本編中:閑話:天濫

真水




「は……。写真ですか」
 弾んだ声音は、一息でまくしたててみせた。
「そう! ビアンキがカメラ持ってきてたんだ。あそこの海のおじさんが撮ってくれるっていうし、せっかくだから夏の記念に撮ろうってことになりました!」
 波打ち際に腰かけたままで、振り返ってみれば女子陣の固まりが見えた。海の家の前で店主と話し込んでいる。店主は、エプロンの下からでも筋肉質な体躯が見えるほどの大男だ。どうみても堅気ではない。
(ディーノの部下か)
 胸中だけで呟き、骸は声音を低くさせた。
「この人数じゃ一枚に収まらないと思いますが」
「大丈夫だよ。みんなで詰まるし。そうだ、おじさんが、ゴムボートも出してくれるって」
 綱吉の横顔へと視線を移して、ゆるく首を振る。
「僕はいいです。千種、犬、いってあげなさい」
「え?」
「どうぞお楽しみに」
「って……、ええ? 骸さんもきましょうよ!」
「おい」尖った声音。
 両手を鉤爪にした犬が舌をだしていた。波が寄せる度に、穴が埋まるのでなかなか深くならない。
「骸さんは今まで写真に写ったことねェーよ」
 数秒、ポカンと口を丸くする。
 骸は指先で砂を梳いた。わざと犬の掘った穴に砂をかけてやる。
 アアッ! 悲鳴をあげる犬に、つんと顔をそらしたところで綱吉が言った。思い切るように、拳を固くしている。
「あ、いや……。でも、もうその必要はないんじゃ」
「どうしてですか?」
 少年は口ごもる。機嫌を伺うような、いささか卑屈な眼差しを受けて、骸は冷ややかにオッドアイを細めてみせた。
(僕がボンゴレ入りするなら、か)閉じる直前にまで、目蓋を下ろした。
「何を勘違いしてるんですか。今日、ここにいるのは僕がボンゴレファミリーの一員だからではない。……家人に呼ばれたから。それだけの理由ですよ」
「で、でも……、骸さん」
 まだ太陽は低いところにあるが、日差しは強い。ざく、ざくっ、素手での砂堀が続けられていた。
「ラーメン食いたい」
 ボソ、と、千種がうめいた。
「じゃあ、食べましょうか」こだわりもなく骸が返す。
 潮風が濡れた前髪を揺らしていた。綱吉は、物言いたげにしていたが、引き止めることはなかった。午後になると日差しはいっそう激しさを増した。
 日焼け止めを塗った後で、骸は何度目かわからないため息をした。
 一同が写真を撮った気配がない。かわりに、何か言いたげな視線をひっきりなしに感じる。彼のそうした態度――気弱である割りに頑なだったりする態度は、骸をイラつかせることがあった。
「骸さま?」
「ちょっと遠出してきます」
 半そでのパーカーを掴むと、岩場を指出した。
 遠目でも険しい場所だとわかる。波が打ちつける度に、白いアブクが岩の表面まで覆い被さった。心配するでもなく、千種は頷き返しただけだった。その手は犬の首根っこを抑えて、当の犬は物珍しげに海を見つめていた。
「君たちはボートでも奪ってきたらどうですか?」
 思わずクスリとして、骸は、浅瀬で浮いているゴムボートを指差した。
 そこには綱吉もいた。骸に指を差されたことに気がついて、驚いたような顔をしている。
「いってらっしゃい」
「やったァー! 柿ピー、あれで遠くまで行ってみるびょん!」
 砂浜に光が当たると、きらきらした細かな粒が光りだす。犬と千種が、その上を走っていった。
 少年二人の突撃を受けて、ゴムボートが顛覆するまでを見届けると骸は踵を返した。岩場は海へと突き出していて、しかも大半は海中に沈んでいる。白いアブクが足元で踊っていた。
(ずいぶんと景色が変わるな)
 背後以外の三方向全てに海面が伸びる。
 オッドアイをしならせながら、地平線を見つめること数分。潮風が目に染みるような錯覚。骸は、小さくうめいた。
「……きれいな海だ」
 青々とした海面がキラリとしている。
 足元で泡が砕けて、ざあん、と、一定のリズムで波が打ち寄せる。カモメの鳴き声は遥かな高みから落ちてくる――、キィ、キィ。
 平和だ、と、彼でさえも感じるような一日だった。
 朝から、今まで。ずっと。
(何をしてるんだか。僕もこんな日を過ごせるくらいの器用さはまだ残していたと見える)
 ――えっ? もちろん、骸さんも来るでしょ?
