「兄ちゃん、待ってよ。どういう意味?」
「その内、東京行きたいって思って」
「何で?」
「なんで、って……。色々できるし。遊ぶ場所も多いし。きっとあそこに行けたら世界広がると思うんだ。いやなんだよ、ここ。狭いし」
「そっちで出来ること、ここじゃ出来ないの?」
「出来ないの!」
彼は苛立ったように振り返った。
それから、ハッとして、恥じたように空を睨んだ。
「ごめん。……みーちゃん。ここも嫌いじゃないけど、不便なんだよ」
茶色い瞳に茶色い髪の毛。彼はショルダーバックを肩に引っ掛け直すと、男の子の背中を叩いた。景気良い仕草だったので少年はたたらを踏んだ。
「まー、正月には帰るし。それに先の話だよ!」
「兄ちゃん。ツナ! 僕も連れてってよ」
「俺、誘拐犯になっちゃうじゃん」
それでもいいと少年は思った。彼が誘拐犯になって警察に追われようが自分たちの生活が苦しかろうが、一緒にいられるならそれでも良かった。
しかし少年は自らの考えを嘲笑った。それほど馬鹿ではないと自負があった故だ。
「あ〜あ、結局、兄ちゃんも薄情だ。置いてくんだから。ウチの兄ちゃんも、僕放っといて自分だけ引越ししなかったんだよ?」
悲しさを堪えて笑って見せた。彼は、すまなさそうに少年の頭を撫でた。
「みーちゃんなら、すぐに他の友達できるよ。ほら、俺なんかより同年代の子の方がいいだろ?」
沢田綱吉の方がいい。少年は思った。だけれど、口にしないで、曖昧に頷いた。綱吉は少し先を歩きながら首を傾げた。
バイトしないとなぁ。向こうでの資金を今から貯めておかないと……。駆け寄りながら少年は意地悪い笑みを浮かべた。
「東京、ブッカ高いってさ」
「あ〜。なんかすごい差があるよな、時給」
並んで歩いた。
それが、もう、永遠に来ないのだ。その予感に少年は慄いた。
ランドセルが斜面にある。ごろごろ転がってきて、落ちて、やがて底に向かった。少年より先に、向かっていった。彼は予感を確信へ変える。意味のない喚き声だけが口をついた。
やがて、底でふやけたものに当たった。
その塊が動いた。
ずるずる、底を這いながら立ち昇る気体を取り囲む。
生体には微かな電力が宿ると言う。死ぬ時にはそれが電離する。気体化して遊離するのだ。プラズマ。その単語を思い浮かべて、しばらく考えた。考えることができる、それに驚いていた。
「……大きくなったら。兄ちゃんと同じところに、行く……」
ふやけていた。これもすぐにふやける。沈黙の末に、まだふやけていないものを切り裂いた。その、腹を。自らの心臓も引き裂いて、少年の腹の中へと埋めた。
唇がぱくぱくと動かせた。空気はもう出ない。彼は、少年の掌でふやけたものを撫でた後、額に触れた。
「僕の思考じゃないな、これは」
目の前にプラズマがある。
気体が残り火になり、完全に消滅した。死んだ。
「…………。賭けてみるか。これに」
呟いたところで顔をあげた。気配。誰かが、引き揚げにきた。兄ちゃん、と、腹から響くものがある。大きくなったら彼と同じところに行く。なるほど、この繋がりか。潜ってきたのは、学生服のスラックスだけを付けた綱吉だった。顔をぐしゃぐしゃにしていた。
背中に腕を回して、大急ぎで海面に向かっていく。浅瀬に引き揚げられた。
「みーちゃん! みーちゃん!!」揺さぶられるが、死んだ人間は動かない。少年は縋り付きながら泣いていた。大人が集まってくる。腹の傷を見て何かに突付かれたのかと嘆く。
「ごめん。ごめんっ。冷たかっただろ?! ごめん……!!」それは暖かい塊だった。
「ずっと寂しがってたのに。ごめん、気がつかなくて。ずっとお前苦しんでたのに。もっとちゃんと…・…、う、あ。ごめん。安らかに眠って……。お兄ちゃんになれなくてごめん。ごめん……。でもほんとに愛してた。弟だと思ってたんだ。ごめん、迎えも遅くて。冷たくて、痛かっただろ……!!」
少年の亡骸を抱きしめて綱吉は懺悔をする。元はふやけていたものは、目を開けようかと逡巡した。この体が鼓動すれば喜ぶのか。大きくなったらお兄ちゃんと同じところに行く。その意味を考え、少年の火葬が終わり骨壷が埋め立てられた後で合点した。
「満たされたかった。僕と違うのは彼は方法を確信していた」
骨壺から水が染み出る。大地に染み出た水は、やがて、人の形を作る。
真白い肌をした少年が立っていた。彼は生み出した新たな体を海面に映してみる。左右で目の色が違う――、右目に六の刻印がある。
痛みはない。呪いはさほど強くない。
冷たい。冷たいことは苦しいと、あの、お兄ちゃんとやらは言った。彼の言葉を思い返した末、――海に戻る道は考えないことにした。無くした腹の代わりに、自分を満たすものが欲しい。あの、
「沢田綱吉……なら」
満たしてくれる。確信した。
END.
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