ひばりのたまご
「偽りの鳥」
けたけたけた、ぴー、ぴちゃぴちゃ、ぱきっ、……ピチャン。
幻想のジャングルに耳を澄ませると、色々な音が聞こえた。
最初の日から比べると、綱吉にも耳を傾けながら平静を装うくらいの余裕ができた。サルの囃子声だろうか、鳥の鳴き声だろうか、湿気が貯まって水滴に変わったのだろうか……。
ともかくも、高校の教室で思いあぐねるにはあまりに異常な思考にすべてを囚われていた。頬杖をついて、綱吉はぼうっと雲雀恭弥を見つめる。
恭弥は窓際だ。廊下側の綱吉とは正反対の位置。
イスの背もたれに体重をかけて、両脚を伸ばして、彼は窓の向こうを見上げる。
うごうごと蠢くのは深緑色の植物のつるだ。恭弥の足元にあるモヤと絡むようにして、窓際一帯を這いずる。
綱吉は額を手の甲で拭った。
汗が、どんどん出てくる。
ジャングルの熱気に当てられて生理的に発汗しているのか、体の内側から脂汗が出ているのか、もう自分ではわからない。
「問い七、沢田。やってみろ」
「は、はい」
黒板の前に向かうも、今更、授業に集中なんてできなかった。
ジャングルの空気が変わる。ざわめきが濃くなった。
(み、見てる。ヒバリさんが)
チョークを握る手が震えた。
「沢田? 気分が悪いのか」
青い顔色と、湿ったシャツとを見て、教師が声をかけた。綱吉は頷いた。
ガタン、と、席を立つ音がした。
ジャングルの幻さえ無ければ教室はシンとしている。
雷が落ちた顔をする教室の一同を置いて、彼は大股で教壇に踏みだした。静かな調子で言って、綱吉の二の腕をつかむ。
「綱吉。また調子が悪いんだね。おいで。保健室、連れて行ってあげる」
「保健委員はきみか?」
教師が尋ねた。担任ではないから知らないのだ。
もちろん恭弥は保健委員ではない。だが指摘する生徒もなく、綱吉も言わなかった。恭弥は、存在感もあってハッキリとした性格なので、クラスの空気を一瞬で変えることができる少年だ。今は、教室中が、恭弥がそうしたいならそれでいいんじゃないかというムードだった。
(ヒバリさん)
胸中で名を呼びかけて、しかし、声にはできずに固唾を呑んだ。
彼は、保健室の扉の前で、足を止めた。
「どう? 少しは慣れた?」
「何がなんだかわかりません……。何なんですか。この幻は? ヒバリさんはいつもこんなものを見てるの?」
「うん」
恭弥は簡単に肯定する。
信じがたい思いで綱吉は顔をあげた。こんな、度を超した幻想が日常的に見えていたら、自分なら気が狂う。異常すぎる。
足首に絡みつく緑のつるを避けながら、綱吉は顔をしかめる。
「おかしいよ。何ですかこれはっ! 幽霊? ヒバリさん……。教えてよ。はぐらかしてばっかりだよ! いい加減に答えてくださいっ。この変なの全部、ヒバリさんのせいなんでしょ?!」
「森。僕の森なの。これ」
柔らかい手つきで、肩の上でクネクネとしていた緑のつるを撫でてみせる。
綱吉は強く首を振った。
「同じことばっかり言わないでよ!」
「古い森なんだ」
「森って、どー見たってジャングルですよ! それも普通のじゃなくて……、変だよ。オレ、こんな光景を知りません」
鼻声になった。恭弥は目を細める。
「あなたは、何者なんですか?」
その質問を待っていたかのように、さらにグッと目を細めた。平たく開いた瞼の中にある黒目は、まるで、鳥か昆虫か獣に見えた。
背筋を昇ってくるゾクゾクしたものを喉で堪えて、綱吉は繰り返した。
「あなたは人じゃない。幽霊でもない。違うよ。違う、ゼッタイ違う……」
直感的なところでの判断だった。
人としての本能かもしれない。
目の前の少年が、自分と同じラインにいる生き物とは綱吉には思えない。
恭弥は、うれしそうな声音で誘った。
「知りたいんだね」
格好良くてきれいで面白くて変わった転校生。
背中にジャングルの幻想を背負った人以外の何か。
好奇心、いや、それ以上の――、ふと、それは何だろうと綱吉は思う。けれど好奇心以上の何かが自分を突き動かしているのは確かだと思った。
「はい」
「教えてあげない」
「だああっ?!」
思わず保健室の扉に両手をついて苦悶した。
「当ててみせて。一回だけだよ」
「え?」
その声色と表情に意気を挫かれた。
雲雀恭弥は、眉を八の字にしてこちらをじっと見澄ます。寂しげで、胸が締めつけられる。綱吉は困惑した。
「……あと二日だ」
低い声で呟いて、踵を返していく。
保健室の中から、誰かいるのかと問いかけがあったのはその直前だった。
◇◆◇◆◇
翌日になる。
放課後、教室にいない恭弥を探して綱吉は廊下をうろついていた。
「おーい、ツナァ」
「委員長?」
と、眉をしかめた。薄いモヤが委員長の体を覆っている。幻想のかけらだ――、綱吉は首を傾げた。
「ヒバリさん、どこにいるの?」
委員長は後ずさりした。その拍子にズレた眼鏡をすぐさま直す。
「よ、よくわかるな。野外ステージで一緒だったよ。予行練習が終わったんだ」
「あ、そっか。それがあったか」
「おいおい、しっかりしろよ。ヤマト祭は明日だぞ」
「なんだよ。ボケてるわけじゃないよ」
苦笑いが漏れる。祭りに向けて、綱吉も忙しいのは事実だ(昨日の放課後は、リボーンや部活の皆と一緒に、ヤマト祭の告知広告を新聞配達所に届けたり町内掲示板に貼ったりしていた)。雲雀恭弥に意識を取られがちなのも事実だが。
(明日か。ヒバリさんが言ってた期限だ。当ててみせて、って……)
といっても、恭弥が何者であるかなんて検討がつかないし、駆け引きの全貌が綱吉にはわからなかった。
(ヒバリさん。何を考えてるんだ?)
