禁欲


 

 

 ヒバリは、ぼんやりした意識のなかで人の指を舐めた。
 黒濡れの自分が、白くほっそりした指先に、真っ赤な舌を落としている。ひどく倒錯的な光景だ。背景が黒一色に塗りつぶされていることも一因か。
「…………ッッ」
 誰かが息を呑む。指を舐められた誰か。
 誰だっけ、と、脳裏で疑問符を浮かべた。
  白い指先だけだったものが、どんどんと、手首や肘を生やして行く。胸が現われたのを見て、奇妙な関心を覚えた。僕は男の指を舐めているらしい。女ならまだわかるんだけど、と、頭を掻いた。
 自分がニヤリと笑っている。そうとう、楽しいらしい。
  再現された後姿は、男にしては華奢でナヨナヨしい。トンファーで小突いたらあっという間に折れてしまいそう。弱者には興味がない。
 しかし、夢の中の自分は楽しげである。どんな男か、目に留めておくのも悪くない。
 自分の後ろに回りこんで、小さな少年を見る。
 ツンと突き立った髪に細い顎。瞳は大きい。驚きに目を見開いていても、それがわかる。
 気弱で脆弱な人間だというのは見て取れた。草食動物、と、普段そう呼んで蔑むたぐいの人種であることは明らかだ。
  一瞬、拍子抜けしてため息をつきそうになった。
 面白くもなんともない。
 淡い絶望感が胸を侵食する。それは、ほんの一ミリを食い荒らしただけで止まった。少年の瞳が、ぐるりとした混沌を映し出していた。
「な、何ッ」
 驚きと焦りと羞恥と怒りと、怯え。
 最後のものの比率が一番大きい。少年は驚きつつも恐怖していた。
  八の字になった眉が、さらにゆがむ。その仕草がとても官能的だ、と、静かに考えた。混沌とした瞳に、突如として怒りが湧き上がる。一面が赤く染まった。
 少年は、自分の腕を振り払った。
 途端に恐怖が覆い被さる。後悔するならやらなきゃイイのに。
 だが後戻りできないと思ったのか、少年は、顔を赤くしながら、制服で指を拭うような仕草をしてみせた。(ああ、僕の唾液をあちこちになすり付ける)
 面積を広げていいのかな、と、言ってみたかった。
 これは夢で、声が届かないのが残念だった。
「何、考えてんですか!」
「別に? そうすれば、喋るかなと思って」
 夢の自分も同じことを考えていると悟った。
 声が、すこし、高い。
「ワケわかんないじゃないかっ!」
 またもや咄嗟に怒りが爆発した。赤く染まった瞳が心地よい気がした。
 そのすぐあとで、後悔に染まる青い瞳も。
少年はたじろいだあとで、ドアノブを捻って飛び出していった。自分は足音が消えるまで耳を澄ます。奇妙な少年だ。草食動物というヒバリの例えは的をえているのだが。
 それだけに終わらないものがある。潜在的なものだろうか。
(時折り、牙が生えてくるみたいだ少し力を加えれば折れてしまいそうな)
 ちょうど、折り甲斐のある強度だ。
「ああ……」
 ヒバリは、目を閉じたままで唸り声をあげた。
 ソファーのスプリングだけで深い眠りに落ちるのは不可能だ。
 午後のうららかな日差しがあったとしても。
 彼は思い出していた。
 すてきな赤ん坊と出会った。その時に、真っ赤に燃えた瞳を見た。
 油断していたとはいえ殴られたのだった。スリッパで。
 大した屈辱だった。なぜ、忘れていたのだろう。赤ん坊のことで浮かれすぎたのか。
「沢田綱吉、ね」
(僕は彼の指を舐めたんだった。つい、衝動的に)
 上半身を起こした風紀委員長は、応接室を見渡した。見慣れているはずだが、違うものを見ているような錯覚を感じる。いつものことだった。しかし今日は、とくに、扉に違和感を感じる。
 開けたところに例の少年がいる気がした。そんなことはないとわかっている。
 立ち上がって襟足を正し、身支度を整える。学ランを羽織ると、ヒバリは応接室をあとにした。行く宛てはあるようでないようなもの。僕は我慢をするのが好きじゃない、と、意味があるようだけれど理解できない囁きが、胸にあった。






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