うさぎの時間が来る2:6






 黒いモヤがぶんぶんと頭の上を跳んでいる。
 少年は眉間を歪める。
 全身に力が入らなかった。金縛りにあったみたいに指一本動かせない――。と、そこでハッとする。左手は動く。左手でシーツを握りしめてからようやく自分のベッドに寝ていると気が付いた。
「いづっ!!」
 脳天に突き刺すような痛みが走る。
 左手から――思いもがけない箇所から痛みがほとばしった。慎重に左手を頭上に持ってくる。
 薬指の欠けた手のひらを眼中にして、ようやく、我が身に何が起きたかを思い出した。
「うぐあぁああああああああああああああ!!!」
 汗ビッショリで綱吉が跳ね起きた。
「!」
「ツナ!」
 ベッドの隣には、母親と、知らない赤ん坊が向かい合わせになってしゃがみ込んでいた。
「うわああ! あああああ!!」
 母親が肩を抑えたがパニックに陥った息子はその手をはね除ける。だが。左手がまた痛んで、すぐに大人しくなった。
「ざまあねえな」
 見知らぬ赤ん坊が言う。
 冷たい声に、左手を抑えながら蹲った綱吉が顔をあげた。酷く枯れた声が出る。
「だ……誰だお前」
「この人はね、」
 応えたのは奈々だった。
 痛ましげに息子の左手を眺めつつ、小脇に抱えていたアルバムを膝に置く。手際よくページがめくられた。幼い綱吉を奈々が抱えている――出張中の父親が隣に並んで、新築の我が家をバックにして家族写真を撮ったものだ。父親の足元に、目の前の赤ん坊とまったく同じ容姿の赤ん坊がいた。
「あなたの叔父さんよ」
 奈々は当たり前のように言った。
「な……、なんて言った?」
「だから、叔父さん。十年ぶりくらいかしら。この時、ツナの力を封印していって、また中国まで修行の旅に出たのよ」
「フ。フウイン……?」
「そうだ。昨日、ウチに置いてたテメーの写真が破けた。死相だ。だから来てやったんだ。案の定、人喰いバクテリアの変異体なんかにとっつかまって――」
「ヘンイタイ……?」
 きつねに化かされた気分だった。
 手の痛みもあって酷く惨めだ。自然と涙をこぼす綱吉を真っ直ぐ見上げながら、赤ん坊が冷めた目で「そうだ」と思い出したように言う。
「オレの名はリボーンだ。死にたくないなら覚えろ」
「リボーン」
 鸚鵡返しにくり返し、頷いて、綱吉はようやく日常が一変したことを受け入れた。一粒の涙がシーツにシミを作った。



■ ■ ■



「…………」
 いつもの帰宅路の途中で足を止めた。
 綱吉は、きつく両眼をしぼって背後をふり向いた。他に人はいない。だからこそ、こうする気になったのだ。
 あれから一ヶ月。
 ようやく、本当に気持ちの整理がついた。
「骸!」
 住宅街に夕焼けがかかっている。
「いるんだろ。こそこそするな!」
「こんにちは」
 唐突に、左手側の方から声がかかった。
 ずさり。後ずさり、綱吉は、学生カバンを両手で掴んで盾代わりにする。六道骸は神出鬼没だ。塀によりかかり、薄手のジャケットを着込んで、見たところは完全に人間として擬態ができている。腰の下まで伸びた長髪、オッドアイは、少し奇特だが。
 視線を感じて、綱吉は左手を背中に隠した。骸はクスリと鼻を鳴らす。
「それ。感覚はあるんですか?」
「神経まで繋げてある」
「へえ。じゃあ、またそこを食べられたら同じくらいに痛いんでしょうね」
 くっ。小さく舌打ちして綱吉が間合いを取る。
 肩を竦ませて、青年は余裕の態度であった。
 声を張りあげる。
「つきまとうのはもうやめろ! リボーンに色々教えてもらった。もう前みたいに楽には喰えないよ。オレは!」
「だから他にいけと?」
 骸はひたすら面白がっている。
「ご冗談を。美味しかったですよ。君。方術を覚えたことで愉しみが増えたと考えることだってできるんですよ。僕は」
「お、おまえを、殺すことだってできるかも……」
「へええええ?」
 完全なる嘲笑と共に骸が鼻を鳴らす。
「闘ってあげてもいいですけど。僕のディナーになる決心をしてからどうです?」
「…………」
 胸中でリボーンに助けを求めつつ、綱吉は、首をふる。
「これ以上、つきまとうな!」
「クフフフフフフフ」
(くそっ。遊ばれてる)
 リボーンから聞いた話を思い出す。
 百戦錬磨の化け物とあっては今の綱吉が太刀打ちできるワケがない。どうにか逃げるくらいの方法は教えてもらったが。叔父のリボーンとかいう赤ん坊は既に大陸に去っていってしまった。あとは、自力で生き延びろと言う話だ。
(不利だよな。せんざいのーりょく、ってのがあっても、ハンデがおおい。勝つのは無理だってリボーンは言う)
 左手に視線を向けた。くすり指が再生している。
 綱吉の力――というよりも、奈々の力である。胸ポケットにいれた生徒手帳の中には、綱吉がそれまで見たこともなかったような難しい漢字がびっしり書込まれた護符が入っている。母の愛だと言われて渡された。
 左手を握りしめながら、綱吉はまた叫んだ。後ろの青年を警戒してややヒステリックな調子である。
「ついてくるなってば!」
「クフフ」
 ニコニコと、笑顔で、害意のなさをアピールしてくるが易々と左手の一部を食べて見せた相手だ。信用できるワケがない。
「おまえ、最悪だよ。酷いことしてるなんて思ってもいないトコが特に!」
「僕、人間じゃないですもん」
 カバンを胸に抱えつつ、綱吉は呆れた眼差しを送る。
「油断しないから。骸」
「……ふふ」
 青年が足を止める。自らの片腕を撫でつつ、意味ありげに力強い眼差しを注いできた。綱吉は眉をひそめるが歩調をあげる。
 大部、歩いてからふり返ってみると、骸の姿は掻き消えていた。



