D’contract




 懐かしい味わいが口の中に広まった。覚えがあった。酸素の味だ。
(……口のなかがスッとする)
 味覚に導かれて少年は目を開けた。
 彼のくちびるは、半開きで薄く開いている。まぶたを持ちあげて何十秒もうつろに天井を仰ぎ続けた。
 遅く、まばたきを繰り返す。肺に落ちてくる空気の感覚に馴れず、呼吸をするので精一杯になった。
 ベッドの傍らには背の高い男性がいた。
 沢田綱吉は、彼の影にいて、視界を黒くうすく歪められているのだ。
「どうしたんですか?」
 持って回ったように男が言った。
「取りあえずは僕がここまで運んだのです。調子が悪かったのですか。目の前で急に倒れるもので大変驚きましたよ」
 深緑色の制服で、鋲に似た飾りのついたベルトを巻いている。ベルトからは、ドクロの連なったウォレットチェーンが伸びて、いくつかの指輪を垂らしていた。
 ゆるく眼差しを持ちあげ、あわせ、二人はそれなりの長い時間を見つめ合って過ごした。
 口火を切ったのは、綱吉だ。
「ここは」
 肘をついて身を起こす。透明に近い感情が乗っていた面が歪んだ。
 乱暴に、首を締めているネクタイを引っ張る。すぐさま余計にキツくなった。
 顔を顰める綱吉を六道骸も訝かしがる。
「息苦しいんですか」
「俺は誰だ」
「沢田綱吉ですよ」
 にや、笑みがかすかに広がって男の前歯が覗く。白い。
 手は、綱吉の胸に置いて、ベッドへと押し戻した。
 背中のでっぱった骨からシーツに着いて元のように寝そべる。その眺めを見下ろす赤蒼のオッドアイはひどく満足げだ。
「変な綱吉くん。今日の君は少しおかしいようだ。ゆっくり眠るといい」
「…………」
 首もとで指が蠢く。水の蛇が落ちていくみたいな奇妙な滴り方で、ネクタイが骸の手をすべり、シーツに落ちる。
 シャツのボタンにも手をかけた。
「今、楽にしてあげます」
 人が好さそうに骸が笑う。
「鏡」綱吉は男のすることには一言も与えずに命令を出した。骸は目を線にする。
「はい」
 黒曜制服のズボンポケットから、コンパクトが取りだされた。鏡が上蓋裏についている。
 骸が開けてやって、綱吉の顔に突きつけた。顔を凝視してすぐに綱吉は首に手をやった。ひっかき傷らしきものが薄っすら見える。
「この傷は? いつのものだ」
「昨日です」
 上機嫌になって骸は顎を引く。
「ご気分はいかがですか? 綱吉くん」
「違う。その名前じゃない」
 歯に詰まった言い方で、しかし声にするのは躊躇われた。顔かたちを確認するために右手で繰り返し造形を撫で回す。
「…………どこだ?」
「何を気にする必要がありますか。満喫してください。選ばれたモノの特権ですよ」
「誰が喋れと言った。デーチモはどこにやった」
「ンー。ちょっとした契約です。あなたの中のどこかにはいますよ。六道骸の契約は、契約中は相手の自我を封じるタイプのものだ。私の行う契約とは違いますが、これもまた便利ですねぇ。ヌフ」
「なぜ現世に戻れた」
「クローム髑髏が特異体質がゆえに六道骸と交信できたように、ある男が私と相性がよかったもので。デーチモは貴方にそっくりだった。久しぶりに会いたくなったのですよ。ジョット。どうです、また私と一緒にボンゴレを盛りあげていくのは」
「俺はもう引退した」
「ヌフフフッ」
 肩をゆすり、房と分け目とオッドアイとを抱く少年はコロコロ笑う。
「今回は、前とは違って逃がしませんよ」
 言い終わらない内の出来事だった。ベッドに体重を一気に押しやり、ギシッ、大きく軋ませる。綱吉が跳ねた。
 骸に飛びかかり、その首を鷲掴みにする。
「クハッ!!」
 六道骸の声を出して、デイモン・スペードは両眼を開け拡げる。
「殺しますか? 沢田綱吉の手で? 六道骸を?!」
