エデン




「わかった。ならばオレがお前をもらおう」
 彼は、そう言うなりグローブを嵌めた右手を突きだした。背の高い男は目前に迫った拳に困惑する。
「何を言っているのですか。狂ったか」
「とうに狂っている男にそのような評価をされるとは、光栄だ。だがいい迷惑だとも言えるな。オレと戦え。お前、名前は何というのだ」
「……デイモンです」
「そうか」
 明かな偽名に、しかし少年は疑問を挟まずに頷きスゥと深呼吸を吸った。そうして片足を押し下げる。
 ――次には、その右手に炎が走った。
「! 異能者か」
「お前もだろう? 戦うがいい。どうせ死に損ないだろう!」
「フッ…」小馬鹿な吐息は一瞬で、デイモンは片腕を広げてみせる。後ろに飛び退いて、両腕を交差させたときには大鎌を握り締めていた。勝負はさほど長くは続かなかった。
 ボンゴレプリーモと既に呼ばれていた少年は、崖を背にして仁王立ちになる。
「この勝負はオレの勝ちだな」
 言って、微かに出来上がった赤い頬の線を親指でなぞった。
 悪戯っぽく微笑して血を舐めた。
「死ねなくて残念だったな、デイモン!」
 崖から吹き上がった風がプリーモの身に付けるゴシックマントをぶわりとはためかせる。その佇まいに、遠目から見守っていた赤毛の男が茶々を入れた。マントを切られるなと言ったよな、と、
「ぬふーん」
 彼らの会話は無視して、デイモンは焦げた前髪を掻き上げる。
「悔しくなどありませんが――、どういったおつもりで? 私の計画は完璧だった。それを打ち破ったあなた方が私の死を止める。どうするおつもりですか?」
「責任を取ろう」
「意味を測りかねます、ヌフ」
 膝が笑って立てなかったが、だがデイモンは土に手をつけない。中腰を保ったままで意地で勝者に向かい合う。
 逃げるべきか、命乞いをするべきかを推しはかっていた。死ぬつもりはあったが拷問されるつもりは無い。
「パレルモで評判のボンゴレファミリーもやはり下品なものだ! 敗者から……、まったく根こそぎ奪おうという! どこが正義の自警団でしょう」
「一村をまるごと売り払おうとした輩に言われたくはないが、だが責任は取ろう。デイモン、いいか。死ぬな。今日からお前はオレのものだ。お前の死は、オレが預かる」
 少年は、そう告げながら、デイモンの横をさらりと通りすぎていった。
 蒼い瞳が真ん丸に広がった。呆けながら、振り返ろうとして膝を土に着けていた。マントを揺すって向こうは立ち去った。

