欲情

 

 


 カスミソウという花を買った。
 この控えめな花なら、あの人でも機嫌を損ねずに受け取ってくれるのではないかと考えたのだ。ツナは、二週間前まで入院していた病院までやってきていた。
 雲雀、と、プラカードの下げられた病室の前で立ち尽くしている。
(ここで逃げたらダメツナだ)
 何度もくり返した言葉を、さらに繰り返す。
 覚悟を決めてノブを回した。
「……――――」
 小さな病室だ。
 彼の人は、幾重にも重ねた枕に背中を預け、ベッドで目を閉じていた。黒で全身を包んでいるも、カーテンもシーツも白塗りで清清とした清潔感が漂っている。けれども、ツナのそうした印象は眠る人が美しかったからかもしれなかった。
(多分、眠ってないんだ)
 読みは当たっていた。
 ツナが近寄ると、ヒバリはパチリと目をあけた。
 眼球だけが動いてツナを捉える。
 左の目蓋にはテーブが貼られ、右頬には腫れぼったい青痣が刻み付けられていた。パジャマに隠れて見えないが、その下はもっと酷いことになっているのだろう。
「何の用」
「決まってるじゃないですか」
「僕を笑いにきたの」
 拗ねたようなニュアンスだった。
 ツナの目尻がわずかに緊張をほぐす。まっとうな人間らしい感情に初めて出会えた気がした。
「見舞いに来ました」
 ヒバリが顔をあげる。
「もう一週間になるじゃないですか。ヒバリさん、なかなか、学校に来ないから……」
 病院はリボーンが教えてくれた、と続ける。
 リボーンの名にヒバリが僅かながら眉をしかめた。ツナは己の迂闊さを呪った。ヒバリにとってはリボーンへの敗北も、彼に救急車を呼びつけられたことも相当な屈辱なのだろう。事実、救急車に関しては、ツナもリボーンなりの当て付けであると考えている。
 黙りこくった少年に不安を掻き立てられる。紛らわすように、ツナは花瓶を探した。
 しかし見当たらない。病室には何も置いていなかった。
「花、どこに置いておけば」
「綱吉。こっちを向いて」
 声につられて、ふり向く。途端にバチッと音がした。
 ヒバリは枕から上体を起こしていた。愕然と頬を抑えた。その手を滑った花は、床に落ちて散らばる。ヒバリの目線は白く可憐なつぼみへと落とされた。
「次は拳で殴るよ」
「それは」ツナは動揺を隠せなかった。声が震えている。
「出て行けってことですか」
 目を反らしたままでヒバリが言う。
「どうして綱吉が来たの?」
「ご、獄寺君たちには内緒です。心配するから」
「そうじゃなくて。君、馬鹿なの?」
 この美しく凶悪な少年が、何を考えているのか。ツナには判断がつかなかい。ただ、声がか細い為に、聞き取るためには近くに寄らなければならなかった。
「僕にどんな目にあわされたか、忘れたわけじゃないだろう」
「そりゃそうだけど。前のは痛かったし、母さんにはすごく心配をかけたし。でも、今回はリボーンがやらかしたことだし……」
 ツナは頬に視線を感じた。絆創膏のある個所だ。
 二週間前の唯一の名残である。ヒバリの腕が伸びてビクリとしたが、その動きは緩慢で傷つける目的でないのが悟れる。ツナは思い切ることにした。両目を力の限りに閉ざす。
 指先は優しく傷口を撫でた。そっと何度も往復する。
 窺うような気配にビクリと身構えたが、衝撃が訪れることはなかった。
 不思議そうな声がした。「痛くないの」
「痛いですよ」
 ギリ、と、爪が立てられた。
「痛いでしょ」
「痛いって言ってるじゃないですか」
 耐えられるくらいの痛みであるというだけだ。ヒバリは淡々と言葉を続ける。
「なら、なんで逃げないの」
「ヒバリさん……」
 少年は神妙にツナを覗き込んでいた。
 驚きとも怒りとも喜びともつかない輝きが瞳の奥底にある。またもや何を考えているのかわからなかった。ヒバリという存在は、ツナにとって全ての判断がつけがたかった。
(でも、これじゃまるでおっかなびっくりに触ってるみたいだ)
 言葉につまった。様子を見に来たと言ったヒバリが脳裏を掠める。
 獄寺がすぐさまダイナマイトを取り出したので、ああいう結果になったと言えなくもない。その疑念が、この一週間の間、ツナの中で喉に刺さった小骨のように奇妙な違和感をもたらしていたのだ。
「ヒバリさん。この前は、俺を心配したんですか……?」
「さぁ……。僕は綱吉を痛めつけた張本人だよ」
 言い淀むのはヒバリらしくなかった。ツナは気が付かずに言葉を続ける。互いに必死だった。
 何かを隠すようで、それでいて何かを手探りするように。
 静かな会話なのに、叫んでいる気がした。
「俺、なんだか放っておけなくて見舞いにきたんです。理由はこれでいいですか」
 見透かそうと試みるように、ヒバリはツナを見つめる。その眼差しの強さは、睨みつけると形容してもいいほどだ。ツナは全身を硬直させた。今にも爆発しそうな空気が、肌をチリリと焦がす。今までの経験から言うと、トンファーが跳んできてもおかしくなかった。腕時計の秒針がチクタクと騒ぐ。やたらと病室にこだました。
 やがて、力を抜かすような吐息がヒバリの口をついた。ツナもホッと力を抜かした。
「……頬っぺた、痛いかい」
 ヒバリは前髪を掻き揚げた。
 その口からでたのは、ツナに耳を疑わせる一言だった。
「ぶってすまなかったね」

 

 

 

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