絶頂
無言の朝食だった。
ヒバリは黙々とマーガリンをトーストに塗りつける。
俯いてパンを齧るツナへと度々に見るが、眼差しが返ってくることがない。ツナはヒバリの私服を借りていた。といってもインドア的な生活を送る為の場所である。大したものは揃っていない。ツナには白いシャツを渡して、ヒバリは黒のカッターシャツを着た。
少年は、冷蔵庫のプレーンヨーグルトを思い出す。ツナはカキ氷に喜んでいた。
(マーマレードならジャムがあったな)
ガタンと席を立つ。金属音が響いた。慌ててナイフが拾われた。
指先がわずかに震えている。ツナはヒバリに目を合わせない。
「ごっ。ごめんなさい」
「……君、ヨーグルト食べたい?」
逡巡した末にでたのは、そんな一言だった。
ツナは首をふる。「そう」とだけ、ヒバリは囁いた。食事が終わり、食器を片付ける。その間もツナは思いつめた眼差しでテーブルを見つめるだけだ。ヒバリは、台所のリビングの境に立ったまま腕を組んだ。
「君、ずっとそこにいる気」
「聞いてみて、いいですか……」
恐る恐るとした声に、ヒバリが瞑目する。
あまり気は進まない。しかし、ここで断れば何のために軽井沢にいるのかわからなくなりそうだ。
「ヒバリさんのお母さんって、今、どうしてるんですか」
(やっぱりそっちの話題か)
「死んだよ。僕が五歳の時に」
「どうしてですか」
「組員の銃弾に撃たれて」
僅かに口角が上がった。
ツナの瞳に怯えが混じる。暴行への不安は、昨夜に呼び起こされた恐怖で再び顔をだしていた。
「う……。撃たれたって、ファミリーに?」
「そう。裏切りとは少し違うけど」
「そんな。だって、一代目の奥さんに」
「うまく切り抜ける手法があるんだよ。イタリアンマフィアがどういう構造になってるのかは、残念ながら僕は詳しくないからわからないけど。ヤクザなら若い連中を使うことが多い。トカゲの尻尾のように扱う。殺しを命令して、かわりにやらせて、かわりに刑務所に行ってもらう」
ツナは目を見張った。
「それって酷くないですか!」
「そうだね。でも、そうやって若い頃に大暴れしてムショ入りして、老けたところで出所して幹部に就く。これが寸法なのさ。イタリアンマフィアだって似たものだろうよ。君が知らないだけで」
「そんな」ツナの脳裏に、リボーンとディーノが浮かんだ。
リボーンには……やってそうだが、ディーノがそうしたことをするとは信じたくなかった。ヒバリはツナの動揺を見透かすように低く笑った。話はヒバリの過去へと立ち戻っていた。
「いつの時代も、正当な後継ぎとやらにカコつけて立身を目論む馬鹿がでる。一代目の子供なんて絶好のカモ。口実にして内部抗争さ。馬鹿なもんだよ。二代目を支持する連中は秘密裏に……ある意味では公然だけど、僕を始末しようとした。実行犯はバレたら死罪ものだ。でも価値はある。そう、指示したのが二代目だったりしたら、名乗りあげる輩は多いだろうね」
意味するものがツナにもわかった。その生活環境を想像して身震いがした。
「わかるだろ。母親は僕を庇って死んだんだよ。で、残されたのは祖父と孫みたいな父親と息子だけ。祖父は厳しい人だった。粗雑でもあった。手におえないくらい凶暴で生まれついての極道男だ」
「母親にはやさしかったけどね。でも彼女が死んでからは徹底して僕を教育した」
「喧嘩の仕方から武器の使い方、はては殺人の技法。すべて身を守るための技術さ。祖父はよく言った。俺を恨んでもいいって。でも俺はお前を一人でヤクザに立ち向かえるくらいに育ててやるって。祖父は十二歳の時に他界した」
射抜くような視線に暗い嘲り。ツナが感じた強烈な感情は、まぎれもない恐怖だった。
「息子から後継ぎの権利を永久に剥奪するっていう遺言が弁護士に預けられていた」
ツナは沈黙する。ヒバリは笑い出したい衝動に駆られた。喋るつもりのないことまで、聞かれるがままに答えてしまっている。「祖父は家屋と財産も残したから……」
日が高く昇ろうとしていた。しかしどこか現実感がない。
ヒバリの言うことは、氷塊から解けでる冷水のように悪寒と共にツナのなかに滑り込んでいく。
「それでまっとうに生きて欲しかったのかもね。今更まっとうに生きられると本気で思っていたのかは定かじゃないけど。馬鹿なものだよ。葬儀の後で組に来いって言われて、祖父がいかに無駄なことをしたのか思い知った。祖父の技術を直伝で教わったってことは、一代で組を築き上げた男の技術を丸ごと受け止めたってこと。その場で馬鹿は殴り倒したけど、まだ二代目は僕を諦めてない。シツこくオファーがくる。反吐がでそうだよ」
『ヒバリは将来必ず役にたつ男だぞ』と、ツナの脳裏にリボーンの言葉が蘇る。
リボーン。どうしたのだろう、と、咄嗟に浮かび上がった思考が顔に出たようだ。ヒバリはクツと笑った。
「人がせっかく話してるのに頭の中で余所見か。酷いね」
「そ、そういうつもりじゃないです」
やや戸惑ってから、ツナは質問を続けた。
「あの……。聞いちゃいけないのかも、しれないですけど。なんで、お父さんのことを『祖父』って呼ぶんですか……」
「父親と思っていないからだよ」
そうですか、と蚊の鳴く声をだす。
その後は互いに淡々としていた。連れたって散歩にでかけたが、会話が弾むこともなく静かに歩く。既に日が傾きかけていた。早々に道を戻り、ヒバリは夕食を作った。本当に独りで暮らしてるんだ、と、ツナがつくづく思うほどに手早く仕上げる。
