済んだ。記憶を失う直前、彼は切なげに眉根を寄せた。頬を赤くして、何かを恐れるように体を縮めさせる。笹川京子に告白するのに、相当、勇気を出した様子だった。僕にはどうでもいい。むしろ、沢田綱吉すら憎く感じた。

 彼の忠言に従わなかったのは、やはり、僕にはその歪みがわかるからだ。
 もっとスマートに行きたかった。時間さえかければ。時間さえかければ、彼を手中に堕とすことはできる。
 沢田綱吉は直感が鋭い。あるいは、ああ見えて、僕のことをよく見ていたのかもしれない。沢田綱吉は僕に時間を与えたら、本当に、陥落させられてしまうとわかっていたのだ――。それが、理解できたのは、笹川京子と沢田綱吉が付き合いだしてからだった。
「骸……。おまえか?」
 沢田綱吉は、次に会ったとき、憎しみすら込めた眼差しで僕を見上げてきたのだった。二人から記憶を奪ってまだ一週間も経っていないはずだった。

「最も望むことを言い当てたんですね。互いに」
 六道骸は感情の篭らない声でいう。最悪だった。最悪の気分で、僕は、打ちひしがれた六道骸を眺めていた。彼も同じものを見ている。僕はどうしようもなく格好悪かった。
「クソッ……。同じことが起きた以上、もはや無意味だ。あの二人はそのレベルにまで進んでいる」
 いくらマインドコントロールで記憶を奪おうが繰り返してしまう。沢田綱吉は笹川京子に告白する。笹川京子は、それに応える。そうして記憶を失ったことを互いに自覚するのだ。僕の悪事は結局どうなったってバレる。
「どうする……。チッ。消すか」
「笹川京子を?」
 六道骸が目を細める。
 咎めるようには見えなかった。
「覚悟をするべきなんじゃないですか」
「…………。僕だって抱き締めて欲しいだけなのに。望んだ人にそうして欲しいだけなのに。それが罪だっていうんですか? 僕は、ここにきてから実に大人しいし我慢も多くした。彼がよかったのに」
「まるで子どもみたいですよ、君」
「!」
 睨み返すと、六道骸は表情もなく頷いた。
「僕も子どもだ。だから、奪うべきだと思うんです」
「まだ大人なんですよこっちは……!」
 腕が震える。イライラしてしようがなかった。何でもいいから、誰か、どうでもいい人間が目の前にいたら殴り倒してボロボロにして川にでも放り捨ててやりたい気分だ。最後の一線がすぐそこにある。
 元々、僕は、不安定な面が強い。精神的に揺らぎ無く強く在れるわけなかった。一度、踏み越えたら、立ち止まることなんで出来そうもなかった。
 最後にはきっと沢田綱吉を殺す。それがわかっていたから、僕は、何としてでも六道骸には従わず、僕の意思で、彼と一緒に生きたいと思ったのに。
「骸……。僕が、自分の中の良心を預けて分身を作り出したのは、こんな苦悩を生み出すためじゃありません。僕は、醜く変色した君を見ているのが辛かった。君もきっと元の僕を見ているのが辛かった」
「?! 何をいうんだ。こんな場面で」
 そうじゃないのだ。沢田綱吉をどうするかだ。笹川京子を殺すか、……とにかく、どうやって彼に振り向いてもらうかだ。
 六道骸は僕へと向き直った。
 背後の闇が渦巻く。白くなった世界に、徐々に、溶け込んでいった。
「?!」後退る。異様な気配がした。
「もう、この世界はいらないのでは……?」
 六道骸が唇の中で囁く。僕は身構えたままで頷いていた。頬を、熱いものが伝っている。六道骸が自分の変化に耐え切れず、この世の中に絶望しきって殻に閉じこもり後をすべて僕に任せたことは知っている。
 もっと残酷になりたかった。彼を殺したとしても、笑っていられるくらいの度量があれば、まだ僕は救われるのかもしれない。
 彼に抱き締めてもらえるのかもしれない。もはやそれが救いかもわからない。錯覚だけで、――そんな気がする、その錯覚だけで人が何かを信じるには充分なのだ。恐ろしかった。僕は結局、六道骸なのだった。ずっと否定したかった。世界を破滅に追い込むにしても、沢田綱吉の恋人になるにしても、遥か昔の、残酷な思い出に傷ついたままの子供でいる彼とは違うと思いたかった。
 黒い瞳の少年が僕を覗きこむ。僕も覗き返した。
 瞳の、表面にオッドアイが映る。僕は写真には映らない。鏡にも映りたくない。この変色した外見は、その実、僕も大嫌いだったが。
 闇が辺りを閉ざした。互いの腕が互いの胴体に沈み込む。
 だんだんと人体が人体を崩していく。どろどろの塊に溶けていって、僕は、死んだ。

「死んだ……」
 細く、呟く。天井はくすんでいた。
 日本に滞在するようになって、千種たちと共同で住む為に購入したマンションだ。時刻は深夜の四時だ。僕はベランダに出た。十三階建てのマンション、その最上階だ。あの白くなった世界にはもう行かない。
 生まれ変わった気分――、なんてものを知るなら、それは人間ではない。僕も人間ではなかった。
 ベランダに肘を置く。頬杖をついた。
「鎖でも、抱き続けていれば人の温もりがうつるものか」
 唄声は夜に染みていく。愉快な気分だった。沢田綱吉をどうするか、それを思い悩むのがこんなに楽しいものだとは知らなかった。はやく。夜が明けたら、彼を殺しに行こう。
 その前にたっぷりと憎んでもらう。それが出来なくなったら、互いに終わってしまえばいいだけだ。正解は実に簡単で単純だった。僕は、こんな僕なら、気持ち良くなれるので大好きだった。彼を殺すときにも楽しくやれるだろう。あるいは犯すときか。もう、何でもいいから彼を抱きたかった。できるなら。抱き締め返してほしかったけれど。
「どうでもよくなってしまいましたね……」
 白んでいく空を見上げつつ、呟いた。




おわり




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