ゆめわたり

 

 

 ごぷり、泡が弾けた音色に引き戻されそうになる。
 少年は肩越しに振り向いた。
 凪いだ海のように静かで平らな――目にみえるわけではないが、けれども平らな何かが歩いてきた道の奥にある。そこから、一本の蓮の蔦が伸びていた。少年の足元にまで続いている。
 感情を移さない二色の瞳は、特別に動揺することも嘆くこともなく前を見据えた。
 彼が足を伸ばす。すると、蓮の花が伸びて道をつくる。彼自身のすがたは、霧の中にいるかのように薄くかすれていた。ゆら、ゆら、制止して見えることはない。
 かつて、日本に滞在していたころに着た制服とよくにた服を着ていた。主色は黒に変わっていたが。
(飽くことのない痛み。終わることのない絶望。僕を好むか?)
 悪夢の群れが、黒色の露に姿を変えて蓮に追い縋っていた。
 頼二色の瞳をしならせて、少年は体の向きを変えた。新たな蓮が、何もない虚空から湧き上がる。その花を踏みつけて、少年は別の道をすすんだ。
 付き合うほどヒマでも物好きでもない、何より、今はそういう気分ではないのだ。
 両手をポケットに突き入れて、ぶらぶらと辺りを彷徨った。
 することはないのだ、目的もない。凪いだ海のように静かで、毒気を思わせるほどに穏やかなだけで何もない地平線。平らなだけで何の波も生まれない、その実、そうした光景は異様なものだ。ほとんど生まれ得ない。
 二色の瞳に感慨はなく、感情も、見当たらない。六道骸は不意に足をとめた。
 行き着いたようだ。予感はうすうすと感じていた。先日の一件で、思ったよりも彼のこころに近づいたような気がしていたのだ。夢をわたる、この行為には時間も時空も関係がない。だから有り得ないことではなかった、が。
「くだらないな」
 率直な言葉がこぼれていた。
 蓮のつるが幻に代わり、見えなくなった。
 無色な大地に草が生えていく。またたく間に空が浮き上がり、辺りにはなだらかな丘が広がった。笑い声、話し声。丘の上には子供が走り回っていて――、骸は僅かに眉を持ち上げた。
 無邪気に笑い声をあげる赤子に見覚えがある。ヒットマンのリボーンだ。
 駆け抜ける姿は、3歳ごろの子供のようにも見える。追いかけるのは、毛むくじゃらな頭をした子供だ。彼らを見て、くすくすと笑い声をかけるショートカットの少女。沢田綱吉は、彼女の近くで友人たちと笑いあっていた。
 雲雀恭弥までもが穏やかな笑みを浮かべて綱吉に何事かを語りかけていた。
 骸の知らない顔がいくつもあったが、フゥ太の姿に気がついて眉根を寄せた。吐き気を覚えますね、と、唇の中で二度目の感想をささやいていた。
(夢の中までもが甘い。あの子は……、こんな幻想を抱いて?)
 これが、沢田綱吉の意識下にある理想像だというのか。
 骸が渡り歩く『夢の世界』は偽りをかたちにしない。真実だけを映す。そうして、骸は一人の少女を自分の手足にすることを決めたのだ。先日の一件を思い返し、骸は両手を拳に変えた。
「君と僕とはあまりに見えるものが違う、沢田綱吉――。君が憎い」
 青と赤、オッドアイを一瞬だけ苦渋に歪ませて、踵を返す。
 そうした直後、骸はぴたりと動きを止めた。信じられない思いで、丘の向こう側を見つめる。綱吉たちの奥で、川の字になって寝転がる少年たちがいた。
「あれは」骸の喉が、愕然と震えていた。
「…………!」
 芝生の上にいたのは骸自身だった。
 両脇に千種と犬を従えて、すやすやと寝息を立てている。
 彼を起こさないように注意しながら、千種と犬が言葉を交し合っていた。少しだけ離れたところで凪が体育座りをしていて、時折り、骸の寝顔を見下ろしてクスクスと笑う。千種や犬と目配せしてクスクスと笑う。心の底から幸福そうな三人の姿を見るのは初めてだったが、そんなことよりも、骸は鋭く胸中で否定した。
(違う。僕は眠らない。千種と犬より先に寝ることはない)
 沢田綱吉の夢のなかだ。何度か、言い聞かせた。だがその事実がまた骸を揺さぶった。
 ここにいる三人は、全てが綱吉のイメージによって出来ている。無意識下のイメージだ。
 平和だ。どこまでも平和なこの場所で、骸たちは至福に身を委ねていた。六道骸は穏やかに目を閉じ、あどけない顔をして唇を半分だけ開けている。知らない人間の顔を見るように、骸は己の顔から視線が外せなかった。そうして気がつく。首に霧のリングがない。
 丘の周辺に視線を走らせる。霧の守護者以外は、すべて、リングをつけていた。
(僕を夢のなかに組み込んでいる。……でも守護者としてはカウントしてない)思考に制御がきかなかった。――それが示すことは?
 あっさりと結論に達して、骸の心臓は今度こそギクリとした。
 それが、恐怖か緊張か、何を起因としているのかはわからない。しばらく足元を睨みつけてから、骸は噛み潰した声音を吐き出した。
「……甘いな……!」
 振り払うように、何度か首を振る。
 自然と手に力をこめて、気がつけば汗を掻いていた。