委員長も戻ると言うので、並んで歩いた。
眼鏡を指で触って、言いにくそうに、
「ツナ。ウワサがあるんだが。ヒバリくんと恋人なのか?」
「……まさか!」
目を丸くして、綱吉が叫び返した。
冷や汗が浮かんだ。
「ちょっと二人でべったりしすぎというか……」
「ヒバリさんは転校生だから慣れてないんだよ。まだ」
言いつつ、さらに汗が出る。
(キスされたっけ)
今では、単に、視認できる幻覚を強化するためだけの手段に思えるが――、思い出してきて、反射的に親指のツメで下唇を掻いていた。
恥ずかしさと悔しさの入り交じった奇妙な心地だった。
紅潮した綱吉を見て、委員長が慌てて取り繕った。
「いや、差別するわけじゃないぞ。男子校だしな。美少コンあるしな。そーゆーヤツも他に知ってはいるしさあ」
「違うよ。そんなんじゃない」
声を尖らせ、強く言う。
「ヒバリさんを勘違いするなよ。気高い人なんだから!」
「へー?」
まだ疑わしげだったが、綱吉は放って置くことにした。
肩かけベルトを直して、フンっと鼻で息をする。
『ヒバリさん、待ってください。オレも行きます』
『遅いよ』
『ヒバリさん。また弁当ないんですか……。買い出し行ったらどうなんですか』
『ん。面倒。綱吉、行ってきて。待ってるから』
『ヒバリさーん?!』
『じゃあ、一緒に行こう……』
とか、そんな会話を今日までにしてきたからだろう。妙なウワサがたつのは。ヤマト祭に向けての準備期間、思えば、新聞部での活動以外は恭弥と行動した。
(そういや、ヒバリさん、オレがヒバリさんの名前を呼んでばかりとか、言ってたっけ)
もう数ヶ月も昔の話な気がするが、綱吉はイライラとした。
(ヒバリさん。当てろとか言ったりキスしたり、オレをからかってるのかな)
それなら、なんだか反抗的な気分になってくる。
「ヒバリくんと気が合うのか?」
との質問に、綱吉は勇んで返した。
「そーでもないよ!」
校舎は出た。夕暮れ色に染まった坂を登りながら、高いところにある講堂を見た。その隣に臨時建設された野外ステージがある。鉄筋の骨組みは、夕日に当たると鈍色になった。
「おまえらを羨ましがってるやつは多いと思うけどな……。実はさ、ヒバリくんに一票いれたよ」
「あ、マジ?」
綱吉は、委員長に意識を向けた。声が弾む。
「だよね! ウチのクラス一だよね。転校してきた時から、一人だけ、すごい堂々としててオーラが違ったもん――」
そこまででドキリとする。恭弥の正体を当ててやろうとしているのだ。あの化け物じみた少年の正体を。彼に惚れ込むばかりではいけないという気がする。
表情を硬くしたが、沈黙に頓着せずに少年が呻いた。
「少なくとも向こうはツナのこと好きに見えるけどな」
「え」
眼鏡奥の黒目がすぼむ。綱吉を見る。
「だってオレ、お前を呼んでくるよーに言われたんだぞ」
「……え?」
「綱吉!」
ステージの方から声がした。
「よかった。まだ学校にいたんだね」
タオルを首に巻いて、制服の上着を小脇に抱えて恭弥は最前列のパイプイスに座っていた。イスの背もたれに片腕をかけて、こちらに来いと手招きしている。講堂隣の広々としたスペースが、今では特設のステージとパイプイスに埋もれていた。
「ヒバリさん」
歩き出しつつ、綱吉はこそばゆい思いに囚われた。
背中に委員長の視線を感じる。
ステージでは、他のクラスが練習を始めているが、彼らからも視線が注がれている気がした。
目の前に立つと、幻想はますます濃度を増すようだ。
ニコリとした途端、彼の背後から、何かの生き物がバタバタと飛んでいった。目で追えば、夕焼けの赤に混じって消えた。
(どんどん現実離れしていく……)
恐怖で竦んでいるのか、慣れてしまったと達観しているのか、尽きることのない幻覚に絶望したのか。あるいは全ての感覚が混じるのか。手足の震えに綱吉は動揺する。
言うつもりだった言葉をうつらと告げた。
「一緒に帰りますか?」
「僕もそう思ってた。行こう」
学生鞄を取って、恭弥が立つ。
慌てて、イベントスタッフのクラスメイトが駆け寄ってきた。委員長も加わって、恭弥と何やら話し込む。
その会話を聞き流しつつ、綱吉は辺りに立ちこめた幻想を見つめた。
この中に、雲雀恭弥の鍵になる何かがあるのだろう。
パイプイスの間を白いモヤがくぐる。のたうつ植物の管が、芝が、枝葉が、熱気を伴って会場を包み、四肢にも絡みついてくる。ざわざわと多様な生物の気配を感じる。
(ヒバリさん、いつもこんなのが見えてて、よく平気な顔をしてられる……)
思ってみて、そうでもないなと思い直した。
態度ではさほど拒絶してなかったよう感じたが、口では、雲雀恭弥はあからさまに他人を拒絶していた。
(こんなものが見えるから?)
