mosaicモザイク
いちまいめ
カツン、それまでとは異なった音がしたので靴の先を見やれば、モザイクタイルの破片が落ちていた。
白く、透き通る清水のような指が拾った。
「天使が堕ちたな」
彼はごく自然にそう言いのける。
「堕ちたときから彼は天使ではなく堕天使ですよ」
こちらも自然にそう言う。
彼は、悪戯っぽくクスクスと喉を鳴らしていて楽しそうにタイルを目のうえにかざした。
「では、堕天使殿も寂しかろう。俺が白い鳩になってやる」
炎によく似た虹彩を秘めるまなこが天井を探す。
教会はアラブ式の球体の天井をいくつも連ねてそこに天使を飼っている。褪せた肌の色をしたモザイクタイルを握りしめると、青年は軽い足取りで何もない場所に一歩を踏み出した。
まったくもって違和感もなく彼は宙に浮いた。
身につけている夜のマントがなびき、その異質な存在を教会から浮き上がらせる。微かな熱が傍らに残る。
「押しつければ戻るか?」
天井に前髪が触れるほど近寄ったあとで彼が尋ねる。恐らく。返事はあいまいに。確証はない。
天使の欠けた頬に、タイルのかけらがソッと押し当てられるのを見た。
彼がそうするだけで壁画の頬はやわらかな赤子の桃尻に等しく、弾むような、絹のやわらかさを持ってして目に映る。
笑っている、あの男は。火の粉が走るのを見た。
ボンゴレ一世は音もなく自在に異能を操ってみせて、炎を打ち消して私の前に降り立った。
「天使は空に戻ったぞ」
「……さすがです。ボンゴレプリーモ」
「たまには神に忠実でなければな」
大股で埃だらけの床を歩いていって、そうして乾いた大地にまで出る。
ふり返れば廃墟となりかける教会が、枯れた野にむなしく建っているだけ、侘びしい眺めがあった。
もう一度ふり向けば、プリーモはマントを揺らして荒野に戻ろうとしていた。
「プリーモ。考え直しませんか? どうしてこの世に生まれながら貴方には野心がないのですか。ボンゴレはもっと大きくなれる。このシチリアの枯れた大地は貴方にもボンゴレにも似つかわしくない」
「俺に戦争でもしろというのか」
後ろ姿だけで、彼は悲しがるような声を出す。
まったくもって仕方のない男だと思った。
「イタリアの実りは、それほど貴方にとって魅力がないのですか」
「シチリアの実りは嫌いか?」
「どこに実りがありますか」
よく慣れた黒馬がプリーモの帰りを待っている。その馬の綱に手をかけたが、しかしその手を置いて、彼は私をふり返る。
にっこり、両目のもとを弛ませた。
「こことここに」
自らの胸に人指し指を宛がい、それから、その指を使ってこちらの目と目の間を指差した。
廃れた教会などよりもよほど天使らしい微笑みが男の顔にある。
「俺は戦争はしたくない」
「よほど残酷なセリフです。私にとって。プリーモ。仲間を失うことなど恐れなくていい。代わりなどいくらでもいます」
「いや、いないよ」
手綱を引き寄せ、プリーモは顔をあげた。空模様が気がかりらしかった。
「帰るぞ。デイモン」
にまいめ
誰かが叫んでいる。戦火のなかで。聞いたことのない声だと思った。
少しして、視界が晴れる。
それはプリーモの悲鳴だった。
「G!!」
喉をひっくり返した金切り声は、およそ彼らしくなかった。けれど彼がいつも胸に秘めていた情熱は同じだった。
Gを抱き起こし、矢つぶてから庇おうとするランポウの前に――、炎を駆る男が降り立った。
もはや大地との激突といっていい速さだった。
「――怪我は」
「し、心臓は、外れてるよ……?!」
Gの胸から矢を抜き、毒の有無を慎重に確認する少年を、しかしプリーモは一度も目をやらなかった。前を睨んでいる。
「きさまら。よくも」
