リップクリームの怪談
<こたつ怪談>

 
 冬の訪れから数日が経った頃だった。
「ボス、唇がカサカサっすね」
「ん? あ、……ああ。マジだ」
 金髪でクセ毛、少々タレ目の美青年。
 温和な顔立ちだったが、青年はれっきとしたイタリアンマフィアのドンだった。乾き、微かにささくれだった自らの唇をなでつつ、青年は眼球だけを上向きにする。冬の空は、いつもより遠く感じた。
 考えるような間を挟んだあとで、小さく頷いた。
「リップクリーム、いるな」
 笑いを含んだ声色だ。
 部下たち数名が同意する。
 すぐに、一人が薬局へと足を運んだ。ビニール袋を渡されて、青年は、繰り出し式のスティック型リップクリームを手にする。
 くるくると回転させて、凝固したクリームを繰りだすと自らの唇に塗りつけた。
 二度、三度と塗り重ねて、唇の上下をハムハムと擦り合わせる。
「……ん。オッケー」
 リップクリームをポケットに押し込め、青年は低地のビルを見下ろした。寒風が吹き付ける、風がやわらかな金髪を吹き散らしてボサボサにさせる。クリームがついて、てらてらと下唇が光る。
「メンドーだからな、歯向かうようなやっちまえ。この商売、舐められちゃあがったりだってことを先方にも世のバカどもにも思い知らせてやらにゃあ」
 青年は満足でに自らの唇に指を当てた。人差し指と、中指。そうして鬱蒼と笑いをこぼす。
 それは、大きなヤマだった。率いるファミリーはさらに勢力を増した。新たに豪邸を建て直してから、青年はめきめきとそれまでよりも一層の頭角を現した。
 冬が過ぎた。部下の一人が、また声をかけた。
「ボス、唇がカサカサっす」
「んん? ああ、大丈夫だ。ホラな?」
 ドンのイスに腰掛け、デスクワークに励んでいた彼はひょうきんな微笑みを作る。胸ポケットからリップクリームを取り出し、部下に向けてくびりだしてみせる。
「抜かりはないってもんだぜ」
 青年は楽しげに唇にクリームを塗りつけた。
 この頃の青年は内外のいろいろな人物から同じことを指摘される。男といわず、女といわず。彼のポケットにリップクリームが納まっていることは、夏を迎えるころにはファミリーの一員の誰もが知っていた。
「ボス。今度の新商品、イイらしいっすよ」
「へえ〜。じゃ、箱で注文しといてくれ」
「あいよ。しかしボス、体質ですか? 昔はそんなに唇カサカサじゃなかったでしょうよ。冬のあいだだけだと思ったら、春も夏も……。ずっとだ。ミョ〜な病気の前兆じゃないでしょうね?」
「ははっ。ばーか、んなことねえよ。俺は健康そのものだぜ?」
 捺印を片手に、ディーノは頬杖をついた。
 デスクには未処理の書類がヤマになるほど積まれている。手を止めての雑談が続くうちに、見かねた部下の一人が紅茶を運んできた。
 青年は、薄い微笑みと共にカップを受け取った。
「…………。イイ香りだ。ウチの屋敷にも運んでもらっていいか?」
「? 構いませんぜ、気に入ってもらえて何よりです」
「そうか。ありがてぇ」
 青年は、赤茶色の液体に唇をつける。
 リップクリームをつけてもつけても、彼の唇は平坦に滑らかに艶やかにならない。いつも荒れていた。昔の美少年ぶりを知るものは、さらに青年の年齢を知る者は、苦労が口にでたとか言っていた。
「二度目の冬だな」
 頬杖をつき、万年筆を片手にしながら青年が言う。
「そうですね。……オレたちのファミリーがイタリアで一番になって、アイツらが没落してから一年ですか。やっぱり、少し寂しいですね。もう、あのハチャメチャだった新年会が無いのって。恒例でしたのに」
「そうだなァ。まあ、しょうがねえ」
「その一言で済むんだから、ボスは、ホントにスゲーですよ……」
「そっかぁ?」
 青年は仕事に戻った。
 町が深夜に沈みだした時分に終えた。
 屋敷の人間はそれでも彼を辛抱強く待っていた。
 彼は、挨拶も手短にしてシャワー室に向かった。彼が何時間、酷いときは一日もシャワー室に篭るクセがあるのは、既に屋敷の召使ならば誰でも知っている。誰も、咎めなかった。彼は美しかったから、きっと、その維持に精魂を込めているのだろうと。
 青年は、真っ先に更衣室に置かれた棚に向かった。シュワー室の扉は、開けない。
 スーツからネクタイを引き抜いて、首元のボタンを外す。
 二段目の天井を探った。ガタン、と、レバーを引くと棚が左側にスライドした。ジャケットを脱ぎ捨てていくと、青年は、下へと伸びる階段を降りた。
「…………」
 胸ポケットへと手が伸びる。
 最下層に辿り付いた。軽く押しただけで、扉が内側に向けて開く。広い地下室の中は暗かったが、青年が入ることで一条の光が伸びた。
 奥でうごめく人影が俄かに照らされる。
「…………よお」
 扉に片腕をつきながら、青年は唇にリップクリームを塗りつけた。
 人影がみじろぐ。茶色い髪と茶色い目をした少年で、両手を頭の上で束ねられた格好で吊り下げられていた。こうべを垂れているが、横目で青年を見つめている。昏い光が宿った瞳をしていた。
「さあ。今日も」
 リップクリームを差した唇を示しながら、愉悦に濡れた声が訴えた。
「キスしようぜ、ツナ」


END.

 

07.4.4

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