しかばね

 


 ちょっとした切っ掛けで、それまで大事に思っていたものが憎らしくなったりどうでもよくなったり、終いには壊す気になったりするものだ。彼の場合はそれが見事に当てはまって、実際、ずいぶん人格が変わったように思うのだ。この二週間ばかりのあいだに。
「おいしいですか? 千種と一緒にくるんですよ、たまに」
 まじまじとした視線を受け止めつつも、骸はコーヒーカップを傾けた。
「はあ……」曖昧な返事で、綱吉は瞳を泳がせた。
 ふかふかの赤い絨毯に足をつけて、ふかふかのソファーに腰掛けて、金の縁取りがついたコップを取り上げる。オレンジ色の水面が揺らめいた。
 異様に華美な喫茶店だ。高級レストランとも言う。並盛生と黒曜生の制服を着込んだ二人は、明らかに異質であったが、むしろ店員は彼らを歓迎していた。正確には骸を歓迎したのだが。
「こういうとこは嫌いですか?」
「そ、そんなことないけど見慣れないっていうか」
 もごもごとして、オレンジジュースを口に含む。
 すぐに目を見開かせたので、骸は歯を見せた。
「美味しいでしょう。奢りですし、好きなだけどうぞ」
「なんか、高そう。このジュースすっごいツブだくさん」
「今日は、先日のお礼も兼ねたかったのでココに呼びました。目覚し時計、ありがたく使わせていただいてますよ」
「そ、そう?」
 綱吉が勇んだように身を乗り出した。
「ちょっと趣味じゃないかなーとかも思ってたよ。嬉しいな」
「いえいえ。君の気遣いに感謝してます。せっかくですから、僕も親交を深めようかという気になりました」
「へえ。そうなんですか」
 素直に笑顔を見せる綱吉を前に、骸は俄かに微笑みを翳らせた。
「で。くだんのモノは、コレなんですけど」
 ソファの隅に置いていたカバンを引き寄せて、中から小さな箱を取り出した。
「今度、君の先生方と会うでしょ。そのときに、これを持っていこうと思うんですけど……。ああ、これは試作品ですが。味見してもらっていいですか?」
「アップルパイ?」
 箱から引き出された一切れのお菓子に、綱吉が目を丸める。
 骸は頷いた。店内は広々としているが、これでも個室だ。誰の目もないし、気を遣うこともない。テーブルの上からバスケットを取り上げ、中から取り出したフォークを渡した。
「え? 骸さんが作ったの?」
「ハイ。千種と犬にも食べさせたんですけど、感想もらえなかったので」
「へ〜。うまそう! 骸さん、意外と見かけによらないんですね」
 含んだような笑みを返して、骸が腕を組んだ。足も組んでいるので、そうすると威圧感がでるのだが、何かを企んでるようにも見えるのだが、綱吉はアップルパイしか見つめていなかった。表面に塗られた黄金色のペーストに目をきらきらさせて、フォークでパイの先端をつつく。
「サクッとしてて見た目悪くないし。うん、美味しいし!」
「そうですか? 良かった。千種と犬は、二人とも、ぜんぜん感想を喋ってくれなくて……」
 骸がニヤリとする。嬉しげにアップルパイを突付きながら、綱吉は不思議そうに骸を見上げた。
「骸さんは食べないの?」
「僕はいいです」
「? 自分で食べてないんですか?」
 この質問には、骸は、数秒ばかり沈黙した。
「もちろん、食べましたよ」(相変わらず勘は鋭いな)
 あからさまなくらいの笑顔で、しらっとしてみせる。既に、綱吉はアップルパイに集中して気に留めていなかった。骸は自信たっぷりに頷いた。実際、練習を重ねたことだけは事実なのだ。
 レストランを出ると、二人は駅に向かって並んで歩いた。午後のうららかな光が歩道の隅々までをも明るくさせる。高級住宅街の一角なためか、辺りは閑静で人の気配がしなかった。綱吉は、不可思議そうに骸のカバンを見つめていた。
「女の子が作ったヤツみたいにおいしかったですよ。ハルとか京子ちゃんも喜ぶと思う」
「ほう。なら、彼女らにもあげてみますか」
「ああ、でもビアンキに見せるとややこしくなるからやめた方が……」
 バス停近くの大通りに入ると、ぐっと人の気配が増えた。綱吉がクラリとしてたたらを踏んだのは、そのときだ。彼の後ろにいたこともあって、骸は綱吉の背中に片手を添えた。
「大丈夫ですか」
 目を白黒とさせる綱吉を見下ろす、その瞳が僅かに楽しそうに煌めいた。
 サッと全身を一瞥するだけでも、正常な状態にないことは明らかだ。両足はガクガクと震え、指先は痙攣じみた戦慄きを起こしている。綱吉自身も驚いたようで、慌てて、黒曜中の制服にしがみついた。
「えっ……、あ、あれ・……。あれ?」
「大丈夫じゃないようですね。どこかに入りましょうか」
 さりげなく、骸の両腕が綱吉の背中に回りこんだ。