足を拡げ、両手を土について、戦闘姿勢に入ったハイエナもさながらに身を縮めて彼は炎を――
土が赤く溶けていった。烈火の裂け目が走り抜けて噴火直前の火山ができあがる。
悲鳴が、突風を生んだ。
「……っ!」
崖のうえから、私達は呆然と鬼神と化した彼の働きを見守った。程なくして火柱があがり、災害を前に逃げ惑う声を聞いた。
戦争相手は誰もこの場に立たず、この世にも立たなくなった。
たった一人で百人近くを殺してのけたボンゴレプリーモは、マントを風に吹かしながら、かなりの時間を無為に過ごした。
「あ、あんなプリーモ、初めて見た……」
ランポウが恐ろしげにうめく。
ボンゴレファミリーの男達も恐れをなしている。しかしGは悼ましげに眉を八に寄せるだけで何も言わない。
「先に帰ろう」
アラウディがそう言って、結局、プリーモは一人で残していくことになった。
私と、私の部下は、死体の処理のためにその場に残った。
彼の足元に倒れている亡骸が、ボスだった物だ。近寄ってみて感心した。腹の真ん中に穴が開いている。炎で焼き切ったが故の焦げた痕跡が、仕立てのいいスーツに残る。
「私にはわかっていましたよ」
感動のあまりに声が出た。
まだ心が幼い彼には、まだ、まだ早いとはわかっていても。彼にはこれが素晴らしい行いだと理解して貰わねばならなかった。
「貴方には才能がある。プリーモ。人のうえに立つための才能がある」
「デイモン」
こちらがギクリとするほど、冷えた呻き声でプリーモがふり返る。
額は白く、唇は青褪めていて、いつもの彼とは様子が違った。彼は自らの右手の中指に嵌めているリングを見せてくる。
「ボンゴレリングの声が、お前に聞こえるか?」
「……あなたには聞こえるのですか?」
そんな話は聞いたことがなく、それもまた彼の特異性を引き立てる素晴らしい話だと――
この思いをどう伝えるべきか、感激から思わず思考を止める一秒の間に、プリーモは右手を振りかぶった。
大地の裂け目に、ボンゴレリングが消えていった。
「な、――何をするのですか!!」
「俺が愛しいか」
「?!!」
絶句する。
プリーモは機嫌が悪かった。拒否を赦さずに激しい口調でもう一度聞いてくる。
ぞくぞくと沸きあがるものを覚えて、頷いた。
「愛してますよ。プリーモ。我が主です!」
「ボンゴレファミリーの者は果たして皆がそうだと思うか」
「もちろん。そうでないものは、私が殺してきてあげて構いませんよ」
どうしたのだろうとは思ったが、高鳴る期待感で眩暈すら覚える。殺してきて……、それでプリーモに満足のまなこで見つめられでもしたら私は頭がおかしくなってしまいそうだ。
「私は、あなたのしもべですから」
「デイモン」
その呼びかけは、言いにくそうな、厭々といった響きが篭もる。
プリーモが、横をすり抜けていった。
「あの指輪が俺にもそう言うよ。俺はあれのしもべだ。どんな能力があろうと、俺は、あれが望むような使い方はしたくなかった」
「…………っ?!」
糸で締められる、キリキリしたものが胸を傷める。
あとで思ったが、あれが失恋の味だった。
さんまいめ
「天国の崩壊、か……」
地方新聞に壊れた教会についての記載があったので彼の書斎に持っていった。読み終えての一言がこれだ。
「空に登れたかと思うか?」
「貴方がそう信じるのならばそうでしょう」
「ではそう思うよ」
新聞を戻して寄越す。
先日の大地震で壊れた教会にはボンゴレプリーモと縁のある天使が居た。彼が殺したのは百人と数十の天使達だ。
事後処理はまだ終わらず、プリーモは書類に目を通してはサインやら連絡の馬やら鳩を飛ばしていた。
「シモンがきていますが。会いますか」