恭弥との距離が近づくにつれて、幻想のジャングルは活発に、大きく、浸食する面積を広げていく。もしかしたら、恭弥にとってはこの学校生活も密林の只中に感じられるのかもしれない。それは不便だろうな、と、思った。
(――密林、か。密林で生活する生き物って……なんだったっけ……)
「綱吉?」
「……あっ?! は、ハイッ」
「何ぼけっとしてるの。行くよ」
綱吉の右手を取ると、歩き出す。
この場所は高校の敷地内でもっとも高い場所だ。町が見渡せる位置でもある。
嬉しげに黒目を細めて恭弥が言う。
「今日は、雨が降らないでよかったね」
「ヒバリさん、空が好きですか?」
よく見ている。
「うん」
ゆっくりした足取りで、坂をくだりながら恭弥は肩をすくめた。口角はクスリとしている。
「今日までの空の色をね、すべて、覚えておきたいんだ」
「はあ……。夕日もですか」
「そう。明日も晴れるといいよ」
恭弥がそう言うなら、晴れるだろうと綱吉には思えた。
少しだけ前を行く彼の後ろを、モヤと、緑の塊が追いかける。時折り、鳥のような薄闇が飛び出したり、巨大な白い影がのそのそと歩いてついてくる。それは見えなくなるほど薄くなったり、あるいは、濃くなったりする。この影はジャングルの断片や緑のつるとは違う気がした。とにかくでかい。油断すると、たまに、校舎と同じくらいのサイズに伸びていたりする。
(このでっかいの、何かの、生き物みたいだな)
色と輪郭が薄くて、正確な姿形は綱吉にはまったくわからなかった。
「…………」
冷たい現実の風と、生暖かな幻想の風とが混じって、皮膚と髪を梳いた。
なんだかんだで、明日で恭弥と出会ってから二週間目だ。
感慨深いと綱吉は思った。
奇妙で、面白い友人ができたものだ。自覚しない内から喋った。
「ヒバリさん。どこか、寄り道していきませんか?」
「寄り道?」
恭弥がふり返る。
数秒としない内に、
「どっかに行くより、うちに来ない?」
さりげない言い方だったが、インパクトがあった。
綱吉がギョッとして恭弥を見上げる。
校門は出た。
親指で、左側の道を示されて、何度も首を縦にした。
もしかしたら、幻想を見せられてから、雲雀恭弥は鳥か仙人のようなものだと無意識に信じたのかもしれない。
アパートに通されてから、綱吉はこれを自覚した。
(何考えてんだ。ヒバリさんにだって生活があって当然なのに。カスミになれるわけじゃなし)
妙な気まずさを覚えた。侮辱した気になる。
暗闇を手探りして、パチリと電気をつけると、恭弥は靴を脱いだ。
「? どうしたの。入っていいよ」
「は、はい。お邪魔します」
「てきとうに座ってて」
狭い。一人暮らしをしている学生の部屋だ。
ベッドに腰掛けて、嘆息した。
風が吹いている。アパートの十階であるためか、カーテンが薄いためか、どんどんと吹き込んできて室内は寒い。でも恭弥の引き連れるジャングルの蒸し暑さがあるから、プラスマイナスはゼロだ。
こぽこぽ、と、緑茶の用意をすると、恭弥は湯飲みを差し出した。
「飲む?」
「日本茶ですか」
「うん。それが好き」
床にあぐらを掻いて、壁に背中をつけた恭弥だが、ざわざわ蠢くジャングルにもたれかかったように綱吉には見える。
「物はないけど、ゆっくりしていってよ」
「……はい」
フローリングの上には何もない。ベッドと小テーブル、棚が二つと、それが目立つ家具だ。と、大きい方の棚に目が留まった。
恭弥が電気を消してもいいかと聞いた。
「え?」
本のタイトルにある法則性に気づいて、ハッとしたので、綱吉は呆けた顔を返した。
そうこうしている内に、部屋は真っ暗に変わる。
(……まだ返事してないんだけど!)