 それから何年も経ってから、少年は夜遅くにこっそりとシチリアを出ることになった。見送りにはデイモンが立った。
 船には、デイモン以外のすべての仲間が乗りこんでいた。
「お前はこないのか」
 プリーモが言った。その顔色は、追い出された敗者のものでも、かつてのデイモンがそうだったように痩せ我慢をしているブザマな負け犬でもなかった。
 正々堂々と、それでいて涼やかに少年はそこにいて総てを見透かすオレンジの眼を持って立っていた。
「お前だけは……。そうか。お前だけは、やはり最後までそうなるか。構わないが。健やかに過ごせ」
「ジョット」
 初めて、彼の真名を呼んだ。
 踵を返そうとした彼も立ち止まる。
 夜の港は真っ暗で、打ち寄せては遠のく波の音色がまるで夜想曲のような重みがあった。デイモンは耳を澄ませていた。誰かの話し声がする。船で、かつてボンゴレファミリーを名乗っていたものたちが最愛の友人を待っているのだ。
 夜の中に沈んだ船を思う。このまま、沈没でもしてくれてもと思う。しかしこの少年を見送りにきたこの足を恨めしくは思わなかった。
「なんだ。デイモン。……結局、おまえは真の名を明かさなかったな」
「私は貴方とは違う。用心深いのだ」
「そうか?」
 わりかし本気で疑問そうに言って、だがジョットは懐かしそうに笑った。
 ほんの少しの労りを眼に篭めて、デイモンに笑いかける。
「……気をつけろよ。お前は少し考えなしに野望を持つところがある。そういうところが好きだった。だが、気をつけろ」
「貴方に注意される謂われはない。血に選ばれた貴方にはわからぬ世界だ」
「オレに言いたいことがあるんじゃないのか?」
 ぼうっ、煙突から蒸気の噴く音がする。だがジョットに急ぐそぶりはない。
 憎い男だ、心からそう思ってデイモンは両目を閉ざした。告げる言葉は考えながらこの港にこの時間にやってきた。そのはずだ。だけれど躊躇いはあった。
「……あなたにお別れも労りもいいません。ボンゴレは、私のものだ。もう貴方は必要がないのです」
「ああ。知ってる」
 ファミリーのボス選びで負けたジョットは、新しくボスに就任した男によって追放が決まっている。
 恐らくは、彼は殺されるだろう、シチリア島に住むものなら誰でも考える。今度のボスはそういう男だ。だが、シチリア島に住むものなら誰しもがジョットを逃がそうと画策するのだった。
 デイモンは、どちらの事情も読めたが何もせずに放っていた。この問題で腰をあげたのは今日が初めてだ。
「それで?」
 相変わらずの静かなオレンジの目玉が、デイモンを見上げている。
 もうトレードマークのマントはない。シンプルに、シャツにサスペンダー付きのズボンを履いて、頭に帽子を被っている。少年男娼のようだとデイモンは微かに思ったが、だがその欲望は長らく気付かないフリをしてきたものだ。何でもないように、頷く。
「これで、終わりです」
「いいのか?」
 ジョットが両目を瞠らせる。驚きながら告げる言葉は、彼らしくなかったが、だが彼らしい最後の気遣いがあった。
「わかっているんだぞ。返して貰いにきたんだろう。お前の大事なものを、オレが持っているんだろう。覚えているよ。初めて会ったあの日のことを。オレは、お前がオレのせいで死ぬのを見るのは忍びなかった。実はあれはオレのわがままだったんだ。無理やり今日まで働かせて済まなかったな。わかっていたんだよ、お前がオレについてこないのも、オレに投票しなかったのも」
「…………。それは恨み節か?」
「さぁ。最後だ、許せ」
 くすりと笑って視線を足元に流した。夜の海がざざんと音を運ぶ。海の果てには何も見えなくて暗闇だけが乗っかっている。
 そこに乗って、消えていくジョットを思い、彼から差し出された右手を見つめた。
「今、返そう。……お前の――」
「いえ」
 デイモンは、澄ました顔をしながらも唇を尖らせた。いりません。短くうめく。
「オレがもっててもしょうがあるまい?」
「取られたものは、奪いたい。私が貴方に勝ったときに返していただきましょう」
「お前がオレに?」
 なんの冗談だ、と、屈託もなく笑い始める少年にデイモンはますます眉間を歪める。だが何も言えなかった。
「そうか。……いつか、ここに遊びにくるよ。そのときは再戦でも申し入れよう。お前の死はまだオレが預かろう」
「…………。ええ。上等ですよ」
 見つめ合いながら、――用件は終わったのでデイモンが足を引いた。踵を返して後ろ手だけを振る。
「さらばです」
「或いはお前から取り戻しにこいよ」
 ジョットは笑っているんだろうなと、真っ暗な空を見上げながらそう思う。しばらくして振り返れば、あとには、黒い海と闇だけがわだかまっていた。

 ズルをした。ボンゴレプリーモが特筆すべき異能の持ち主だとは感じていた。しかし信じてはいなかった。プリーモだって人間のはず。
 だから、あの言葉のやり取りは願掛けに等しくて、はなれたくないと、弱さの表れに過ぎなかったのだとデイモンは現実を直視することでようやく気付く。
「お、おおお……」焼け崩れる肉体を前にして、驚愕で両目を見開いた。光る手が顔の前にあった。肉体は死んでも、魂は残っていた。
 なぜ、その疑問はもう何十年も前の言葉が教えてくれた。老人の体は焼けて、全盛期の肉体だけが透けて館に残った。
 彼は、もう、死んでいる。報せは二十年ほど前に受けた。その晩は少し多めに酒を飲んで久しぶりに酔っぱらった。
「…………」
 幽体を見下ろし、焼き討ちにあっている最中のボンゴレファミリーの館を見上げる。火の粉が舞っている。
「……そこにいたのか」
 火の粉のひとつひとつに、意思を感じた。妄想だろうがもう構わなかった。確かに彼は類い稀なる異能で、本当に、
「あなたが真に持っていったのか!」
 ――お前の死は、オレが預かる。
 生きる喜びなど感じたことのなかった体が、体を失ってから熱くなるのを感じた。これは紛れもなく愛だと思った。ジョットは私を愛していたのだと。
「ぬあ……っ、ジョット。ジョット。ボンゴレファミリーは永遠だ。わたしが、壊させない……。私のファミリーだ!!」
 焼け落ちていく館の中心で、焼ける亡骸を前にしながらデイモンは両腕を広げる。それから数日でボンゴレファミリーには新たなボスが用意された。その男は、傀儡のような生気のない眼をして、不気味だったという。男は自慢げに配下の者に言ったという。
「私は、神に愛されているから死なないのですよ」






11.7.13

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