「僕はいつでも自分の好きな学年だよ」
答えつつ、少年は応接室の扉を開けた。彼の背後からピョコンともう一人の少年が顔を出す。気まずげにもごもごと口を動かした。
「あの、ヒバリさん。その……。授業は」
「わお。三十分も遅刻しておいて出席する気あったとはね。僕は問題ないよ。今は学年ナシにする」
綱吉は信じられないように風紀委員長を見上げた。
平然とした眼差しを返され、ソファーに座るよう指示される。取り締まりに引っかかり、連行された先がここだ。テーブルにティーセットが置かれた。
コポコポ。水音と共に紅茶を注ぐと、ヒバリもソファーに腰をおろした。
「アールグレイで構わないね」
「ヒバリさん……?」(何でこんなこと)
沢田綱吉と雲雀恭弥は友人同士ではなかった。授業をサボってお茶を共にするような縁もないはずだが。
「手をつけない気。紅茶、冷めるよ」
「いっ、いただきます」
綱吉は、一口、二口と口をつけた。
仄かな甘味がした。カップの縁をまじまじ見下ろす。その間に、テーブルを回りこんだ彼が隣に腰をおいた。ハタ、と、目を丸くして綱吉が怪しんだ。
遠慮のない手つきだった。ヒバリの右手が、綱吉の右胸に添えられてぐにぐにと肉を揉みだした。
「あ、あの……?!」
「あたたかいね」
「ヒバリさん?! なっ、ちょっと。やめてっ!」
「君のからだ。柔らかいし、あたたかい」
「何言ってるんですか」
振りほどくことはできなかった。ヒバリに病院送りにされた経験がある。硬直するどころか、俄かに震えだした少年をヒバリは楽しげに見下ろした。
黒い両眼が細くしなる。綱吉が細く悲鳴をあげた。
「つっ」ヒバリの五指が肌に突き立った。
ぎりぎり、皮膚を破って心臓を目指すかのように力が篭る。途切れがちの声で綱吉が訴えた。酷く掠れている声だ。
「ヒバリさん、どいてくださいっ」
「綱吉。綱吉の身体、欲しいな」
「――――ッッ?!」
綱吉の頭部が反り返った。瞬間的に唇を重ねられて、瞬間的に離れていった。唖然とする少年からヒバリが離れたのも瞬間的だった。
雲雀恭弥は、ソファーの前で腕を組み、小さく舌舐めずりをした。
「ねえ、綱吉。君に感じるものがあったんだ。君が欲しいよ。風紀委員、入らない?」
「なっ……えっ? え、遠慮します」
半ば自失したままでうめく。
風紀委員長は小首を傾げてみせる。その口角が常にはない微笑みを模っているので、綱吉の背中にゾクリとしたものが走った。
「こんなものも用意したけど」
デスクの脇にある観賞用プラントに手を突っ込み、ヒバリはコンパクトカメラを取り出した。動画、と、悪戯に成功した子どものような声をだす。
「笹川の妹に見てもらおうか。それとも校内にバラまいてみる? 僕は構わないけど、僕の信者――、風紀委員が許さないかな。風紀を乱す行為だよ」
「なっ……。ヒバリさん?」
「ちょっとね。強行策、嫌いじゃないんだ」
黒目が細くなる。だん、と、カーペットの上に強く一歩を踏み出した。そこまでが綱吉に見えたものだ。次には、少年は吹っ飛んでいた。顎を強打したのは拳だった。
「このカメラをどうにかしたいんなら、僕を倒すんだね」
ヒバリは、拳を突き出したままで宣言をする。顎が割れるほどの痛みはすぐ引いたが、しかし、綱吉の目尻には生理的な涙が浮かんだ。
「う……ぐう……」手で顎を抑え、上半身を起こす。
ヒバリは嗜虐的な笑みを浮かべながらトンファーを構えた。
(何なんだ?!)