胸中だけで引き攣り、暗い中を歩く人影を見つめた。彼は片手でシャアッとカーテンを流した。
薄い闇は、まるで光って部屋に流れ込むよう思えた。
夕日が沈んだばかりで、外の色は、まだ少し明るい。もちろん暗いし宵の闇とも言えるのだが、室内がもっと暗いから、あちらのが明るく見える。
ジャングルが翳る。綱吉は微かに怯えた顔をする。
朗々とした声は闇に映えた。
「今日は月がきれいに出ると思う。見ようよ。ご飯も食べていくだろ」
「ヒバリさん、こんな暗い中で動いて大丈夫なんですか」
「僕は慣れてる。懐中電灯はそこだよ」
棚の一角を指差され、ついでに彼は台所に向かうので、綱吉は面を食らった。
雲雀恭弥。
普通の人と同じに、家に住んで生活を営んでいるが、常識が大分異なっている気がする……。
薄い闇の向こうで、彼は確かに間違いもなく行動できていた。台所の準備をしている。
「あり合わせでいいよね」
「ヒバリさん、懐中電灯、借りますよ」
「うん。この部屋にある物は、好きにしていいよ。何を見ても何をさわっても。綱吉が思うようにして」
ふと、それが目的でココに呼ばれたのではないかと思えた。懐中電灯を片手に、棚の本を覗き見ようとしたところで、タイミングが良かったからかもしれない。
(ヒバリさんは……。よくわかんないな)
カチンと懐中電灯を点した。
アパートなのに、ジャングルの熱気に茹だり、むせ返るほどの生物の気配にとり囲まれて、探検家の気分になってくる。
鳥獣類に関するタイトルと――、学校で使う教科書類が棚にある。でもそれだけじゃない。文明の滅亡とか、衰退とか、
「恐竜は……?」
恭弥に気づかれない程度の小声で、タイトルを読んだ。
「恐竜はネメシスを見たか」
よくわからない。まだタイトルはある。なぜ、絶滅したのか?
一冊を抜き出して、綱吉はベッドの足に背中を預けた。懐中電灯を逆手に持ってページをめくる。
(かつての覇者は、なぜ絶滅したのか……)
と、そんな序文から始まっていた。
小難しい文面で、長ったらしくいろいろと書いてあるので、五分もしない内に目次まで飛ばす。目を引く見出しがあった。
「恐竜の……進化?」
両目をぱちくりさせた。
ジャングルの熱気を思い出して、上着を脱いだ。汗を拭った。懐中電灯を動かす。黄ばんだ用紙が、丸く縁取られて闇に浮き上がる。
呼吸が荒くなっていく気がした。綱吉は鼓動の速まりについていけずに喘ぐように胸中にうめく。
(空の覇者は、かつての覇者の末裔とする学説がある。直に定説と化すだろう。じゅー……きゃく、類? の、デイノニクスや……。あ?)
ページをめくる内に、図解を見つけた。
これが一番わかりやすかった。恐竜類と鳩が矢印でつなげてある。
(鳥と、恐竜――)
絶滅を免れた一部の恐竜は鳥に変わって今日を生きる。
大体の論旨を理解すると、しばらく、思考が停止した。何かの急襲にあって放心した心地だ。
ジャングルから暑い風が吹く。
けたけた、と、鳥だかサルだかわからない生き物の声。
緑のつるが蠢いてフローリングを這う。
(テレビで……、恐竜の特番、見たことがある。ジャングルみたいだった……。あの時代は、確か)
恭弥は「古い森なんだ」と言っていた。
目に引っかかる一文がある。
太古の時代、そうだ、と綱吉は思った。
暖かくて湿った森。太古の森だ。この森は白亜紀の頃のものだ。
コトン、と、陶器が音を立てた。
森の音色とは明らかに違う。震え上がっていた。ふり向けば、暗い大気に己の影を混ぜて、雲雀恭弥はテーブルに食器を並べていた。ほとんど反射的に、本能的な恐怖感に駆られて懐中電灯を向けていた。
驚いた様子もなく、彼は、白い光に顔を浮き出されたまま、小さく口角をあげた。
「おもしろい?」
「……ひ、ひばりさん……」
心臓が、ドッドッドッ、と、早く動く。
「…………。一回だけだよ。まだ何も言わないで」
フォークを皿に添えながら、恭弥は静かにささやく。
彼が何を言っているのか、すぐには思い出せなかった。一回だけ、当ててみせてと、そんな話になっていたと合点したのはテーブルに引っ張っていかれてからだ。簡単な野菜炒めは、油をたっぷりと使って美味しそうだ。
彼はガラリと態度を変えた。
「人の家のもの、勝手に見ないでくれる?」
「え?!」
「これはもうおしまい」
本と懐中電灯とを奪って、棚に戻した。
綱吉はもう混乱を留めることができなかった。
「ヒバリさんはどこからきたんですか」
「どこから転校したってこと?」
「そ、そうじゃなくて、もっと……深い部分の……」
何て表現すればいいのかわからない。
苦悩から眉間にしわが寄る。恭弥は微かに嘆息した。
ジャングルがざわついて、グッと二人に近づいた。恭弥は黒目で辺りをうかがう。
「僕はあんまり喋れないんだ。聞いても無駄だよ。綱吉。明日にしよう……。今は、月がきれいじゃない?」