 驚いたように見上げて、しかし、綱吉はうな垂れた。
「や、ちょっと。あ、……はれ……?」
 呂律が回っていない。体が、ずるずると沈み込みはじめた。
 二の腕を掴んで、立ち上がらせて、骸は綱吉の前にでた。
「その状態の君を放り出すわけにはいきませんね。家に辿り付けると思うんですか?」
 ?? 両目を混乱させる綱吉だが、腕を引くと付いてきた。骸はわざと歩調を速めた。足を縺れさせながら、ぐったりとして、綱吉は思考すらろくに進んでいないようだった。何で、だとか、か細いうめき声だけが聞こえた。
「横になった方がいいですね。丁度いい場所もありますから」
「そうですか……? すいません、ちょっとこれは」
 真っ青な顔色だったが、骸は動じた様子もなく綱吉を見返した。
 それが当たり前だと言わんばかりの態度。そのまま、堂々とホテルに足を踏み入れた。フロントで鍵を受け取った五分後には、最上階の一室へとたどり着いていた。後ろ手にロックを施して、綱吉をベッドに降ろす。
「綱吉くん。気分はどうですか」
「な、なにがなんだか」
 仰向けになって、綱吉は自らの顔を両手で覆った。
 肘までもが俄かに震えている。骸はにこりとしていた。
(順調に効いてる。君たちの犠牲は無駄にしないですみそうだ)脳裏に浮かぶのは、まぁ、今ごろもきっとマンションの一角でのたうってるだろう千種と犬の姿だ。二人は、この二週間ばかりで極端に骸を怖がるようになっていた。
「…………」はぁ、と、荒く息をついて綱吉は両手をどけた。
 困ったように骸を見上げる。覆い被さりながら、骸が小首を傾げた。
「すいませ――、ん。なんか痺、れ、て。電話。家に……。迎え……」
「今日は2006年の9月27日ですね、綱吉くん」
「へっ?」小首を傾げたままで、骸が呟いた。唐突だったので、綱吉は言葉を忘れたような顔で少年を見上げた。純粋に何を言われたのかわからないようだった。
「先日のお礼をするなら、今日しかないと思ったんですけど。どうしてかわかります?」
 目を白黒とさせて、しかし、力を振り絞ったように上半身を持ち上げる。綱吉は、自らずるずると這って骸の下から上半身を連れ出した。
「どうしてって。お、オレと……。同じように?」
「そうです。今日は、僕と君の記念日に相応しいでしょう?」
 9月6日に骸にプレゼントを渡したのは綱吉だ。苦しげに悶えながらも、綱吉もそれを思い出したらしかった。恥かしげに眉根を寄せる。
「なん、か。へんな言い方するんだな」
「ワザとと言ったらどうします」
 両目を笑わせて、しかし骸は上半身を起こす。
「…………?」意味を図りかねたのか、綱吉が沈黙する。不安げに眉根を寄せていた。
「本当ならばずっと前から言うべきだったんでしょうけどね。僕も、もう、決めましたから」
 骸は奇妙なくらいに明るく綱吉の名を呼んだ。そうして、両方の肩をがしりと掴む。
「ひえ――」瞬間、聞こえたのは悲鳴だが、骸は公然として無視をした。
「まっ、ま、ひ、えええ!!」下唇を食まれて、綱吉が引き攣る。痺れてろくに動けず、むしろ、多少の痛みを伴うほどの刺激であるはずだが、骸を引き剥がすくらいの力を込めて腕を突っ張らせた。
 我が物顔で、彼は自ら体を引き離した。腕を組んでニヤリとする。
「君が好きなんですよ」
「は、はえっ?!」
「だから、君が好きだと。LOVEって言えばわかりますか?」
 ちょっとした切っ掛けで、それまで大事に思っていたものが憎らしくなったりどうでもよくなったり、終いには壊す気になったりするものだ。彼の場合はそれが見事に当てはまって、実際、ずいぶん我慢したように思うのだ。この二週間、一度も会いに行かなかった。
「今日は君にお礼をするつもりだって言ったでしょう。さあ、綱吉くん。僕をあげましょう」
「な、何?」「撫でられると気持ちいいでしょう……?」
 ゆったりと指先を滑らせる。ガラにもなくワクワクするのを感じながら、骸は、慈悲も無く綱吉の下肢に手をかけた。室内に、弱々しい悲鳴と罵倒とが篭もったが、三十分もしない内に骸は満足して手を離した。
「これくらいでいいですかね。気持ちよかったですか」
「な゛……う゛……」
 何て言ってるのかわからないな。
 真面目に思いつつも、骸は自らの指先を舐めた。白くてどろどろしたものがこびりついている。妙な生臭さと苦さで、彼は驚いたように目を丸くして綱吉を見下ろした。それから、思い直したように指に付着したものすべてを舐め取ってみせる。
「…………うう」くたりとベッドに倒れたままで、綱吉が半泣きでうめいた。
 目の前の光景が信じられないとばかりに目を瞑る。骸はくふくふ笑いながら勝ち誇った。