既に、唇に覚えた柔らかな感触も消し飛んだ。
綱吉は、背後にある扉に飛び掛ると稲妻のような素早さで応接室を後にした。やらないの? と、ヒバリが不満げに問い掛けたが無視をした。
だが、その夜の内だった。少年は応接室の前へと駆け戻ることになった。
戦々恐々としていた。
既に職員室から応接室のキーを奪って来た。扉は簡単に開いた。雲雀恭弥と正面からやり合う気は無いが、彼の物言いには冗談で済ませられない含みがあった。綱吉は、震える腕で懐中電灯のスイッチをつけた。
廊下に向けて神経を集中させながら、仄かな明かりをぐるりと振り回す。
老朽化した床が照らされた。
(…………ん?)
壁も酷く老朽化していた。
白壁の表面には点々とした黒シミがある。
一箇所は特に酷い。シミが――まるで、放射状にぶちまけられたかのように染み付いている。液でも付いた後のように、シミは床に向けて幾重にも垂れていた。
その垂れた線を見つめつつ、綱吉はゲッソリとして呟いた。
「やばい。部屋を間違えてる」
けれども並盛中にこんな部屋はあっただろうか……。血の気を無くしつつも少年は屈みこんだ。
シミを、つうっと指で触れてみる。
途端に綱吉は飛び跳ねた。全身の血が瞬間的に沸騰して凍り付いていた。ウワァッ、と、叫びかけた口は、背後から伸びた両腕によって塞がれた。
「んんん――っっ!!」
「夜は静かにするものだよ」
「んぐっ!!」
バキィッ。横殴りに殴られ、星が散った。
ぼろぼろの木板の上に横たわった綱吉にヒバリは面白がるような眼差しを向けた。固めた拳をぶら下げたまま、反対の掌を腰に当てる。
「悲鳴あげる気もなくなったかな。で、部屋? 間違ってないよ。ここ応接室だから」
「ど、どうしてここに?! オレが来るってわかって……て?」
風紀委員長は腕を組んだ。小さく頷く。
「僕がそう仕向けたつもりだから」
「仕向けた?!」
「夜にならないと本領がでなくてね。こういうことだよ」
ヒバリは右手を綱吉に向けて差し出した。眼差しを誘導するように、ゆっくり、移動させる。壁に右手の甲がぶつかった。
「僕がいつから並盛にいるか知ってる? この応接室を手放した時期もあったんだけど。でも、最初からこの部屋は僕のものだった。僕は巣に帰ってきたんだ」
こつんこつん、ヒバリが叩く毎に綱吉は言葉を失った。
巨大なシミの真ん中が叩かれている。そのシミはヒバリの手に映る。つまり、
「血……っっ?!」
「色々あってね。埋め立ててある」
「誰が?!」
「決まってるだろ。人間」
ヒバリは首を傾げた。一歩、距離を詰める。
素早かった。綱吉が飛び起きて懐中電灯を拾い上げる。それをヒバリ目掛けて投げつけるのと、彼が懐中電灯を叩き落し――、綱吉の首を鷲掴みにする。
「ちょうだい。君が好き」
銃声が木魂した。
綱吉が膝を折って脱力した。その両手は小刻みに震えていたが、しっかりとグリップを握りしめていた。
「い、いざって時に、と、思って……」
言い訳のように綱吉がうめいた。目尻に涙が浮かんでいる。
「ごめん。オレ、マフィアの縁者なんです」
「……何で謝るの?」
弾かれたように頭上を見上げた。
暗い。懐中電灯をまた落としたが、綱吉にはもはやどうでもいいことだ。雲雀恭弥のシルエットが歪だ。首が有りえない方角へ折れている。
「っっ?!」引鉄を引いたのは反射的だった。
しかし引くと同時に腰が抜けた。ずるずると両足だけで後退りしながら夢中になって引鉄を引いたが、彼は、硝煙の中で立ち続けていた。
綱吉は声を出すこともできなかった。
弾切れした拳銃を信じられないように見つめる。風紀委員長はまだ立っている。その人影は、自ら、懐中電灯を拾い上げた。
「っ――――」拳で殴られた方がまだマシな痛みだった。
綱吉の両眼から数秒ばかり焦点が消えた。
ヒバリの顔に三箇所の穴があった。首には一箇所、科谷は二箇所。しかし、それでも、彼は嘲笑すら見せて、懐中電灯を自分の顔から綱吉へと向けた。