■ ■ ■



「…………」
 綱吉は、二ヶ月前に交わしたやり取りを思い出していた。また今日も見慣れた帰宅路を一人で歩く――以前は、六道骸と一緒に、あちこちに寄り道しながら帰ったので、実はこうした寂しい帰宅路は馴れない(骸は転校したことになっている)。
 ハァ。深々とした嘆息をついた。姿は見えないが毎日感じてしまう――ねばりつくような殺気を孕んだ気配をしている日もあれば、あっけらかんと暇そうな気配を醸しだしている日もあった――。
「骸……」
「なんですか?」
 今日は暇そうだった。彼はすぐに闇に黒ずむ日陰から姿を現す。
「いい加減にしろよ……。他のエサは?」
「僕は君がいい。一途なんだっていつかに話したでしょ」
 語尾にハートマークでもつきそうな声音だ。
 綱吉は、隣にやってきた青年を恐々と見上げながら気まずそうな顔をする。
「…………」
「? 食べられたいですか?」
「まだ育つのを待つ気でいるのか?」
 相手の質問を無視して、こちらから尋ねると、彼は目を丸くしつつも頷いた。やっぱりそのつもりでつきまとっているのか。落胆と共にじんわりした恐怖感が全身を襲う。
 ぎゅ。拳をにぎりつつ、微笑みすら浮かべている六道骸のオッドアイを見つめる。
「ずっとついてくるなら、お前、学校に戻ったら?」
 無言のままに骸が気配を変えた。
 少し動揺した様子だ。
「テスト、教えてくれる人がいなくて困るし。見えないとこにいられるより、見える形で目の前にいてくれた方が助かるんだけど」
 ぶふ。
 軽く噴きだして、青年がまじまじと綱吉を覗きこむ。
「ごはんの分際でそんなこと言うんですか?」
「考えてみれば骸が学校に戻ってきても同じじゃないか。いつもオレにべったりだったし!」
「ああ。そういえば、もうすぐ期末テストですね……」
 ウサギが思いを馳せるようにオッドアイを窄める。
 ついと、綱吉に流し目を送った。
「初めてですよ。そんな提案受けたの」
 言い終わる頃には、夕陽に馴染むように肉体が薄くなって、すぐに溶けて消える。リボーンがバクテリアと呼んでいたことを思い出した。
(なんなんだ……この生き物……)
 いなくなった空間を見つめて、綱吉は、ごくりと固唾を呑んだ。


 翌日である。少年、六道骸は、きちんと自分の席に着席していて、扉のところで棒立ちになっている綱吉に気が付いた。
「ああ。綱吉くん」
 両方が黒い瞳に、色白の肌に、真ん中分けして襟足を外はねさせた少し不思議な髪型。一筋縄ではいかなさそうな、皮肉げな雰囲気もそのままに、足を組んだまま手招きしている。ざわざわとざわめく生徒達に混じっている。
 くふふふふふ。と、含み笑いをこぼして、骸は上機嫌である。
「おはようございます。転校やめちゃいました」
「……おはよ」
 口角を引き攣らせた顔で、綱吉は、あごの下までカバンを引っ張り上げた。盾の代わりだ。あの一件以来、鉄板を仕込んだので重いが武器にもなるのだ。
 ひとまずはこれで――、以前とよく似た生活を送ることができる、だろう。
 ほとばしる緊張感は度外視するとして。






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