 一片の疑いもなく声をかけられて、正直なところ絶句したのだが、骸はそれでも小旅行についていく気になった。家にいてもヒマなだけだと、いわゆる『ふつう』の学生生活を送ってみての感想だった。
 足元を舐めるアブクを見下ろしつつも、腰を降ろす。パーカーの裾が濡れないようにと、膝前の持ってきた。そのとき、唐突に悲鳴が聞こえた。背後だ。
「だわぁあ?!」聞き覚えのある――聞きなれたとも言える声。
 首を落としながら振り返れば、水柱が立つのが確認できた。緑色のサンダルが虚しく水面に浮いて、当の本人は、バシャバシャと泡を掻いていた。思わず呟いていた。
「無理ならこなきゃいいんじゃないですか?」
「ぶっ、し、沈むう!」
 断末魔のような悲鳴をあげて、綱吉はすぐさま沈んでいった。
「……泳げないんですか?」
 ぶくぶく。泡だけが水面で弾ける。
 チ。素早く舌打ちして、骸はパーカーを脱ぎ捨てた。
 ざばっ! 白いアブクが骸の視界を包み込む。
 水深がある上に水が濁り気味だ。綱吉が吐き出したものらしきアブクを頼りに腕を伸ばせば、柔らかいものを掴んだ。
「…………」
 掴んだが、相手も救助に気がついて掴み返してきたらしかった。
(なっ……)溺れるものは藁をも掴むといった。抑制が保てないほどに綱吉はパニックに陥っているらしかった。渾身の力でしがみ付いてくる綱吉の頭を下へと押しやりつつ――なんだか、自分がわざと沈めているような錯覚を覚えつつも、骸は水面へと浮上した。
「ぶはぁっっ!!」
 片腕に巻きついていた綱吉も一緒に浮上した。
「っ、し、死ぬかと思った……!!」
 足で水を掻きつつ、だがすぐにバランスを崩して両手で骸の肩にしがみ付く。そんな彼を横目で見返しつつ、骸は複雑そうに眉根を寄せた。
「僕を追いかけてきたんですか」
「そ、……そうだけど」
 怯える綱吉の背を押して岩を攀じ登らせ、海面のサンダルも投げつける。パーカーは濡れそぼっていた。
 海からよじでてきて、びしょびしょになったそれを小脇に抱えると、綱吉は怯えを深めたようで口角を引き攣らせる。だが、
「写真は撮りませんよ」
 思い切ったように口を開けるので、骸は先手を切った。
 うぐ。綱吉が言葉を失う。嘲笑うような笑みが口角に浮かんだ。
「君は単純ですね。いっそ羨ましいくらいですよ」
「む、骸さん。待って。今日は来てくれたじゃないですか」
「放っておいてください。千種と犬を貸しますから。それで充分でしょう?」砂浜へと足を向けたままで、肩越しに振りかえる。
 悲しげにうめきつつ、綱吉は首を振った。
「充分じゃないですよ。骸さんも入ろうよ」
「……なぜ?」
「皆で来てるんだから、さ」
 それは、理由になってない。
 胸中だけで零して、骸は改めて綱吉の全身を見つめた。脱げたサンダルを指に下げている、髪が、水で濡れて肌にしっとりとこびり付いていた。
「真水」「え?」
 裸の胸に、いくえもの水の筋が走る。
 濡れたばかりの体が、きらきらと日の光を反射していた。
「真水では生きられない生き物がいる。僕はそっちの部類なんですよ」
 オッドアイに僅かな濁りが浮かんだ。突如としてパーカーを突き出されて、綱吉は困惑したように唇を尖らせる。
「君のせいで濡れた。砂がつくと面倒なので奈々のところに持っていってください」
「あ、わ、わかった……、ってだから待ってってば!」
 白い布地を握りしめながら、綱吉は声音の芯を強く震わせた。
「オレは、骸さんがボンゴレに入らなくてもいいと思ってるよ。嫌いなら、仕方がないしそれでいいと思ってます。でも、今はこうしてウチにいるんだし……。ねえ、ダメ? 一回だけでも」
「僕には、何で君がそこまでこだわるのかがわかりませんよ」
「だって骸さん、いつかいなくなっちゃうんでしょ?」
 ぎく、と、骸の肩が強張った。
 ごく些細な動作だ、気付かないままで綱吉は一人で頷いて見せた。
「何ていうんですか……、その、ええっと。オレ、ずっと一人っ子で父さんも家にいないから。兄弟がいる家族に少し……えーと、憧れてて」