彼が綱吉の名に意味をこめて呼んだのは、ツナがベッドを見下ろしているときだった。
――リビングにソファーがある。昨日の今日なので、さらにその問題は別にしても、やはり一緒にベッドはやめたほうがいいのではと、真剣に考えていたのだが。
「え? なんですか」
「昼間のこと」
ベッドに腰を降ろしたまま、ヒバリは窓を見つめる。
散歩中には北風が混じっているのを感じた。窓を揺らすこの風も、体を掠めれば身震いするほどに違いない。
それはヒバリにとって重大な問いかけだった。
しかしだからこそ気安く声にはできない。ヒバリは絞りだすような声をだした。聞きなれない音調にツナは困惑する。平素の彼からは想像がつかないからだ。
「綱吉は、さ」
腿に肘をたて、頬杖をついた。
「僕を理解しようとしてるの」
考えた末の結論だった。ツナが興味本位に聞いているようには見えなかった。怖がりながら、それでもなんとか聞き出そうと明確な意思を持っているように感じられた。だからこそ、ヒバリは誰にも話さずにいたことを喋ってしまったのだ。甘美な何かに誘われるようにして。
「……そうしたいですけど」
ヒバリがかすかに震えた。
「昨日、怖かったんじゃないの」
「そりゃ怖かったですけど。でもヒバリさんは……、その、俺を好きなら、そんな、乱暴なことはしないかな、とも」
「好きなら乱暴しないと思うの?」
ヒバリが高めの声をだす。
「で、でも昨日はホントに怖かったです」
ツナは、かぁっと体中が熱くなるのを感じた。ヒバリの眼差しは『そうした』眼差しだ。恋人に向けるような。真っ赤に染まる顔を自覚して、ツナはますます舌を絡まらせる。
「今日は、っき、聞いたことにも答えてくれて、優しかったと……、思います。お、俺は、お、男だしッ、ヒバリさんが好きかどうかわからないけど」 うまく喋れずに何度も吃音を発した。
「綱吉」
「でもヒバリさんが好いてくれるなら、ヒバリさんのことを知りたいって」
「綱吉。もういい」
そっと腕が伸びた。
腰に絡まり引き寄せる。
柔らかな動作で背中に腕が回り、抱かれた。
「その気持ちだけでいい」
平たい胸に顔を埋め、ヒバリは目を細めた。腕に力がこもる。苦しくない程度だ。
「ヒバリさん。俺、逃げませんから」
ツナは他愛のない様子で宣言をする。
微笑む気配にヒバリは動けなくなっていた。
何の意味もない。ただ、固まって動けなかった。我に返るにはずいぶんとした時間が必要で、頭髪を梳く細い指が誰のものだかわからなかった。全ての苦しみをかき消すように腕の縛めだけを強くする。ツナの耳に、切羽詰まったような戦慄きが聞こえた。
「好きなら乱暴しないっていうのは間違いだよ、綱吉」
「え?」
「僕は君のこと殴りたい」
ヒバリが体を起こせば、ツナはベッドに倒れた。
昨日の構図によく似ている。しかし、ヒバリの眼差しは首ではなくツナの両眼へと真っ直ぐに注がれていた。
「綱吉のこと殴りたい。でも撫でたいしキスもしたい」困惑と怯えが混ざり合うツナの眼差し。ヒバリは、落ち着かせるように前髪のつけ根に指を差し入れた。「どうせだから綱吉も僕を殴ってよ。それで、撫でてキスして」
「ヒバリさん」
「綱吉、よく聞いて。君のことすごく気に入ってるんだ。殺したいほどに」
ツナは途方にくれたように目を見開く。ヒバリの目の奥で、妖しげな光が揺れていた。
「綱吉は? 綱吉は僕を殺したい?」
睦言の如くうっとりと。
「いいよ殺して。やれるものならやってみせて。だから僕にも噛ませて。殺してあげる」
「ヒバリさん……」
つけ根にもぐり込んだ指がフワリと髪を梳く。
悲しくなるほどに手つきが優しい。その手つきの傍らでそんな言葉を吐くのか、と、ツナは目眩の最中に考えた。恐る恐るとヒバリの後ろ頭に手を伸ばす。ヒバリは大人しくしていた。目尻が笑っている。首に手が掛かるのを待っているようにも見えた。そうしたらすぐさま絞め返してくるような獰猛さを孕んだ沈黙だった。
「それ……」
声には多分な躊躇いが含まれていた。抱き込んだヒバリの頭に力が込められる。
「愛したいって、ことですよね。ならそう言いましょうよ」
「…………」
驚いた眼差しがツナに注がれる。
「大丈夫だから。俺になら普通に言ってもらって構いませんから」
黒髪は柔らかい。猫っ毛だ。空には月が昇っている。
ヒバリは月によって照らしだされた自らとツナとの影を見つめた。膝立ちになったまま抱きしめてくるツナの細い肢体。黒く淀んだ自らの影。徐々に興奮が抜けていくのはツナにも感じ取れた。やがてヒバリはぐったりとツナに体重を預けるようになった。か細い声が肯定を呟く。何かが落ちたかのように、生気のない声だった。
「……うん。そうだね」
「おかしいね。わかってるはずなのに」
全体重をかけられ、耐え切れずにツナが下敷きになった。ヒバリに呼びかけても起き上がる気配がない。転がって抜けでたツナを見届けると、ヒバリは目を閉じた。
そのヒバリを揺さぶってツナが声をかける。
「起きてますか? 俺、ヒバリさんと一緒にいますから」
「……おやすみ」
うっすらと、ヒバリが囁いた。
終
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