化け物、と、おぼろげに綱吉が意味のある言葉を口にする。ヒバリの表情は綱吉からは見えない。古ぼけた応接室の中で、完全に相手に主導権を奪われた。
「うん。君、もう無理だね」
白光が動く。綱吉の目に光の中心を当てようとするかのようだ。
綱吉は絶句したきり動けないでいた。
「どこから知りたい?」
「…………」
「ここで気絶したらそのまま殺しちゃうよ」
脅迫混じりの催促だった。
酷い頭痛に耳鳴りがする。恐怖のあまり、舌が縺れた。
「死なないの……、あんた」
「実体無いよ。僕は常に僕が好きな学年にいる、……これが意味するところ、まだわからないの?」
綱吉は自失したまま光の向こうにいる少年を見つめた。鼻腔の奥まで血の臭気が漂ってくる。吐き気を抑えるまでもなかった、身体がまるで動かない。使い物になりそうもない。
「……ヒバリさん、は、いつから並盛に」
「ああ。うん、正解に近づくね。僕は並盛中学よりも年上だよ。歳は取らないけどね」
「……殺されて、から……」
否定せず、少年は嬉しげに頷いた。
「ずっと?」
「うん」
ヒバリは懐中電灯を扉の前に置いた。
応接室が広く照らしだされる。綱吉に向けての照明だった。額や頬からダラダラと血を垂らしながら、ヒバリは楽しげに壁を叩いて見せた。血が湧きでる壁の真ん中を叩いた。
「ここに僕が埋まってるんだ。もう百五十年も経っちゃったかな? 随分世の中は変わるものだと思うよ」
「なん、で……。ヒバリさん、風紀委員長――……」
自らの頭を抱えて酷く震えだしていた。
「幽霊って?! 生徒だろォッ。あんたはだってフツーに委員長で……!」
「綱吉は風紀委員がどこから来るか推理できる?」
(うわあああっっ!!)強く頭を振りかぶる。ヒバリは目を細めて壁をコツコツと叩いた。中に入っている者の、具合を確かめるような仕草だ。
「あいつらの共通点は霊感を持ってること。つまりは僕に自分から気付いちゃうようなヒトね。だから、色々と工作する。……一ヶ月もすれば忠実にさせるししてみせる」
「ヒバリさんっ。やめてっ。殺さないでえ!!」
「ヤダよ。マフィアなんだって? 俄然、気に入っちゃうな。僕はイイとこの息子だったんだよ。今で言うヤクザみたいなもんだけど……。そのおかげで壁に生きたまま埋め立てられたけど」
「いやだっ?! いやっ!!」
「学校ってオモシロイよね。見てるうちに楽しくなっちゃった。僕はここに棲むと決めたんだ」
口調には世間話の気軽さがある。ヒバリが歩み寄れば綱吉は奇声を発した。
「誰か!! 誰かぁっ!!」
「ただ、近頃は寂しくてね……。赤ん坊と一緒の君見たのも必然だったかもしれない。段々とね……。綱吉、好き」
「いやっ。ああぁあああっっ!!」
綱吉の腕を取るとヒバリは踵を返す。ずるずる引き摺られながら泣き叫んでいた。ツメを木板に立てるが、引き立てる力が尋常ではない。ツメの方が折れた。
壁の前に来るとヒバリは腰を折った。
意味のない叫び声が喉に吸い込まれ押さえつけられていく。真正面から黒目に見られて、もはや、悲鳴すらでない。ヒバリの両手が綱吉の首へと伸びた。
べきばきとした音が脳裏に木魂する。
綱吉の視界が崩れていった。
「埋める前に、殺さないとね……。僕は生きたままだったけど。綱吉には、そんな苦しいことさせたくないよ」
薄く微笑みながら、完全に首を折る。
ばきんっ。その時、鈍い断末魔が響いた。常には無い方角に首を垂らしながら、綱吉はおぼろげに眼球を動かす。
(なんで自分の首が折れる音が聞こえるの)雲雀恭弥のトンファーが動いた。壁に楽々と穴を穿つ。壁を五十センチも壊した先に空間があった。地面に穴が空いている。
綱吉はその中に転がされた。目の前にしゃれこうべがあった。ああ、これが。唇は何故だか動いた。意識は安定しなかった。
「はじめましで……。ヒバリさん?」
「うん。はじめまして」
壁の向こうから、ヒバリが楽しげに返事をした。
END.
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