黒が尽きるとき
ちりちり。空に昇っていく点描は美しかった。黒いそれらは群を失い、白い空との区別がつかなくなった。
「チョコレートって、焼け切ると煤になるものだったんですね」
十七年ほど生きてきて、初めて知った。六道骸はチョコレートが好きだった。だからその発見を心に留めておこうと思った。
一方で、フェンスの下にいる沢田綱吉はガシャンとフェンスに体当たりをした。
「あーっ!!!」
金網に両手で齧りついて、絶叫。
骸は鼻で笑い飛ばす。
「クフッ。君に愛する人からの告白なんて似合いません。しかも、笹川京子でも三浦ハルでもビアンキですらなくってクラスメートから? 君ってそんな人間じゃないでしょう」
「あああああっ、ああーっ!! オレのチョコがああああ!!」
「そこまでつまらない人間になるの、僕は許せませんよ」
骸の人差し指には、レースのリボンが引っかかっていた。
反対の手にあるライターで、骸はそれも炙った。煙があがった。手放せばリボンは泳ぐように空に向かった。
風が吹雪いて、そこに混じった悲鳴を掻き消した。
「君が悪いんですよ」
「骸ぉーっ!! お、おまっ、初めてだったのに!! 何でこんなことするんだ?!」
「わかってるくせに」
屋上へと視線をふり向かせる。
綱吉は、フェンスをよじ登ろうとしていた。ジャケットを翻せば、骸は既にそこではなくって扉を背に立っている。
「骸っ!! せめてそれは――ッ」
「これも、燃やしてしまいましょう」
骸は最後のターゲットを高く掲げてみせた。その頃になってチャイムが聞こえた。
キーンコーンカーン……、始業の合図だ。
「骸!!」
悲鳴に、焦りが混じる。
駆けつけた彼を真下に見下ろし、しかし嘲り笑いもして、よく見えるようにキラキラした包装紙に火を近づける。
火のまわりは早く、箱を蝕んだ。鼻をひくつかせて骸は香り高さを味わった。
「好い臭いですね……」
「だぁあああああっ?! こ、のっ! いい加減にしろよ! オレがもらったんだぞ!」
「チョコの焼ける匂いって胃が刺激されるんですよね。これが終わったら、僕とカフェにでもいきません? 午後からはフケて。奢りましょう」
「かえせえええっ!!」
つま先立ちになって綱吉はその場でピョンピョンとやる。骸の手には、届かない。
思わずといったふうに嘆息が漏れた。
「君が高校生になってこうも色気づくとはね……。まさか、モテるとは」
「骸! オレがもらったチョコを焼く権利なんかないだろがーっ?!」
「守護者として変な虫をつけないよーにとね」
「嘘つけっ?! こんなときだけ都合がいいこというなよ!」
「それはそれ、チョコはチョコ。しかもバレンタインデーのチョコとなれば格別だ」
「うわぁああっ?!」
頭上で炙り焼きの刑に処されていたチョコレートが、炎を放った。
一瞬、全身を火に舐められたようなイメージが広がる。綱吉は鳥肌を立てていた。骸は手首を掴んだことでそれを知る。
にやにや笑いを真上にして、綱吉は両目を真っ平らにさせて怯える。
「なっ――」
「フイをつけば幻覚もモロに浴びる。君にはまだ早いんですよ。すべてが」
「もぐっ?!」
次には、くぐもった悲鳴が口内で膨らんだ。物理的にもそうだ。
頬袋にエサを溜めたリスよろしく綱吉の頬がぷうと膨らんでいる。眼を白黒させて、後退り――骸に片手を掴まれているので、叶わない――綱吉は自分の指でおそるおそるとホッペタを確認した。
ごつごつしている感触に、さらに度肝を抜かれて息を呑む。
「…………っ」
「そうそう。よく噛んで、ね」
骸は小さく笑って綱吉の頭を撫でた。髪の毛のあいだに指を通して、クシ代わりに梳く要領でもって。
その手は、先程まで火刑に当てていたチョコレート箱を持っていたものだ。
既に、チョコはなく、骸と綱吉の足下で黒い塊が煙をあげているだけだった。呆然と見下ろしながら綱吉はこりこりとした音を漏らしていった。
骸が、頭を掴んで、上を向かせた。
「ナッツ入りです。ほら、君の大事なライオンにちなんで。ナッツの味はいかがですか。砕きやすいでしょう」
「……――――」
――ごくん。話しかけている間に、綱吉は口に突っ込まれたものを呑込んだ。仕方なくの行為だった。
骸は笑う。綱吉は、悔しげに唸った。無理やりだったので口角に涎れが滲んでいる。それを手の甲で拭う。
「お、まえ、久しぶりに日本に帰ってきたと思ったら早速イヤガラセして何が楽しいんだ。もうこないんじゃなかったのか?!」
「会いにきてあげたのに、酷いですね」
少しだけ伸びた襟足の髪を後ろにどかしながら、骸は流し眼を向ける。
