後日談
『孵卵』 (かえらん)
1.
都市部から離れた地方であるため、英語もろくに通じなかったが、なんとか食べられる物を買い集めてきた。
綱吉は、小さく深呼吸をしたあとで鍵穴をぐるりと回した。
「ただいまー……」
二部屋。寝室とリビング、後は風呂場と洗面所があるだけだ。
部屋の真ん中にテーブルがあった。ホワイトの食器が上におかれて、隣にはミルクがある。
荷物をおろすと、綱吉は骸の背後へと回り込んだ。オートミールもミルクも、自分がでかけてから――、一時間ほど前だ、少しも減っていないように見えた。
「食べないと体が保たないよ。口に合わないわけじゃないだろ」
「…………」
虚ろなオッドアイは、テーブルの一角を見つめていた。
「骸。食べようよ」
牛乳のビンを冷蔵庫につめる。
野菜をつめ終え、床下の貯蔵庫に保存食をつめ始めたところで、食器が触れ合う音がした。
のろのろした動作でスプーンを持ち上げ、半開きの唇のあいだにスプーンを押し込んでいる。綱吉は眉根を寄せた。イタリアをでて、しばらくは意識をしっかりと持っていたように見えた……。少なくとも、立場は逆だった。虚ろな綱吉を引っぱっていったのが骸だったはずだ。はずだが、彼がほとんど喋らなくなってから今や三日が過ぎようとしている。
「…………」赤い瞳と青い瞳は、空虚な色を乗せていた。
鼻腔でため息をついて、綱吉は床のタイルで貯蔵庫にフタをした。
それほど長く滞在するつもりはない、と、アパートを選んだときに骸は言っていたが。当の彼がこの状態では、数ヶ月は滞在する覚悟でいたほうがいい。どうなるか、わからなかったので、缶詰をたくさん買ってきた。腕の関節も、指の内側もヒリヒリしていて火傷したように熱くなっていた。
(力仕事とか料理とか、ぜんぜんできる自信ないんだけど……)
この先の生活を思うと溜め息がでそうになる。少し前までなら、家事炊事のできない自分に不安を覚えることはなかった。周囲には助けてくれるものが何人も、あった……。
両手を水で冷しながら、綱吉は唇を噛んだ。
「骸さん。やっぱりオレにも少し言葉教えて下さいよ。ここ英語通じない」
助けを求めるような声になっていた。
振り返って、しかし、眉根を寄せた。オートミールの皿からスプーンの尾っぽがはみ出ていて、周囲に白っぽい液状のものが飛び散っている。骸は背中を丸めたままで沈黙していた。
「どうかしたの?」
心臓が痛む。片手で自らの胸を諌め、もう片方の腕で――水滴がついていた。骸の、真っ黒いシャツの肩口を湿らせたが、彼は反応もなく虚ろに足元を見下ろしていた。
「食べないの? 食べたくないならそう言ってよ。骸。何か言ってよ」
揺さぶるが、意味がない。悟って、綱吉はオートミールを見下ろした。もう、これは食べないだろう。諦めと共に、腕を背中に担いだ。
やろうとしていることがわかっているはずなのに、骸は自力で歩こうとしなかった。
ずるずると引き摺ること十分、汗の玉を浮かべながら、綱吉はベッドシーツに彼を突き飛ばしていた。スプリングがぎしぎし軋む。埃塗れのタンスと新品のベッドがひとつあるだけの部屋だ。間借りしたアパートで、唯一、骸がサイフのヒモを許したのはこのキングサイズのベッドだけだった。
突き飛ばされた格好のまま、体を曲げたまま、魂まで弛緩させたように身動きしないままで、骸が僅かに片目を見開かせる。うすく、囁くように唇が動いた。
「……」「なに?」
赤い瞳はシーツに押し付けられている。青い瞳だ。
「骸……? オレはまだ寝ないよ。長く滞在するなら、ここ、少しくらい掃除しないと……」
ゆっくりと、横顔を剣呑にさせる。寝入るように目を閉じて、骸は寝返りをうった。
その後頭部を苦渋の面持ちで見つめて、綱吉は部屋をでた。とりあえず、クモの巣を取ってネズミのフンを片付けるくらいのことはしないといけなかった。
(住むとこの旅費はケチっちゃだめだなぁ……、衛生大丈夫なのかここ)
不覚にも数匹のネズミと遭遇し、追いつ逃げつつした挙句に、毒餌を設置して綱吉は仕事を終えた。一人で夕食を食べ終えて――火を使う自信がなかったので、またオートミールを食べた――、寝室に戻る。
骸は、いまだに背を向けたまま寝転がっていた。
「…………」(着替えてないけど……、いいか。多分明日もああだし)
青い斑点模様のあるパジャマに着替えて、ベッドに膝をついた。
キングサイズのベッドだ。フチにいる骸と、距離を開けて寝転がる。布団を手繰り寄せ、一息をつこうとしたところでギクリとしていた。赤く光るものが視界に混ざったのだ。加えて、手首に人の体温を感じる。
