後日談
『孵卵』 (かえらん)
2.
目蓋を閉じていても、朝日が両目を焼いた。
触れていたはずの温もりがない。薄っすらと目をあければ、目の前に、人型のくぼみがあった。彼はカーテンを開け放って出て行ったらしい。骸が耳を済ませると、がちゃがちゃと朝食の準備をしてるらしい物音がする。
(やろうと思えばできるんじゃないですか)
家事とか炊事とか、身の回りのことは一切できないらしいと気がついたのはイタリアをでてすぐだったように思う。
まあ、彼の生活してきた環境を思えば無理のないことで、骸は気にもしなかったが。
だが、今は、その音色を聞くだけではらわたが煮えくり返るような気になる。
寝室に戻ってくる気配がないのを見て、力の入らない右腕を引き寄せた。右目のまわりに五指を突きたてた。痛みは、ない。ただ気が遠くなる。酷い空虚感がする。
わかってる。これじゃ逆恨みだ。
脳裏で声にもできなかったが、骸は静かに寝返りをうった。
(…………)シミのついた天井。ネズミがどうとか、綱吉が言っていたような記憶が微かにある。トタトタ、たんたん、屋根裏部屋を駆け抜ける音がつづいた。
「骸さん。はい。また同じので悪いんですけど」
綱吉が唐突に寝室に戻った。骸は背中を丸め、右腕をベッドに落とした。
小脇に抱えたイスにミルクとボウル皿を並べる。そんな予感はした。介護でもするように、綱吉に肩を取られて上半身を持ち上げた。わずかに怒りを込めた眼差しを返されて、それは微かに眉根を寄せただけだったが、綱吉は怯んだように固唾を呑みこむ。
「……はい。体力落ちちゃうよ」
こういう食事で体力が回復するとでも……。
もやもやしながらも、骸は綱吉に手をとられてスプーンを握らされていた。
何も食べる気がしなかった。呑む気も。体が干乾びていくのを感じたが、それは、寧ろ歓迎すべきことのように思えた。すくなくとも、右目が衰弱を歓迎していた。さっさとこの茶番を終えろと、暗に責められているように思えて、骸は唇を食んだ。
「……口をあけないと食べれないよ……」
疲れたような声で、綱吉がうめく。
「…………」薄く、開けると強引にスプーンが突っ込まれた。
骸は無感情に綱吉の腕を見下ろす。味はしない。ゴムでも口に含んでるような気分になったが、綱吉は、ひたすらに呑み込むのを待っているようだった。
「…………」
(僕は、右目を裏切った)
君のせいで。封じたはずの言葉が、不意に脳裏にのぼる。
途端、ずきりとしたものがこめかみを突付いた。僅かに目尻を歪ませる。ごく、と、飲み込むと綱吉はすぐに二口目を食べさせてきた。健気ですらあるやり方に、指先が麻痺したように動かなくなっていく。骸は、人に優しくされることになど馴れていない。混乱は無意味に過去をほじくりだしていく。綱吉が、スプーンを差し出しながら、自分も同じように口を軽くあけている。
「…………」何口目か。飲み干して、突きこまれて、飲み干して。
それを繰り返しながら、骸は目を閉じた。全身がぐったりとする。満足したように、綱吉が呟くのが聞こえた。
「全部食べれるじゃないですか。よかった」
「…………」
「? 骸さん。おかわりでもしたいんですか? はは。しばらく食べてなかったんだから仕方ないよ。久しぶりに食べるとお腹にくるだろ」
食べ終えたことがよほど嬉しいのか。骸は、無邪気に弾んだ声音から目を逸らせるようにそっぽを向いた。何ヶ月か、日本にある沢田綱吉の実家に住んだことがあったが、綱吉の態度はその頃の生活を彷彿とさせる。
馴れないが、それを好む一面があることは認める。
けれど、怒りめいた感情も込み上げるので、骸は途方にくれるときもあったのだ。
過去、常に抱いていたふつふつとしたものが消え去ったわけではない。今日までに受けた恨みを忘れてもいなければ、そうした苦悶から生み出したはずの自らの誇りと、意義と意味と、殺意によくにた憤怒を忘れてもいない。忘れてはいなかったが、そうした意味ある存在は、今では永遠に失われたことに
(なる)(なってるのに)唇がぱくぱくとする。ようやっと零れた声は、上擦って、熱っぽかった。
これが彼でなければ。そうした思いを味あわせるのが、同時に愛しいと思う彼でさえなければ。即座に。原因を取り除いて、八つ裂きにして、元にいた道に戻ることも容易いだろうに。額に痛みが沸き起こって、骸は微かに眉間をしわ寄せた。
「綱吉くんが口で食べさせてくれるんなら、食べたい……」
「は、はぁっ?!」
体がうまく動かない。
右目だけが、涙を流しそうだった。酷くジクジクとする。
綱吉は、信じられないように骸の唇を見つめていた。笑ってやる気力がなく、呆然としたまなこで見返すと、怖気づいたように彼は口角を引き攣らせた。
――しばらくは、まだ、もっとしばらくは昔を思い出すのは控えた方がいい。
(それはわかってるはずなのに)一番、これだけは裏切らないと思っていたものを裏切った。
心臓の高鳴りが、やたらと大きく耳に響く。ぞくぞくしたものが背筋を這い上がってくる。気持ちの悪さで、綱吉にもたれかかると、彼は派手に悲鳴をあげた。
「ちょっと?! 骸! オレはそんなことしないよ!?」
「…………」「って、このタイミングで黙り込むかッ」
感慨がないままに綱吉の胸に顔を埋めて、骸が、乾いた声をだした。
「少しだけですから……。僕は、だいじょうぶですから。君がいれば、それだけで、……本当は、たまには、君をきらいになったりもするんですけど……。でもぼくは」
「何……、骸? 何なんだよ……」
戸惑うような声を無視して、骸は思考を手放した。
結論は、毎回のように同じになるというのに。それでも、明日が来なければいいと思ってしまう。眠りにつくように、鼻腔で息を吸い込んだ。ところで、綱吉がうめくのが聞こえた。
「不安なんですか? オレも大丈夫ですからね。大丈夫……。ここにいる。骸がしばらく寝込んでてもちゃんと生活くらいできるから」
「…………」ぼう、とした瞳が瞬きをする。
思考を意図的に止めた。そのはずだ。
(すき。君さえいれば)
かすかに、搾りだすように囁くと、綱吉は口角を引き攣らせた。
「わっ、……知ってるよ。それは」寝返りをうって仰向けになる。綱吉が脱兎のごとくリビングに逃げていくのが見えた。天井裏は、いまだにパタパタ音を立てている。力ない仕草で、気だるげに骸は右目を抑えた。すき、と。一人の人間が好きと、それだけの想いで生きていけるほど甘い人間になった覚えはない――、けれど。
「……ねずみ、ですか……」
駆除しておけば、彼は喜ぶんだろうか?
おわり
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