 おそるおそると両手を胸の前まで持ち上げる。開いてみると、汗で滲んでいた。
「…………」軽いめまいを感じた。目を細める。意識が遠のくような感覚と共に、ゴプンッと水が弾ける音色がした。耳のすぐ裏側だ。肌の上を、水の冷たさが刺していく。
 両手を垂らした。薄い笑みが、その唇を彩る。
「いつか死ぬ。長くは保たない」
 こんな幻想なんて持てなくなる、すぐに。
 胸中で付け足して、再び芝生の上の六道骸を見上げる。
 激しさを感じない横顔をしていた。怒りとも嘆きともつかない、白い塊が喉元を競りあがってくる。骸は踵を返した。しっかりした足取りで、丘の上へと向かう。綱吉は目を丸めた。
「骸さん? どうしたんですか、寝ていたんじゃ」
 ふり返ろうとする綱吉を遮って、骸はその腕を取った。
「十代目に何しやがる、おい」
 周囲がざわめくが、骸は気にしなかった。
 覗きこむように屈みこんで、下から綱吉の顔を見つめる。意外にも沢田綱吉のまつげは長かった。目は大きめで、あどけない顔をしている。今まで特に気にしてこなかったことで、新鮮に覚えながらも骸は二色の瞳をしならせた。
「な、なにっ? あ、獄寺くん待って。なにかオレに用でも」
「君は馬鹿だ沢田綱吉。無償の愛でも気取るつもりなんですか」
 両頬に指を添えた。クイと上向くようにされて、綱吉が慌てる。
「? む、くろさん」白い塊が、喉をでて額を昇る。脳髄が痺れるような錯覚がした。頭のなかが打ち震えている――、綱吉は、爪先立ちになりながら必死になって骸の両腕に縋り付いていた。
 下から顔面を掬い上げた。綱吉にとっては不意打ちだ。完全に慌てて、暴れるように骸の腕を引っ掻くが、骸は綱吉に添えた両手を引き剥がそうとしなかった。自らの唇を頬へと寄せる。骸が柔らかな感触を覚えたのと同時、丘の上に阿鼻叫喚が広がった。
「あああああ――――っっ?!!」
「なっ、何してんだよ――?!」
 ハルと獄寺が仰け反る。
 唖然とするその他の一同を無視して骸は顔をあげた。
 無意識のうちに、ぺろりと唇を舐め取っていた。綱吉は驚きに驚いたという顔で、口をぱくぱくさせていた。頬を抑えて、みるみる内に青褪めていく。
「な、なに、なに――っ?!」
「おや。凪のは喜んだのに、僕のは喜ばないんですか?」
 その様子に悪戯心を覚えて骸は反対の頬にも口付けた。
 綱吉が大げさに強張って固まってしまう。その首筋が赤くなったのを見て、骸は満足げに薄笑いをこぼした。
「沢田綱吉……、僕は君の味方じゃない。しかし、敵ではない」
 赤い目と青い目で綱吉を見下ろした。いまだに唇をぱくぱくとさせていている。
 誘っているようにも見えた。骸はくすりとして、――自らの考えに笑って、額に最後のキスをした。唇を押し付けたままで、短く告げる。
「また会いましょう。……絶対に」
 耳の裏をあぶくが撫でていく。
 そろそろ、限界だ。夢の中で動き回るだけならまだしも、夢の中で接触を図ることは精神力を摩耗する。綱吉は、赤い顔のままでうろたえていた。彼は素晴らしい勘の持ち主なのだと、今更に骸は思い出した。茶色い瞳は切羽詰まっていた。
「もう行くのか?」
 両腕に縋っていた綱吉の手に力が篭もる。
 先ほどまでとは違って、引き止めるように握りなおす。
 骸は笑った。少年の指先をほぐして両腕から外す。わかっていた。霧の一戦で消耗したばかりだ、沢田綱吉との接触を終えると同時に眠りに入る。中指の一本を摘んだまま、頭痛に耐えながら骸は告げた。
「できるなら。沢田綱吉。僕を忘れないで」
「…………?! 当たり前じゃないか。何言ってんですかアンタは」
 頭痛が加速的に酷くなる。それでも綱吉の声は聞こえる。骸は眉根を寄せたままで笑いかけた。全身を包んでいた霧が濃厚になる。異変を察知して、綱吉が反対側の腕も伸ばした。だが、既に骸には実体がない。
「何があってもですよ。常に覚えてるんだ。僕が傍にいない分だけ、他よりも多く」
 頭痛で頭が弾けそうだ。溢れて弾ける、と、そう感じた一瞬の間に痛みが霧散した。意識が入眠を始めたのだ。綱吉が頷いたような気がしたが、確認するよりも早く景色が一転して黒く塗り替えられた。
 足に絡んでいた蓮も感じなくなる。代わりに水の冷たさを感じた。
(……彼の勘がいいなら。いつか、ほんとうにああいったものが実現できると先を読んでいるのなら、あるいは……)思考がとりとめもない。
 静かで冷たい水に全身を泳がせたままで、少年は密やかな呼吸をした。
 すうぅぅ、と、機械の管が音をたてる。水中では反響してやたらと大きく聞こえた。
 眠かった。落ちていく感覚に身を預ける。人知れず眠りに落ちていく骸は水に取り囲まれていた。冷え冷えとした温度では生きた心地はしない。だが、不思議と体内に熱があるよう感じる。ごぷ、と、眠りのなかでも泡が弾けた。

 

おわり

 


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