本編中:閑話:群青

星望




「犬、保健室があった。使えそうなの盗ってきて」
「わかったびょん。ついでにカーテンとかもいるよな?!」
 リュックサックを漁っていた少年二人のうち、一人が屋上を飛び出した。
 生暖かな風がフェンスを通り抜ける。骸は、左腕の傷口を抑えながら活目していた。見開かせたオッドアイで、戦慄く自らの指先を見つめる。一心に、瞳孔を開かせたままで。
「…………っく、くく、くくく」
「骸さま。腕を。止血します」
「くは……」
 触れる指先。それが、彼のものではないとわかっていた。
 それだのに、人肌が触れただけで先ほどの猛りが呼び起こされるようだった。狂ったように肩を揺らすが、千種は処置をやめなかった。
 屋上の一角に血だまりができあがっていく。ぽた、ぽた、指先から赤い雫を落としながら、骸は反対の手のひらで自らの顔面を抑え付けた。
 千種が、消毒液の半分ほどを一挙に注ぎかけたときだった。
「っづぅ、あっ、はっぁ」
 傷口から、じゅわじゅわした泡が立ち昇る。
「…………!」鳥肌が引かなかった。痛みのせいではない。
 背筋が泡だって、足の指までぞくぞくくるような超感覚が身体中に残留している。必死になって歯を噛みあわせて、彼は茂みの中でのた打ち回っていた。上半身だけ。
 下半身は、強く繋がれていた。
『は――ッ』彼の白い肌に汗が浮かび上がる。
 土と植物のすえた匂いが、咽返るような熱気が、気が遠くなるような痛みが、根源から沸き上がるような喜悦が見えるもの全てを反転させる。
 ぞくぞくとして声がでない。眉根までもが、得られるものの大きさに圧倒されて戦慄いた。
 笑みが。口角に浮かぶ笑みが抑えられなくて自制できなかった。演技とか、彼を嬲るとか、そうしたことの一切が思考から吹き飛んで。
 これほどまでに強い悦楽が得られる行為だとは知らなかった。今まで、今までならとっくに吐精するだろう快楽があるのに、まだその上を飛び越える。貪れば貪るだけ、彼が応えて熱を分けてくれる気がした。夢中で、より強く繋がった。
 体と体がぶつかり合う音。淫らで、相手が彼だとわかるだけで気が遠くなる。
 体の下で彼は後退するようにがむしゃらに背中を土にこすり付けていた。
 許して。掠れた声で、苦しげに――浮かされて喘ぐような声で言う。びくびくと体躯を痙攣させながら、助けを求めるように土を掻き毟る。その指先は白く変色していて、彼が感じるものの大きさを物語っている。喉が渇く。この乾きも彼と共有できているに違いなかった。
『ぁっう……!!』綱吉の首が反りあがる。
 く、ふ、ふふ。骸は自らの唇を舐めていた。
(覚えてる……。僕の体。あの肉の味を)
 白い肌、反ったままの首をむしゃぶれば甲高い悲鳴。
(僕がすることに応える。彼が)思い出す、それだけで指先が痙攣を始める。
 下半身が熱かった。彼の掠れた悲鳴を聞くだけで一挙に押し上げられる。――到達したことがないほどの深み、高み、自分という魂すらもぐちゃぐちゃに壊れるような悦楽。
『やめぇっ、む、くろさっ……、アッ』
 噛み付いたまま、目の裏を愉悦で明滅させていると彼の喉が振動した。彼の喉。彼。つなよし、さわだつなよし、もはや狂った思考で繰り返した。
 く、く。くふふふふふ。
 笑いを噛み殺す骸に眉を寄せつつも、千種は包帯を巻き終えた。巻き終えた直後から血が滲み出した。この、血。それすらも骸には情事のあとに見えた。
 くつくつと肩を揺らすと、千種が骸のスニーカーを見つめた。
「あの、骸さま。日本に帰ってきたのは、」
 語尾が途切れた。犬が、ゼエハアと肩で息をしながら屋上の入り口に立っていた。カーテンを腕に挟んで、ずるずると引き摺ってきたようで黄色が茶色に汚れていた。
「包帯もあったびょん! でもモルヒネはねえな!」
「……そりゃフツーはないよ。平気、こっちにある」
 リュックサックからアルミケースを取り出す。
 千種は、手早く注射針のセットを済ませて骸に向き直った。まだ綺麗な方のカーテンを上にして、骸を促した。座り込み、背中をフェンスに預けた彼は、まだクスクスとしていた。夜のように暗くて深い微笑みを貼り付けて、挑戦的ですらある眼差しを千種と犬に向ける。
「千種。さっき何をいいかけたんですか」
 犬が眉根をしかめる。千種は、若干青褪めた。
「骸さまの決定なら何があろうと逆らいません」
「くく、……別に疑ってはないですよ」
 味わうように、血塗れになった肌に浮かんだ鳥肌を撫でる。
 狂気を伴った微笑み。骸は、誰にともなく告げていた。
「そう……愛している。僕は彼を愛してるんだ」
 オッドアイに淀みが走る。それは痛みでも悦楽でもなかった。
 少年は写真の切れ端を取り出した。戦闘中もポケットに入れていたためにクシャクシャになっていたが。
「男性ですし、小さい上にひ弱で――くだらないものをたくさん抱えてるますし。本当に卑小極まりない」千種と犬は、骸の横顔から切れ端へと視線を落とした。