言われてみれば、いつの間にか、月が雲間に出ていた。
「僕はさあ、」
恭弥は月をまっすぐ見上げる。
「諦めていたんだ。ホントはくだんない行事にも参加する気なかった。群れるのはイヤだし、意味ないし……」
「ヒバリさん。オレにヒントをくれてるんですか? わかんないよ。もっとちゃんと口で――」
「綱吉だよ」
「は?」
「綱吉が、背中を押してくれたから、こうしてるの。うん」
クスクスとして、恭弥はお茶を飲んだ。
「悪くないかな。君たちは楽しそうだね」
「ヒバリさん……。はぐらかしてばっかりだよ」
「直に、わかるよ」
少しだけ寂しげな声だった。
黒い瞳は憂いを浮かべて夜空を眺める。やがて綱吉を真ん中に映した。
◇◆◇◆◇
町中のお祭り好きが集まって来たような騒ぎになっていた。部活棟から、山高講堂までの坂道を屋台が埋めている。
学生主催のもあれば町内会主催、高校PTA主催のものもある。
「リボーン、あっちのマンゴージュースがいい。二つね、ふたつ!」
綱吉は従兄弟の袖を引いた。
口に咥えた焼きイカをもごもごさせて、沢田リボーンは嫌な顔をする。
「そりゃあヒバリの好みか? あー、アイツまでおごったる義理はねえな」
「カタいこと言うなよ。ヒバリさんはこれから忙しいんだぞ」
腕時計で時間を確認して、ステージの方面を見上げる。今では壇上でライブがやっていた。
ジロリと睨んできたが、リボーンは綱吉の肩を支えて人波に流されるのを防いだ。
「ったく。たまに優しくするとつけあがるからガキはヤだぜ。二つだな?」
「ウンッ。やったー!」
無邪気に喜ぶ綱吉に、従兄弟は嘆息する。
綱吉が書いた記事は、なかなかの反響があった。リボーンは、ご褒美代わりに遊ばせてやると約束していた。
「もう行くのか?」
ジュースを持った従兄弟が、坂を登ろうとするので目を丸める。
「うん。今なら控え室にいるだろ」
「ほー……」
「な、なんだよ」
「オレも行こ。お前とヒバリのウワサ、三年生んとこまできてるんだぜ」
「ぶっ!!」
綱吉は声を引きつらせる。
「そ、そんなんじゃなーい! 何だよ、リボーンまで?!」
「昨日、ウチに電話あったぞ。綱吉が来てないかって」
「あ、あれは、連絡忘れてて……」
「友達の家に泊まったそうだな? ヒバリの家だろ」
「…………」
この少年に隠し事は無理だ。タラリと流れる汗を見て、へ〜、ほ〜、と、冷えた感嘆をこぼしてくるから悲鳴をあげた。
「オレだって友達関係いろいろあんだよっ」
昨日は、狭いベッドで恭弥と眠った。体がくっついたが、いやな気はしなかった。きっと外から吹き込む風が冷たかったからだと綱吉は思う。
ステージ裏に作られたプレハブは控え室を兼ねている。綱吉は遠慮気味に入室したが、従兄弟はそうでもない。
「どーも。ツナが世話になってるな」
それが恭弥を前にしてのリボーンの第一声だった。
「……だれ? これ」
「従兄弟だ。ツナの。ほれ、紹介」
「いたっ。も〜」
軽く髪を引っ張られ、顔をしかめながらも綱吉はリボーンの正体を教えた。
「ヒバリさん?」
これといった反応をせず、雲雀恭弥は、眉間を狭めて口を半開きにしたままで(だれ? これ。と、言った時から表情を変えていない)視線の焦点を綱吉に移す。
なかば本能で後ずさりした。しかし腕は体とは逆に前に出しておく。
「あ、あの。差し入れです。ジュースを」
「…………」
「おい。テメーは名乗らねえのか?」
「……知ってるんじゃないの?」
機嫌の悪い低音だ。なんとなくリボーンと会わせたのは失敗と悟る。反対に、リボーンはこれは面白いという顔をする。
「いとこって?」
恭弥が小声でうめく。
足元から伸びるジャングルが、枝葉を右に揺らして左に揺らした。白い影が間から顔を出した。ほんの数秒で引っ込む。
黒目でうさんくさそうにリボーンを睨んだ。
「僕は、君に用がないんだけど」
「オレもないな」
「そう。じゃあね」
綱吉は唖然とした。
「ちょ、ちょっと二人ともっ。そんなんでいーんですか?!」
「ウワサ通りのやつだな」
「どんな話だか知らないけど、綱吉のいとこだからって僕に関係あるの?」
「ない」
胸を張って、リボーンは綱吉を指差した。
「だがコイツに手ぇだすなよ」
「…………」
恭弥が気配を静める。
控え室がざわめきだしたこともあって、綱吉は慌てて間に割り込んだ。リボーンの胸ぐらを掴んでわめく。
「なんで話を引っかき回すんだよ?! これじゃ誤解が増えるだろーがっ!」
「これでヒバリが優勝すりゃゴシップ記事もいけるかもな。発行部数が」
「おいこらぁあああ?!」
両手をわななかせる綱吉だ。
その肩に手を置いて、恭弥は実に冷えた目つきをする。
「もう一度言うけど、君に用はないよ。リボーン? 覚えておくつもりも、ないよ……。無駄だから」
(? ヒバリさん?)