「素晴らしい記念日じゃないですか。見たところ、初めてですね? 君」
 薄く瞳を開けて、綱吉が複雑そうに眉を寄せた。返答を待たずに骸が言った。
「想像はついてましたけど。その年齢だし疎そうですし」ここ数日、作戦を決めてからの彼はイライラしていることが多かったのだが、ようやく、骸は納得することができていた。イライラしたのは、こうした経験をすでに持っていたらどうしようかと怪しがっていたからに違いない。
「綱吉くんの精通をさせてもらえるなんて光栄ですねえ」
「う……、うわぁあああ!!」
 痺れも忘れて綱吉が泣き出した。
 気にしない。骸はとことん気にしなかった。
「お互いにとって忘れられない日になったなら良かったじゃないですか。9月27日に相応しい」
 やっぱり悪びれのない、むしろ邪気さえない発言に、綱吉は頭を抱えて仰け反った。
 ホテルを出たのは、それからまた三十分後だ。痺れが続くのは一時間だと知っていたが、骸はこの件に関しては押し黙っていたので、痺れが抜けたと同時に綱吉が逃げ出したといった方が正しい言い方になる。
「待ってくださいよ。綱吉くん。腰は大丈夫なんですか」
 ぱたぱたと後をついていって、骸。綱吉が涙目で振り返った。
「来るなー!! 何なんだ! 大丈夫ですよ!」
「そうなんですか? ……やっぱり直接やらないとダメージには……」
 低くうめいて、骸が足を止める。しかし綱吉も足を止めた。横断歩道の真ん中での出来事だった。
「ちょくせつ……やる?」ひくひくと震えた声。さも恐ろしいことを聞いたというような声。
 骸は、静かに頷いた。
「僕のモノを君んとこに突っ――」
「ストップ! 最後まで言わなくていいから!」
 焦りつつ、綱吉が信号を見上げた。緑色のランプが点滅していた。その視線の先を読んで、骸は少年の腕を取った。それだけでヒィッと彼は悲鳴をあげたが。道路の反対側に渡り、その直後に骸と綱吉の背後で乗用車が行き交った。
「か、勘弁して……。もう考えるのもつらい。本気で言ってるのか?!」
「はぁ。いくらでも言いますけどね、もう。綱吉くんのことが好きな――」
「言わなくてもいいよ! もう!!」
(どっちなんですか)いささかイラッとしつつも骸が黙る。
 自分の身に起きたことを信じたくないとうように、綱吉はよろよろとしつつも頭を振り回していた。ぶつぶつした呻き声を、骸が聞き取った範囲で再現するとこのようになる。いわく、まだ女の子とすらやってないのに――、骸となんて――、いやそもそもありえない――、あれ? 何でこんなことに――。
 取りとめのない言葉を聞いてるうちに、バス停が近くなった。骸も、もはやぐずぐずしていられなかった。
「その点なら心配いりませんよ。僕も初めてだから」
「……は?」呆れたような、蔑むような光を一瞬だけ眼光に混ぜて、骸は腰に手を当てた。無意味に威張ったようなポーズで、綱吉を睨みつける。
「本当に記念日にしてあげてもよかったんですけどね」
「な、なにをいって」
「僕は童貞をなくす、君は純潔を奪われる。上々じゃないですか」
「上々って――、て、は?」綱吉がぽかんとして足を止めた。
 振り返ってまじまじと見つめられ、骸が眉を潜める。綱吉は、思わずと言った様子で骸を指差していた。
「……経験、ないんですか? ありそうなのに」
「女にうつつを抜かすほどヒマじゃなかったもので……」
 綱吉が黙り込む。骸も他にいいようがないので黙りこむ。ぎこちない沈黙が流れた。
 乗るはずのバスが背後からやってきて、二人を追い越していったが、それでも二人は動かなかった。骸はぴくりと眉根をあげる。
「そんなにおかしいですか?」
「い、いや、そんなこと……ないけど。オレもそうだし」
 自分が受けた暴行をもう忘れかけているのか、綱吉は頬を赤らめさせた。この手の話題に気恥ずかしさを伴わせるのか、と、冷静に分析しながらも骸はにわかな後悔をした。また、すこしイライラとしてきた。
(似たような結果になっただろうし、犯しとけばよかった)
 いつの間にか、気恥ずかしげだった綱吉が同士を見つけたとわんばかりの顔になっている。照れたような目で見られると、そんなに悪い気がしないのがさらに骸の癪に障ったが、彼は黙ったまま眼差しを受け入れた。そろそろ、日が翳りはじめていた。
「あっ? ま、またバスが来ちゃうよ!」
 惚れた弱みって具体的にどんなものだろう。終いには、取り留めなく考え始めたところで、綱吉が慌てたように声を張りあげた。

 

おわり


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