ふたつ返事で行くと言う。連れてこようとすると、プリーモが扉の外にまで歩いてきた。
一緒についてくるのなら、それで構わない。
「お前に見せたいものがある」
彼は、赤い絨毯を見下ろし、やや躊躇ってから苦笑した。
差し出したこぶしを開く。と。指輪が、絨毯のなかに呑まれていった。
「誰かが拾ったらしい。今朝、書斎の机に置いてあった。これはこういうものだ。必ず俺を探しにくる」
「……ほう。拾いもしなくていいのですか」
「いいんだ。今は」
肩越しに、取り残されるボンゴレリングを見やる。
日差しの下で男が初代を待つ。
手を握り合い、そうして眉を顰めて事情を聞こうとするシモンを横目にいれながらも屋敷に引っこんだ。
きた道を戻る。
絨毯には、ボンゴレリングが沈んでいる。氷の結晶のように、表面はよく冷えている、人指し指の腹で撫でてみてから拾い上げた。
書斎に立ち入り、彼の机に戻しておいた。
よんまいめ
うらやましい話ではあった。私が指輪の立場であったなら。
それからすぐに二代目と共謀して彼を追い払った。視界にいれておくのも許しがたくなる瞬間があるからだった。
「デイモン。なぜコッチに味方したんだ」
真っ赤なブドウ酒で口元を血の色に汚す若い男はそう言って何かを期待する。この男は私が甘いのを知っていた。プリーモは決して知ろうとしなかったことだ。
笑った拍子に吐息が鼻に引っかかり、ぬふふっと音が出る。
「ヌフフ。貴方のが便利そうでしたもので!」
「ほー。あの頭デッカチなプリーモが相当の信頼を寄せてたって話だろ。どうして出て行くアイツを呪わなかった?」
「ヌフフフ。その価値もありません」
旅立ちの船が出るから、見送りに行け、セコーンドがそう命令書を下したときに溜飲の下がる思いがした。
これでよかった。非情な命令をくだせるボスが欲しかったのだと深く自覚をする。セコーンドは、私に、魔力のこもったレンズを使ってプリーモを殺しておけと命令した。
「それじゃ命令に逆らったのか」
「まさか!」
にこにことしながら、騙しあえる悦びに打ち震える。
とっておきの笑顔を見せた。
「呪いをかけたことはかけたのです。彼には何も効果はありません……。しかし……、彼の子どもは皆が短命になるでしょうね」
「ほー。種になんかしたのか」
「……彼が、男でなければ話はここまでこじれなかったのですよ」
浅く笑いながら呻く。やっとの思いが……血反吐が口で溜まった。泣きたいような不思議な気持ちもあったが大方は気持ちがよかった。プリーモは私が殺した。
「セコーンド。この先に何があろうとプリーモはもう二度とボンゴレの元には戻りません。いえ、戻らせないと言うべきか。私の魂は悪鬼となって彼につきまとい、永遠に、彼を苦しめる」
死によってふたつめのボンゴレリングになる、晴れ晴れとして告げているのにセコーンドは笑うだけだ。浅く。虚無に。
誰も私を理解しようとはしないこの蛇の腹のなかで、しかし、居心地はよかった。
理解してくれたプリーモだけが、何も言わずに首を絞めてくる。
だから彼が憎かった。
「……そろそろ、次の計画について話すか。デイモン。パレルモの掌握に関してだが」
「ええ。もちろん協力しますよ。私は、貴方の霧の守護者です」
ごまいめ
いつ、どうして死んだのか、裏切られたのか、報復を受けたのか、疑問に思ってもよかった筈だがもう興味が持てなかった。なにせ死んだのだから。
死とは、ばらばらに砕けたモザイクタイルと同じだった。
目が海に。口が土に。いつだったかの誰かが天使を堕落から救って欠けたタイルを差し出した。
「これを……、僕に?」
低い声がする。
「いいでしょう。ただし、千種と犬の面倒をみてもらう。それから僕はこの特異体質の少女の体を使うしか…………」