寝返りを再びにうって、骸が綱吉の手首を掴んでいた。
「な、なに?」
「…………」
感情のない、静かな瞳がある。
半分ほどしか目を開けていないまま、薄く唇をあけて、骸が掠れた声をだした。
「君は、このままでいいって」
死にかけた人間が、強引に喉を震わせているように思えて綱吉は上半身を飛び起こしていた。手首に絡んでいたものには、本当に、力がこもっていなかった。簡単にするりと解けてしまう。
それにも気がついて、綱吉が愕然として骸を見つめた。
「本当に……。芯から……このままでいいって思って」
言ってから、自分で驚いたように眉根を沈痛に寄せ合わせる。素早い二の句が後を引っぱった。
「ちがう。完全にはそうじゃないんですけど。むしろ、いや、ただきみは――、君さえ。見失いたくなんてなかった。でないと僕は生きてる意味が――、どうして。なんで一緒にきたんですか? そんなことを……、一体……」
「骸」喋ればしゃべるだけ、追いつめているように見えて綱吉はわざと横入りをした。
ひたすら喋らなかった彼が、ようやっと喋ったので、それは少しばかり不本意でもあったし――、同時に、なかなか喋らなかった理由を垣間見た気もするので、綱吉を複雑な気分になりながらも固唾を呑んだ。
尋ねるのに、なぜだか冷や汗が浮かぶ。
「いいよ。無理に言わなくても。つらいんだろ? おまえも」
「……ぼくは……、なんてなのればいいのか」
わからなくなりそうで。
呻き声をあげながら、ゆっくりと腕を伸ばしてくる。
僅かに体が震えた。頬に添えられた指先には一欠けらの力もない。触れただけのキスだった。
「脱ぎなさい」指が落ちて、襟首にかかる。綱吉は静かに骸を見返した。
本意はわからなかったが。襟のボタンを外そうと、覚束ない動きを繰り返す指先にまで視線をおろす。自ら、その骸の手のひらを追い払った。
ぷつ、と、幾度かボタンを鳴らした後で、手早くパジャマの前を開け放ってみせた。
「これでいいの?」
「…………」
色素の薄い指先は、今度は自らの襟首に触れた。
親指と中指とが、一つ目のボタンに触れる。そのまま動かなくなる。ため息をついた。
「脱がすよ。それでいいんだよね」
「…………」相手の胸元に潜り込み、光沢を放つ漆黒色のボタンに触れる。
夜の冷気に染まって冷えていた。開いた胸元にも冷気がはいりこみ、僅かにぶるりと背筋を震わせ、全てのボタンを外し終える。華奢だが、しっかりと筋肉のついた体だ。このところの無気力ぶりがウソのような体躯だった。
誉めるように、微かにオッドアイが微笑む。
背中に、直に人肌を感じて、綱吉は喉を緊張させた。
「……骸さん?」
互いに露わとなった肌が触れ合っていた。
どくどくとした鼓動を胸に感じる。これなら、恐らく骸も綱吉の鼓動を肌で感じているだろう。混乱しながら、パジャマの下に腕をもぐらせ、抱きしめてきた相手の様子を窺った。
「一体、何をして?」これでは、まるで抱き枕のようだ。
本当に寝入るつもりらしく、オッドアイが既に閉ざされている。低い囁きが聞こえてきた。
「しばらく眠らせて」(眠ってなかったの?)
ほとんど一日中ベッドにいたのに。
胸中だけに疑問を押し留めて、綱吉は閉ざされた両目を見つめた。
よくわからないが。ここ最近、彼が頻繁に遠い目をして右目をいじるのに気がついてなかったワケではない。
(何て名乗っていいのかわからない……?)茶色い瞳を細める。ひくり、と、指先が動いた。戸惑いながら、骸と同じように、彼の素肌を抱くようにして背中に腕を回した。何か、慰めの言葉をかけなければいけないような気に、なる。けれども奥歯を噛んでいた。
(骸さんは、骸さんだと思うけど)
(それを言うのは無理だよ。オレには)
そんな慰めで、彼が納得しきるとは綱吉には思えなかった。
かわりに、極めて事務的な言葉を告げた。ネズミがいるから駆除をしようと。
「…………」返事はない。かすかに、寝息が聞こえる。冷えた体に抱かれ、冷えた体を抱きしめながら、綱吉も睡眠の訪れを待った。
(いつか、言えるようになるのかな)(みんなのことも、笑って言えるように)
取りとめのない思考が、繰りかえされる度に指先が冷たくなる。手足から力が失われていく。相手の地肌の温もりが、まるで慰めるようにピッタリと寄り添っていて涙がでそうだった。朝からずっと、閉ざしたままのカーテンが骸の向こう側に見えた。その奥には、星空が広がっているに違いなかった。
おわり
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