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 たんっ。
 校門をすり抜けた少年に、風紀委員長が顔をあげた。
 待って、と、短い呼びかけに彼が振り返る。その顔をまじまじと見つめながら、雲雀恭弥は眉根を寄せた。慎重に、一文字ずつを発話する。
「……沢田綱吉?」
「はい? そうですけど」
 綱吉が茶色い瞳を丸くさせる。
 黒目は、静かに全身を確認して回った。
 手にしたボードに力を込める。小脇に抱えなおして、ヒバリは首を振った。
「いや。勘違いならいいんだ」言い終えるのとほとんど同時にチャイムがひびく。短い言葉で別れを告げて、数分後には綱吉は教室に入っていった。程なくして教師がやってきて、教科書を開くように指示をだした。
「…………」
 綱吉の席は教室の真ん中にある。
 頬杖をつきながら、それでも、窓の向こうを見上げていた。一面の青。まだらな雲は半分が透けていて、滲みだしたような灰色をしている。
「沢田? どこを見てる。問い3をやってみろ」
「あっ。え、えーと……72?」
「違う。わからんならよそ見してるんじゃないぞ」
 教師がむくれた声でうめく。綱吉は、照れながらも頭を掻いた。
 獄寺隼人が小声で教師に悪態をついている。十代目を指名するんじゃねーよ、とかなんとか。綱吉は一人の少女を目で追った。ショートカットの彼女は、目が合うと、励ますようにニコリと笑ってみせた。
 目を大きくしながらも、綱吉も軽く頷いて教科書に視線を戻した。
 放課後だった。夕日が延びる。掃除の手を止めて、綱吉は京子を呼び止めた。彼女が抱えていたゴミ箱を取り上げる。焼却炉に向かいながらの会話だった。
「数学の達山ってイヤなやつだよね。何も、これみよがしに当てなくても……」
「ツナ君、すごくボウッとしてたから目立っちゃったんだよ。わたしでもわかったもん」
 綱吉は静かに京子を見返した。ゴミを捨てた後に、教室に戻ると囃し立てる声があった。掃除を放棄して京子の手伝いに向かった綱吉を非難するものが大半。照れた顔で、慌てて綱吉は掃除に戻った。
 胸がすくような心地にはなっていた。綱吉は、下校間際に再び京子を呼び止めた。
「京子ちゃん。ねえ、デートいってみない?」
「え?」薄茶の瞳が丸まった。
 隣で、黒髪をウェーブさせた少女までもがギョッとして後退る。人気のない廊下にこだましたその声は、余韻をもって暗がりに吸い込まれていった。頬を赤くして、冷や汗を拭いながら綱吉は引き攣り笑いを浮かべた。
「へ、へんかな。オレらしくない?」
「う、ううん……。うれしい!」
 丸めた両目のままで、京子。
 綱吉は少女を見返した。はにかみながら、自らの頭を掻く。
「そう? 良かった……。本当に」勇気をだしてみて。自らの心臓を抑え、感慨を込めてささやいた。京子の友人たる花は信じられないように綱吉を見つめ、京子を見つめた。互いに照れ笑いをする二人に厭きれて、うな垂れるのは数秒後だった。
「……おめでと。カップルじゃん」
「へへ。ありがと」
 二人きりでの帰宅だった。
 一歩一歩を噛みしめるように。京子の歩調にあわせて歩くと、登校したときよりも二倍の時間がかかった。デートは、一緒に買い物をしようという話になった。
「つっ君、遅かったわね」
 家に帰ると、台所で奈々が呟いた。
 冷蔵庫のジュースを飲みながら、綱吉は瞳を上向かせた。
「ごめん。オレ、何か手伝ったほうがいい?」ポカンと母親は口を開けた。茶碗に洗剤をつけたまま、数秒ほど水をジャージャーとだしっぱなし。綱吉は、困ったように両目を細めた。
「? 変かな、オレ」
「そんなことないけど」
 戸惑いがちに、うめく声。奈々はすぐさま微笑んだ。
「うれしいわ、ありがとう。つっ君」
「……」曖昧に微笑み返して、綱吉は奈々と皿洗いを交代した。
 背後から視線を感じる。リビングで、イスにつきながらリボーンが頬杖をついていた。帽子の上を、カメレオンのレオンがそわそわとして動き回っている。お風呂のお湯をいれなくちゃと、奈々がリビングをでると、リボーンは亡霊のような呻き声をたてた。
「ボンゴレ十代目。マフィアになれよ」
「うん。当たり前じゃないか」
「…………」
 押し黙り、腕を組む。
 綱吉は微笑みもなくリボーンを見つめ返した。