「…………」
「リボーンはちょっと違うし」
 ――、いつからかわからなかったが、骸は、何度もそうした思いを味わっていることを自覚しながら綱吉をまじまじと見つめた。同じ人物と出会っているはずなのに、初めて会う人間を目の前にしているような心地になる。
 さっと足元に視線を降ろした。アブクが駆け抜けていく。
「そういうこと言うと、後悔しますよ」
「そ、そうかな? ちゃんと一時的だってわかってるよ――、オレの勝手な思い込みみたいなもんだから!」
「当たり前だ。君に与えるものなど何もない」
「うん。それでいいよ」
 綱吉が、ようやっと笑顔をみせる。
 汗を掻いているような気がした。骸が、口角を噛んだ。
「綱吉くんの相手って疲れますよ。僕とは考え方が根元から違う」
 睨みつけながらも、骸は踵を返した。
 ズキッとした痛みが、右目から起こるのか、それとも胸中から沸き起こるのか。正確なところがわからなかった。唇が動いていた。
「で、いつから撮るんですか? もうすぐ日が沈みますよ」
「えっ」「写真。撮るんでしょう?」
 横目を向ければ、綱吉は、みるみるうちに笑顔を作った。
「――はいっ! 今すぐ!」
 みんなに声かけますね! 言って、濡れた岩の上をピョンピョンと駆けていく。危なっかしい足取りだ。
 ふうと、ため息をついて、骸は青空を見上げていた。
 平和だが。こうした世界に、自分が馴染めるとは思わなかった。(写真、ね。まあ、出回るようなものじゃないでしょうし……。少しくらいなら)
(それくらいなら、君にあげてもいいでしょうよ。綱吉くん)
 二十分もしない内に、海の家の前にいつものメンバーが集まった。十人を越す人数だ、賑やかで、骸たちは右端の方でひっそりと佇んだ。
「真面目に撮るのか? これ」
「何でもいいんじゃん? 好きにすれば」
「はぁーい、ハルはピースがいいと思います!」
「骸さま、本当にいいんですか」
「まあ、根負けってヤツですかね〜」
 遠くを見つめるオッドアイに、千種と犬は顔を見合わせた。
「ツナ君、もっとくっ付かないと端っこがハミでちゃうよ」
「う、うんっ」
 カメラの真前で、綱吉が肩を縮めていた。
 右隣には京子、左隣にはハル。その後ろを獄寺と山本が固めている。最前列ではランボが飛び回り、リボーンが極寒を思わせる眼差しで睨みつけていた。
「あ、あ〜〜っと、おじさん! お願いしますっ」
「おうよ。じゃ、古典的にハイチーズでいいんだろ?」
「おう!」
 山本が腕を掲げる。
「ツナ、合図よろしく!」
「え、オレ?!」
「賛成ですよ! 十代目こそトリを飾るに相応しい!」
 獄寺が両目をきらきらとさせる。骸と反対のところで、雲雀恭弥が腕組みしたまま瞑目していた。
「何でもいいから。早くしてくれない?」
 ひええっ。青褪めたところで、京子が綱吉へと笑いかけた。
「ツナ君、よろしくね」
「う、……ウン」
 骸は目を細くしならせた。疑問があった。その疑問が、何を意味するのか、深いところまでは考える気にはならなかったが。……綱吉は兄と言ったが。
(兄なら。あのあいだに入っていける……とでも)
 後ろから見える、彼の首筋が浅い朱色に染まっていた。
 何か。何か、じわりとしたものが胸にこみ上げる。その正体がわからないまま、カモメの鳴き声に誘われるようにして目を閉じていた。
(馬鹿ですね、僕も)
 綱吉が緊張しながら喉を張りあげた。
「じゃあ……、せーのっ!」
 パシャッ!
 両目にフラッシュを浴びる。この右目の文字がはたしてフィルムに映るものだろうかと、脳裏の片隅で考えたところで綱吉に呼び止められた。
「写真、できたら骸さんにも渡すね!」
 満足したのか、上機嫌で満面の笑みがある。
 軽く頷きながら、骸は昏い微笑みを返してみせた。





おわり





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