「――巻き込まれる道理がない!」
「いいえありますね。あぁ、この状況下で手に力を入れてくるとはやはり貴方はすばらしい。ですが、貴方の大事な人と、貴方の大事な人が大事にしている人を同時に失いますねえ。困りましたね。それでも、あくまは死なないというのを、ご存じでしょう?」
「…………ッ!」
 静謐とさえ言えた少年の顔が、ケモノの猛々しさを宿して引き攣った。歯茎を剥いて首を両手に締めにかかる。
 が、あるところで両手を制止させた。
「お前に悪戯を施されるのならば死んだほうがマシだと言い切った者が俺の時代のファミリーにも何人もいた。わかるだろう、デイモン」
「ヌフフフフ。いいえわかりませんね。いいじゃないですか、私は単にあなたに会いたかっただけ――」
「てめぇ。殺すぞ」
 急に限度を超えたように吐き捨てたが、だがそう言いながらも綱吉は手を離した。
 苦々しげに六道骸を睨みつける。
 骸は、わざとトロい動作で立ち上がり、黒曜制服についたホコリを叩いて落とす。ちゃりり、チェーンと指輪がこすれて、綱吉は彼のベルトへ目をやった。
「現代にはとっくにかぶれたようだな」
「ヌフフフフ。前の衣装がいいのなら戻してきますが」
「どっちも最悪だ」
 短く答えて、綱吉は心臓に手をやった。苛立ったうえでの無意識の仕草だ。
 骸が、慎重にまばたきをする。
「扱いに気をつけてください。他人の体なんですから」
「……体調が万全になったらまずお前をやるからな、デイモン」
「そううまくいきますかね。残念ながら私と六道骸は感度ばっちりと合うようです。使いやすい体だ」
 それに、悪戯っぽく足した。
「この塩梅はたいへん心地が好い――」
「やめろ」
 身長差を利用して覆い被さり、頭を抱こうとした胸を綱吉が突き飛ばした。
 体力がないため、ベッドに手をつく。
「ヌフフフ。気をつけてと言っているのに。困ったボスだ。怒るのも明日にして今日は寝ませんか? 貴方のためにそうしたほうがいい」
「俺に触ったら消すぞ」
 勝手に肩を抱き、ベッドに寝かせようとするデイモンの手を払う。綱吉はこめかみを青くして肩での息を貪った。
 久方ぶりに――、百年以上も久しく感じていなかった、肺の感覚が痒い。
「俺はこんなの望んでいない!!」
 激昂しての叫びに、骸はイヤミな微笑みを浮かべている。下唇に人指し指と中指を押し当て、手で歯を剥いた。
 んー、鼻から、うめく。
 次の瞬間には輪郭に霧が滲み、広がりだしたときには骸の姿がデイモン・スペードのものへと鮮やかに移り変わった。
 水色の髪に、青い瞳、肌が死人のように青い男性だった。
「大事な確認をひとつだけ」
「なんだ」
 綱吉は、額に浮きでる汗を拭う。デイモンを見るのも二百年ぶりくらいだ。
「まるで私が悪いようにいいますが、そうでしょうか? 貴方にまったく落ち度がないとした言い方はいただけませんねぇ、ジョット。視野が狭いというもの」
「何が言いたい」
「ぬふふっ」
 ブキミに笑いつづけて、面白そうに何度も一人で頷いた。開け放たれている窓辺では、風向きが変わったため、カーテンが外の宵闇へと吸い込まれている。
 ハッキリと一言だけ告げると、デイモンは骸の姿に戻って綱吉を力尽くでベッドに寝かせた。それで窓から出て行ったのだが。
「悪魔と契約したのは貴方以外の誰でもない」
 涼しげな教え方だった。
 愉快犯、模倣犯、本気でやっているわけではないと暗に伝わる。それを聞いた少年の胸には怒りとも嘆きとも違う、腹にズンとくる衝撃が残り、後味の悪さで気絶するように眠った。





10.12.14

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