やたらとキツいことを無意味に言い出したように思えて、困惑した。恭弥は平然とくり返す。
「じゃあね。綱吉にしか興味ないから」
「アツいなぁ」
リボーンはいつの間にかメモを取っていた。本気で記事のネタとしてストックしそうだ。綱吉は青褪める。
「い、従兄弟を売るなよ」
「オレはプロを目指してんだ。売る」
「こらぁあああ!!」
「屋台おごってやっただろ」
「なんかムカつく。出てってくれる」
眉尻をつり上げて、恭弥は出口を指差す。意味ありげな目をしたあげくに従兄弟は退散した。すぐに恭弥がふり返る。
「綱吉。今のと仲いいの?」
「む、昔から、オレの面倒を見てくれてるんですよ……」
「昔から?」
眉をひそめて、恭弥は息をつめた。
「じゃあ、これからもそうなんだね」
「ヒバリさん。リボーンみたいなヤツは苦手だったんですか」
「いや。面白いとは思うけど。でも今は知りたくなかったな」
意味がわからず、綱吉は首を傾げる。
マンゴージュースを受け取り、ストローを唇に当てて、恭弥がうめいた。
「綱吉さあ。僕は綱吉が好きだよ」
「……は?!」
「覚えておいてね」
羽根のようにフワリとした手つきで、恭弥の手のひらが綱吉の頭を撫でる。
足元から浮き上がる白いモヤが、二人の間にも流れたが、薄い厚さだから表情を隠すほどではない。
思わず辺りを窺った――、が、聞かれた様子がないので、綱吉は安堵した。ところが、恭弥の表情には眉を寄せる。
ニヤリとした勝ち気な笑みだったが、無性に不安を駆られた。
「ヒバリさん、オレも好きだよ」
目の奥を寂しげに光らせるからか。
夢中になって呻き返すと、恭弥は目を伏せた。
「うん。綱吉。綱吉の記憶に残るくらいに、きれいなものを見せてあげるよ」
コツ、と、一度だけ額を合わせると、恭弥は司会役に呼ばれて奥の方へ行った。
歓声が上がる。どんな演目をやるのかは事前に聞いていたが、それでも綱吉はハッとさせられた。
雲雀恭弥は、ステージの中央に進む。
鼻までを覆う仮面をつけていた。
ノースリーブの衣装からはみ出た両腕には、広げた鳥の羽を模した刺青がある。両手のトンファーがライトを反射して鮮やかに光る。一年二組に所属する吹奏楽部数人が、恭弥の中華服に合わせた衣装でもって後ろに並んだ。手には笛や太鼓。
太鼓の音から演奏が始まった。
仮面の闘士が武舞をゆるやかに始めたのは五つ目の音色と同時だ。
布靴を滑らせて、恭弥が型を取る。
次第に演奏が緩急を帯びた。
太鼓が打ち鳴る感覚が狭まった。タンタンタンタンと、連続で鳴って数秒、
ハァッ! と、掛け声と共に、ステージの左右から空手部の学生が飛び出す。道着姿。
戦闘の開始だ。
舞をつづけながら、恭弥がトンファーを繰りだした。自分よりも体格が大きい男と競り合った末に、男の方が恭弥の懐に入った。男のこぶしを避けた拍子に、仮面が天高く吹っ飛ぶ。
双眸が露わになった。
「…………っ」
綱吉は観客席で固唾を呑んだ。ごく僅かな時間は、数分にも思えるほどに印象的だった。
高速の動きで、胴衣姿の学生の間を恭弥が駆け抜けた。
ほんの一瞬だ。それは舞ではなかった。
ダァンッ!! と、相対した全員が背中から倒れた。とても演技には思えない迫力だ。太鼓は途切れていた。
トンファーを構えたままで、恭弥は、倒した相手をふり返ることもなく観客席を前にする。
清涼とした美しさだった。
会場全体が呼吸を止めたよう綱吉は思う。
……タン、と、太鼓の音が蘇る。
笛の音も混じる。再び、緩やかな動きで恭弥が武舞を行う。その一挙一動は、鮮やかに観る者を魅了する。
演目が終了すると、地面を揺るがすほどの拍手が起きた。
「かっこいーっっ!!」
歓声の中で、綱吉は頬を紅潮させて隣のクラスメイトと手を取り合っていた。委員長が興奮して叫ぶ。
「こりゃ優勝はウチがもらっただろ!」
「段違いだよ! すごい!」
委員長はまだ叫ぶ。頭に血が昇ったのか妙な内容だ。
「ひばりたん萌え! 男子校の美少コンだからといってウケ狙いに走らず正当派男子の硬派な美しさで攻めたのは正解だ!」
「ヒバリさーん! ヒバリさんっ!」
手を振って、不意に、壇上の恭弥と目が合った気がした。
――いや、確実に目が合った。
恭弥の足元にあった幻想がふくらんだ。つるが会場を覆い、モヤで足元が埋め尽くされる。
(……ヒバリさん?!)
