脱出








 ヒマですね、と言いながら前髪を摘んでいた。
 俺はそれをじっと見る。あの人は親指と中指で摘んだ毛筋を、もう片方の人差し指で真ん中から裂いてみせた。ゆっくりと口角をあげて、ヒマだと繰り返しながら、らんらんとした眼差しを男に向けていた。白衣の男がコンクリートの上でだれている。ところどころに赤い塊がシミついていた。犬が、両方の後ろ足を掴んでいた。足の指に流れた血を長い舌で、べろべろ舐めとっている。
 あの人の笑い声が聞こえた。上の歯列と下の歯列をきっかりとかみ合わせて、唇のすき間から僅かに歯を見せて、くすくすと含んだ笑いをこぼしていた。
 スチール製のイスがきしんだ。
 あの人は、左足を持ち上げて、右足に絡んだ手のひらを踏みつけた。
 グリグリとなじる動きにも男は反応を示さない。大人での生存者は、つい昨日まで彼ひとりだった。右目を抉られた男は、殴られ踏まれながら、……あの人の足を掴んだまま死んだ。
 ブラウザを暗転させて、あの人へ声をかけた。
 俺を見ないままで頷いた。腰が折り曲げ、余韻を味わうかのように、右足に絡んだ屍の手の平を両手でつかむ。そして、足に絡んだ指を一本一本、静かに外していった。この人は昨日からイスに座りつづけている。屍になるほんの一瞬前に、男に足を掴まれたのが何かを感じさせたらしかった。
 さいごの小指を取り外して、あの人は、じぃと食い入るように男を見下ろした。
「……犬、だっけ? この男の指が見えるかい」
「ハイ」「どうなってる」
 記憶デバイスをつめる手が止まる。
「目。見えてないんですか」振り返っていた。
「右目だけ。今は左目に血が入ったからぜんぶがぼやけている」
 真っ赤な色の舌を引っ込めて、犬が首を伸ばした。あの人の足元に這いつくばって、じろじろと、あの人が両手で抑える手首を眺め回す。まるで犬のような仕草だった。
「つかんだまま止まってるぴょん。っえーと、えっと、あ、あんた……じゃないれすよね、ええと」
「私の足を握るかたちで固まってる?」
「そうれす」
 満足したようだ。
 肩を撫で下ろして、その人は手首を放した。
 ボトリと落ちた手の平は、五本指を天に向けていた。何かに追い縋り握りしめ、その瞬間にすべてを費やしたかのように、妄執が込められていた。あの人は静かな眼差しを屍に注ぐ。どこまでを見てどこまでが見えていないのかは、俺にはわからなかった。
「決めました」やがて、その人は言った。
「六道骸と名乗ろう。犬、僕のことはむくろと呼ぶがいいよ」
「骸さま」「さま?」
 目を丸くして骸様が振り返った。
 むくろさま、と同じ単語を繰り返す。犬もむくろさんと声を張りあげた。
「骸さま……。ついていきます」雷に打たれた気分だった。口の中で何度も繰り返して頭を下げる。犬も這いつくばったままで頭をさげた。大の字で寝転がったまま土下座したみたいな格好だった。
「くっ。クハハハハハ! どうぞ、好きに呼んでください」
 呆れのなかに嬉しげな色があった。ハイと返事をすぐにした。
 骸様は、今度はクフフと笑って喉を鳴らした。そして、左手を俺に向けてさまよわせた。
 すぐさま、その手を握った。存在を確かめるように、骸様の指が肩まで這いずりあがってくる。両の瞳は屍を見下ろすままだった。右目には焦点がない、ただ六の刻印だけが光っていた。
「準備はおわりましたか」「ハイ」
「では行きましょう……。もう、異変に気がつくころでしょうから」
「一人で立てますか」
「手を貸してください」
 骸様はにわかな嘲笑を浮かべた。
 がばりと起き上がった犬が骸様に抱きつく。イスごとぐらりと揺れたので、慌てて骸様の体をひっぱりあげた。犬までくっついてきた。イスは悲鳴をあげて倒れた。
「ばかか! 犬はアタッシュケースを持てよ」
 顎で扉の前にあるものを指差した。黒いアタッシュケースは一つだけで、あとは、残飯置き場から見つけてきた麻色のズタ袋だ。ぜんぶで三つある。犬は口を尖らせたが、チェッと声にだして叫ぶと、アタッシュケースとズタ袋、三つぜんぶを両手と背中で担いでしまった。
「骸さんコケたらかわいそうじゃないれすか。気っつけろよ!」
「そんなことはしない」
「右目に視るスキルも欲しかったですね」
 ぱっちりと開いた赤目の隣で、クマのように血をつけた青目が窄められていた。
 骸様は手の甲を左の眼球にゴシゴシと押し付ける。この人の肩をしっかりと掴みながら決めた、街に出たら、まっさきに眼球を洗浄するクスリを買いに行こう。









06.1.25

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