黒い煙が一筋、まだ二人のあいだを立ち上っていた。甘くかぐわしく、焦げて爛れた風味が漂う。
綱吉は何とも言い難そうに煙りごと骸を睨んでいた。骸がちっとも変わっていない、そのことを肝に染み渡らせているのだ。
「それで……」
綱吉の視線は、下がる。
「それを渡しに日本にきたっていうのか」
「ええ。あと、君からチョコレートを貰うまで僕は帰りません」
「誰が……」
「くれないというなら君を殺す」
「…………」
綱吉の視線が、上がる。
骸は少しも顔色を変えず、表情も変えず、ふんわり笑っていた。大人びて髪も伸びてほんの少しだけ背も伸びている。手には丸い小箱があって、宝石のような色をしたチョコレートが詰めてあった。
「冗談ですよ。綱吉くん。僕から受け取ってくれるだけでいいです。さぁ、食べてくださいね」
「……中に何が入ってる?」
「ナッツ」
面白くなってきて声に皮肉を混ぜる。
怯えた小動物のようになってしまった綱吉は今度こそ後退ろうとした。骸は骨を痛めてやるつもりで細い手首を握りしめる。
「ほかには、何も入ってませんよ。これをあげるためにわざわざ姿を見せたんです。それに見合う褒美をくださいよ。君が食べることで充分だといっているんですよ?」
「もう、帰ってこないって、いってただろ……」
「あのとき、僕はガラにもなく熱くなっていた。だから帰ってきたんですよ。やっぱり僕は君が好きみたいだから」
「それを受け取ったら、さすがにチョコ焼かれた子達に申し訳ないっていうか……。むくろ……。あの……」
「殺すしか、ないっていうんですか?」
骸は笑みを崩さずにチョコレートの一粒を取った。煙はもう消えていた。
ぴっ。
親指と人差し指だけで一粒を弾く。悲鳴が聞こえた。喉の奥をぶたれた綱吉が嘔吐く。蹲ろうとした肩を掴むと骸は手をすべらせた。
首を鷲掴みにすると、小箱を傾けた。
「うぐっ、うがふっ、ぶっ!」
「バレンタインデーにチョコで窒息死したくないなら、僕に従うことですね」
まだ笑っていたが、一度ぎらつきだしたオッドアイはすぐには熱を引かさない。
綱吉は両手で骸の手首を掴んで、小箱を押しのけた。そうして汗だらけになってチョコを一粒、自分から口にした。咽せていた。
「いっ、いつかッ、戻ってくると思ったけど――めっちゃくちゃ早いんだな! おまっ、オレに愛想が尽きたっていってなかったか。マフィアになるならもう用済みだって」
「モテそうだなって」
お菓子を噛んでいる少年をジッと見つめながら骸は呟く。
「考えてみたら、今の君ってけっこうモテるんではと思い直したら、帰らなくちゃと思って、君がこの季節にこの日本でその慣習に則ってチョコレートをもらうだなんて想像したくもなくなって、それで嬉しそうな笑顔を見せたりなんてどこにいても噂ですらも聞きたくなくて、だから」
「……帰ってきたのか」
「ええ」
ごくん。綱吉がまた喉を鳴らした。
骸は、チョコはもう飲んでいるのに、唾を飲むために彼がそうしたのだと正確に見抜いていた。
からい唾だ。強烈な酸でもって成立つ、すっぱくて、痛々しいもの。
焼けた臭いが漂っていた。異臭だ。骸も綱吉も互いにそんな感じの心を胸に秘めているのだと知っていた。いわば愛も夢も希望もすべてが焦げて黒煙を吐き出して醜く歪んでしまった後なのだった。骸は日本を去ることにした。綱吉は日本に残って、まだボンゴレファミリーの頭領だった。
風がすきまだらけの二人の間を通る。
「……で?」
綱吉が、頼りなげに先を促した。
「……だから、……僕は帰ってきた。命が惜しいんならチョコを完食して僕につきあってカフェにきなさい」
「待ち伏せして襲うつもりとか?」
「そうかもしれませんね」
じろじろ、まじまじ、互いに互いを視線でもってなめ回す。綱吉は変わっていなかった。童顔で、背が低くて、髪の毛すらも別れた頃のままそっくり同じ。
「君が、好きですよ」
小箱に蓋をして、綱吉の胸に押しつけながらも骸が告げる。
綱吉は眉を寄せていた。
「午後の授業が終わってからな」
「わかりましたよ」
すれ違いざまに顔を近づけても綱吉は悲鳴をあげなかった。
――数瞬だけ躊躇った。だが、結局は骸はかつてしたような道を踏んだ。頬にキスをした途端に素っ頓狂な声がひびく。
「うわぁああっ?! やっぱり?! お、おま、どーいう神経してっ――、おい?! どこに行くんだ」
「君も変わってませんね。では、放課後に」
膝を曲げて、伸ばしたときには骸はフェンスの上にいた。そのまま手頃な屋根へと移っていって消えた。
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