何かを語る。ぴくり、耳のタイルが反応するのを感じた。
「骸!」
――声の芯に、よく覚えている誰かが住んでいる。その少年とは何度か話した。
「ありがとう」
「頼みます。この子達のこと――」
「骸、もう行くのか!」
「僕に限って!」
不意に、額に、手のひらが当たる感触がした。
暗闇から掬いあげる光る両手だった。頬をつつみ、上向けて、囀るように何かを静かに求めてくる。ソッと。モザイクタイルを天使のほほに戻したのはどんな手だったか。
透き通っていて、光る結晶のような色鮮やかな輝きを秘めた白い肌だった。最初はそれを眺めているだけで胸があたたかくなった。廃教会の天使にすらも惜しみなく注ぐ彼の優しさが愛しかった。
彼の手によって、バラバラになっていた欠片が集められていく。
いつもそうだ。ボンゴレプリーモが、有能な男達を集めていた。プリーモの素養がなければボンゴレファミリーは存在していなかった。
――ぱちり。ピースが填る。目を開けてみれば、あの短い秋の一日に夢想してみたように、彼は修復済みのモザイクタイルに笑いかけていた。
慈愛に満ちている。懐かしむ声がする。
「おはよう。デイモン」
「…………」
意識が蘇ってくる。
霧のリングが真の姿となっていた。どこか、自分に似ている気がする男が、リングを嵌めている。
プリーモは傍らにはいなかった。奇妙な光のなかで、
「枷を外してやる」
「プリーモ!」
彼によく似た少年の傍らに、彼がいる。
そろう
瞳は空虚で、よく拭いて磨いたアメジストの宝石のようだった。気分がいい。金の匂いのするものは好きだし、女も好きだ。これは成長すれば間違いなくいい女になる。
宿主の男のものだったバイクに跨る。移動のためだ。
ジャケットのフードに何かが当たる。少女はふくよかな体を押しつけてきて私の胸へと両手を回した。胸ごと体を押しつけてくる。
「D様……」
「ええ。そうですね。大事な体だ、堕ちてはコトです。いいこです」
頬を手でなぞり、目についた額に軽く唇を押しつける。
気持ちのいい操り人形だった。
やはり誑かすなら女に限る、生前の欲望は薄まっていたが代わりにプリーモとのやり取りをさかんに思い出せた。
「ヌフフ。貴方を見ていると体が熱くなる」
「D様……?」
「呪ったことでいささか力が付いたようですね……。見たところ沢田綱吉はかなりの濃度でプリーモの血を受け継いでいる。私の永き呪いが彼の身を裂くかと思うと楽しみでなりません」
ガラスの純度に近く、瞳が透き通っている。さぞや根が純粋な少女なのだろう。
「……ん〜」
霊媒としてのデキのよさに目を細めてしまいながら肩を揺する。
「あなたの六道骸もかなり抜け目のない男だ……、貴方もたっぷり利用されてきたのでしょうね。男を挿げ替えるぐらいカンタンにできるでしょうね」
赤子の肌のように、うら若き乙女の肌もやわらかい。今ならば食える気がした。おいしそうだ。
「はい。D様」
虚ろな目をして少女は首を縦にする。
もう一度、右の頬にキスをしながらプリーモを思った。今に生きているならば彼もこうして人形にできるのだろうか。
「六道骸が、従順な人形となってくれればいいのですがね」
あるいは沢田綱吉がそうでもいい。ボンゴレファミリーに連なるすべてのモノが、プリーモの蒔いたすべての種を、刈り取って闇に沈めおく。そうして呪いが終わり私も安らかな眠りにつける。
プリーモに掬われる――あの天使のように――感覚を蘇らせれば、意識は消えて、体は、シモンの系譜を持つ男のものへと変わった。
11.01.12
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