 いつか、海辺で撮ったもの。
 彼らが、ふと気がつけば、骸は、綱吉だけを切り抜いて他の全てを捨ててしまっていた。
「でも好きなんだ。男女のもの、というより、動物が交配相手を求めるようなものかもしれませんが」
 写真の中にいる綱吉は、今より少しだけ若い。背がちょっとだけ低い。太陽に照らされて、肌をまぶしく光らせている。肌。
「……僕はもう彼以外に愛する気がない」
 鳥肌がますます尖っていって、骸は、笑いを押し殺すようにしながら片腕で自らの身体を抱きしめた。あの肌の味を思いだすだけで身体が昂ぶりだす。
(最高のオルガニズムだった)オッドアイがしなる。
 じ、と、骸を見下ろしていた千種は、やがて犬へと視線をやった。
 犬は、大分前から千種を見つめていた。
「うすうす、わかってはいましたけど……」
「そーなの? あのウサギちゃん、カワイイ方だけどさァ」
 無言のまま、千種は犬の足を踏んだ。
 ふ。咎めるでもなく、骸は暗い目をしてみせた。
「後悔しましたか? あのとき。君達は、あのまま居候を続けていてもよかったんですよ」
「! とんでもないれすよ!」
 犬が目を見開いた。当然だというよう、千種も頷く。
「オレたちは骸さまがいくならどこにでも」
 ぞく。身体の奥が喜びを訴える。
「いい子ですね」返しながら、骸は相貌を歪ませた。
 目の前の少年たちのような従順さが彼にもあれば。いや、あるのだが。怯えながら拒絶し、それでも受け入れるしかない小さな身体を蹂躙する、その想像だけで魂の心から焦がすような愉悦があった。
(綱吉くん)彼の――、彼の奥深いところまで征服したのだ。
 ぐしゃり、と、骸は自ら写真の切れ端を握り締めた。
(僕たちは繋がった。きみは、本当に僕のものになった)
 呟く。胸中で言葉にする、それだけで真っ白になって指先まで猛りが広がった。
 昔は、隣にいても肩を並べていても手に入ったとは思えなかったものだ。あれだけ近くにいたのに。骸は、写真を握り込んだ拳を自らの額に擦り付けた。
(愛してる……、ああ、そう)過去に戻る気などない。
 あの、彼の左目を殺した瞬間から切り捨てた。だけれど。まだ、まだ――。
 あの顔。あの声。あの奥まった場所の肉の質感。肉、彼の中の味、彼の深いところ、その全てを知っているのはこの世に骸ただ一人なのだ。
 疼くもの、胸から溢れるもので気が狂いそうになる。つい先ほど、肉体で味わった狂気とは少し色が違う。氷、氷のように冷えたこころが燃え上がるような。
 静かに、うめいた声には、鬼気迫る響きがあった。
「そう、綱吉くん」
 ――それでいて、唄うようだった。
「僕のものにする」
 そ、と、愉悦で目尻を細めながら骸がささやいた。
 吹きすさぶ風で、校庭に植えられた桜の花びらが高いところまで舞い上がっていた。
「骸さま? 鎮静剤を打ちます」
「はい、やってください……」
 目蓋の裏があつい。
 全身の隅まで、脳までが悦びに浸ろうとする。
 俗物的で醜くて気持ちのよいものが確かにあった。つまりは、これは恋なのだ。完全に。
 うっ、と、低い声音で苦痛のうめきをあげていた。ゆっくりと刺し込まれた液体は、琥珀色をしていた。腕の痛みがせり上がるような心地がした。
「は、あ……っ。くっ、くはは」
 心から痺れるくらいの痛みだ。寄り添うものは悦楽と呼べて、骸は薄く両目を開けたままで空を仰いだ。
 夜。朝までまだ遠い。――咄嗟に赤い星を探したが、見つけられなかった。街の明かりが隠しているのかもしれない。意識が朦朧とするまで時間がかからなかった。誰にともなくうめく。
「……綱吉くんに僕の想いは伝わったんでしょうかね」
 困ったように千種と犬が互いを見合わせていた。
 くす、と、骸が余裕を持って笑みをこぼす。答えを求めてなどはいないからだ。
(あの体。あの声。あの子……、すべて僕のものに。彼にも僕だけがいればいい)
 ずいぶん変わった。昔は、欲しいものなど何もなかったのに。目蓋がさがっていく。鎮静剤には入眠効果もある、目を閉じて体を横たえた。
 窮屈な、長く尾を引く溜め息がこぼれた。
「…………」痛み。快の伴うもの。
 彼が自分に与えたものが、うっすら、遠ざかっていく。
 見えなくなっていく。不思議と、体の熱だけが取り残された。
(綱吉くん)どんなものであっても、確かなことがひとつだけ。
 彼と芯から通じ合って何かを成すのは、本当に互いのことだけを見て確認をし合えたのは今日が初めてだということ。掠れた意識の中で薄く笑っていた。
 今日のことが。今日のことが、綱吉とその周囲にとって、一生の傷になるくらいの忌まわしいものになればいい。口唇だけで愛を囁いて、骸は、束の間の睡眠へと体を明け渡した。





おわり





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