きれいなものを見せると言われた。
てっきり、この演技のことかと思ったが、違ったようだ。
綱吉は困惑して花を咲かせた幻想の草木を見つめる。白い花弁も白亜紀のものだろうか。雲雀恭弥が幻想に干渉しているのか?
「……清き一票、よろしく」
コメントを求められて、恭弥はそれだけを言った。
またワァワァと歓声が起きる。
これは優勝だろう、と、綱吉も思った。
白いモヤの中から、真っ直ぐに伸びた緑の草。
その先端には小さな白い花。
観客席も会場も包む。恭弥と綱吉にしか見えないファンタジーの世界だった。恭弥との間にある絆を目で見た気がして、綱吉は胸を締めつけられた。切ない。恭弥が化け物であっても人でなくとも、側にいたいと思えた。
結果は、一年二組の優勝だった。
出場男子を囲んでバニーダンスを踊ったクラスが準優勝。アイドルの物まねをしたクラスや、女装版ロミオとジュリエットをしたクラスなどが涙を呑んだ。
クラスのスタッフと一緒にステージにでて、向けられたマイクに恭弥は首を傾げる。胸には花束を抱く。
「こういうの、苦手なんだけど」
『そこをどーにか!』
司会役がねだる。会場からはアンコールの声があった。
「あ」
恭弥の黒目がこちらを見た。
かぁっと赤面しつつも、綱吉は急いで拍手を送る。彼はクスリとしてマイクを受け取った。
『……じゃあ校歌を一唱』
「だあああっっ!!」
会場全体がずっこけた。
頓着せずに、恭弥は朗々とした声で校歌を歌う。
『みーどりーのーなーみーきー、……』
慌てて吹奏楽部が演奏をつけた。不思議なムードだ。なぜだか校歌に手拍子がつく。
「……――――っ!」
と、綱吉は一人で緊迫した。
野外ステージの左側。機材が積まれた辺りで白い影がゆらゆらしている。校歌に合わせて踊り、恭弥の勇姿を喜ぶように見えた。
(――あれは)
その、影の手前に、のし歩くものがいる。
尾を揺らしながら走る巨体――その白いシルエット。
ピン、と、思考の針金が音をたてる。
(あれはっ)
そのとき、鳥の吠え声がした。
コケーッッ。鶏だ。
綱吉は取材を思い出した。ニワトリ追い。あれが始まっている。部活棟の前で、鶏を放して、一番多く捕まえた人に一羽丸ごとプレゼントとかいう企画だ。
青空の真ん中に、太陽が光る。
恭弥は校歌を歌い終えたところだ。司会にマイクを返したポーズのまま、呆気に取られた顔で部活棟の方を見やる。
コケコーッッ。コケーッ。
鶏の騒ぐ声が、太陽の下で響く。
唐突だった。無表情になって、恭弥が身を翻した。ステージを飛び降りる間際、花束を無造作に投げ捨てた。
「?! ヒバリさん?!」
花束のリボンが解けて、一輪ずつが観客に降る。
混乱が起きた。観客が花を受け取ろうと一ヶ所に向けて蠢く。綱吉は簡単に押し流された。
「わっ?!」
『こ、これはっ?! サービスでしょうか?!』
「ヒバリさんっっ、待って!」
心臓がドキドキする。白い影が二つ、恭弥を追いかけていった。とんでもなく巨大なものが一つと、それよりは背が低く、尾があるものが一つ。
綱吉は興奮で息がつまりそうだった。
押し合いへし合いになりながらも、どうにか客席を抜けた。
「ヒバリさん!」
白いモヤと緑の管とが、うごうごと蠢いて裏手にある林に吸い込まれていく。夢中になって、綱吉も土塊の上を走った。
(わかった! ヒバリさんの正体!!)