 奈々が戻ると、今度は彼がいなくなる。綱吉は静かに洗いものを終えた。
 リボーンは綱吉の寝室には戻っていなかった。直に、彼は同じ部屋には住まなくなるだろうとの確信があった。制服の襟首に手をかけ、しかし、綱吉は鏡へと向き直った。全身が映るほどのサイズで、いささかホコリを被っているために姿が煙ってしまう。
 袖口で、きゅ、きゅ、と拭って、綱吉は我が身をまじまじと見つめた。
 貧弱な体だ。スポーツなどで鍛えることもなく、ろくに滋養のつく食べ物もとっていないもやしのような体躯。そ、と、肩口を撫でた。触れれば肉の厚みがある。それを確認するように、じわじわと力を込めて、最後には両腕で我が身を抱きしめていた。
 あっ、う。泣き声が脳裏で響く。八の字に眉を歪めながら、唇を食んだ。
『オレはこんなことでいいとは思わない。骸さん。このまま死なせられないよ』
 見上げる顔は涙に濡れていて、自らの頬に、ぽたぽたと雫が落ちてくるのを感じた。彼と遭遇したことも偶然だったし、巻き込んで、最期を看取らせることになるのも予想外だった。(奇妙だった)
 この小さな子供を庇って、そのせいで野望が潰えて一生を終えるなど。骸はくつくつと肩を揺らしていた。揺らせば、それだけ穴の空いた肺が痛むように感じたが構うことはない。喉をせりあがる血流で、気が遠くなる。
 少年は首を振った。――思い切ったように、傍らに落ちたままの槍を掴んだ。
『…………?!』意識がおぼろげなものに変わっていく。
『な』声が、喉の奥からあふれるものによってきちんとした形になれない。腕に傷を作り終えると、咳き込む骸の胸元に手を入れて、綱吉はひとつの拳銃を引っ張り出した。祈るような顔をしながら引鉄に指を置く。止めることも、呼びかけることもできずに、ただ銃口がこめかみにめり込むのを感じた。
『――っごめん!』
 側頭で弾けた衝撃に、意識が吹っ飛んだ。
 粉々になったまま。数分後、砕けたものが再び集う。
 彼はおそるおそると自らの顔を探った。馴れていない手触り、柔らかくて違和感のある肌質。目の前では一人の少年が息絶えていた。憑依弾の衝撃に瀕死の体が耐え切れず、あるいは、耐えたのかもしれなかったが僅かなあいだに力尽きて呼吸を止めていた。
『……なんてことを』
 呆然と、骸は他人の声でもって呟いていた。
(もう僕の体は死んでしまった。帰る場所がないのに。それをわかってて)
 抱きしめながら指をたてる。体に食い込んで、痛いくらいだった。彼はわかっていたはずだ、と、繰り返し呟いていた。帰るべき体を無くして、この意識は戻るべき場所をなくして、この状態での憑依を促すことが何を意味するのか。
(沢田綱吉はでてこない)骸の自我が強すぎるためだ。
 憑依してから、いくら呼びかけても返事がなかった。はるかな底に押し込められたまま、綱吉自身の意識は眠りつづけているようだった。
「…………」
 目を閉じる直前まで目蓋をおろしながら。
 それでも、鏡から視線を外すことができない。鏡の中には少年が立っていた。茶色い目をして、自分に笑いかけることもあって、困ったように笑って怯えたながらもはにかんだ少年が。
「これが、君の望みなら」
 低い声。骸のものではないが、しかし、自分のものだ。骸は目を閉じた。
「僕はあなたになりましょう」何かの罪を告白するような気分になる。
「あなたらしく、あなたとして生きよう」
(それが)胸に穴が空いたようだった。(僕にできることなら)
 鏡の中には彼がいる。足元が揺れているような錯覚がある。ゆっくり、視界を開けば、やはり鏡の中にいる。静かな声は、罪をすすぐように清らかな響きを持っていた。
「……君が、帰ってくるその日まで」
 茶色い瞳の中に黒いものがある。彼はそんな目をしないことを骸は知っていた。
(それは)(僕の消滅も意味するだろうが)
 胸中で名を呼んでも、返事はないが。
「やり遂げて見せましょう」
 それでも、諦めなければいつかは応えるかもしれない。鏡の中に彼がいる。鏡の表面は冷えていて、氷のような気配がした。
 鏡に口付けながら、綱吉は低い声で囁いた。
「君のために」

 

おわり


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