かつて、昼食を一緒に食べた場所も通り過ぎて、幻想のジャングルが奥へ奥へと引いていく。
「ひばっ、ハァッ、ひ、ひばりさーんっ!」
息を切らしながらも太古の森を追いかけた。コーコーという鶏の甲高い呼び声も聞こえなくなった頃、白く煙る狭間に、肩をぜえぜえとさせる人影を見た。
「ヒバリさん!」
雲雀恭弥は、半袖のシャツ姿でそこにいた。
心臓を抑えていた手のひらを下げて、苦しげな面持ちで向き直る。息を整えながら、興奮のままに綱吉は人差し指を突きつけた。
「あなたは恐竜だ! どういう経緯か知らないし――、ぜんぜん現実的じゃないけどっ。ヒバリさんは、現代に蘇った恐竜なんだ!」
武者震いでぶるりとした。
恭弥は、特別に表情を変えはしなかった。ポツリと呟く声は波のような緩急があった。
「あの鳥は、朝を呼ぶ鳥だ。あれが、鳴きすぎて時間を早めはしないかと、僕は少し怯えていた……」
「え? ニワトリが?」
思わずポカンとした。綱吉は焦る。
「恐竜なんでしょう? ヒバリさん。あなたの森は、白亜紀の森だ」
「……そうだよ。太古の力が僕にはある」
恭弥が手のひらを差し出した。
立ち込めていた白いモヤが、指先に集った。
ピィッと何かの生き物が鳴いた。うごめく植物は恭弥に身を寄せる。綱吉はゴクリと喉を動かす。白い影は、今や恭弥のすぐ近くにいる。彼は、両手を広げて、自らの左右に向けた。
「紹介する。僕の父さん。サウロポセイドン。こちらは僕の母さん。フクイラプトル」
言葉と同時に、綱吉の目にも白い影が輪郭を持って見えてきた。
「!!!」
ギクリとしていた。
恭弥の左側に巨大な影がある。テレビで見たことがある。草食性の首長竜だ。頭がアパート五階くらいの高さに匹敵する。
一方、右側には肉食恐竜がいた。二メートルほど。鼻をフンフン言わせている。
(サウロ……? ら、ラプトルって、あの映画で有名な怖いやつじゃ)
数歩を後ずさり、見上げるばかりの綱吉に、雲雀恭弥は薄っすらと微笑みかけた。
「そ、それが、ヒバリさんの……?」
「うん」
黒目が閉じられた。
「ねえ。綱吉。ありがとう。綱吉は、知ろうとしてくれた」
「ひばりさん?」
不安げな音色で喉が震える。
「ど……うしてそんなこと言うんですか」
「奇跡について聞いたっけ、前。本当はね、僕もよくわからないんだ。神様が、何を考えているのかも。本当にいるなら薄情じゃないか? どうしてこの世界には不幸なんてものが、ある、のか。幸せがあるから? ぼくは、些細なことでも、ゆるして欲しかった」
病人のようにうつらと語るのが信じられなかった。
「この町に、帰ってきてよかった。生きてて、うれしいことがあった。生まれてきて楽しかった……」
「ヒバリさん? 顔色が――」
声が縮む。ジャングルがざわざわと騒ぐ。
恐竜二匹が息子に身を寄せる。クオオオオオオ……、と、天高く鳴き声がこだまする。呆気に取られている間に、恭弥が切羽詰まったように呻く。
「ありがとう。うれしいんだ。僕は、最後に少しだけ運命に抗うことができた」
「ちょ、よ、様子が、森がっ」
白いモヤが辺りを包む。植物のざわめきに、本能的な恐怖を煽られて綱吉は顔色を失う。
恭弥も顔色がなかった。力なく目を閉じ、唇を少しだけ開いて、ぽつぽつと、苦しげな声で囁く。呼吸は静かだ。薄青い唇は、
「うれしい。ありがとう」
「ヒバリさん?」
「だから、この結果を悔やまないで……」
目前の彼が、フラリと体を前に傾げた。
反射的に綱吉は両腕を差しだした。耳朶をくすぐる声は吐息混じりだった。苦悶の表情をしているから、具合が悪いのかと思った。
恭弥の体が沈む。
両腕に彼の体重を受け止めることはなかった。
倒れる音もなかった。時間が止まった気がして、綱吉は全身を硬直させた。
眼球だけが下を向こうとする。感情が抗った。
数秒をかけて、足元を見れば、羽根を散らした小鳥が横たわっていた。
「?!」
すぐには動けなかった。
次第に、何の死骸であるかを理解できて、恐る恐るとしゃがみ込む。手のひらで掬い上げて、綱吉は呆然とする。雲雀の小鳥だ。握れるほどに小さい。動かない。鼓動もない。
「……雲雀……さん……?」
冷たく呻きながら、血管全てが凍りつく心地を味わった。
目に見える光景が信じられなかった。
つづく
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