海がひかる


 あの人はもう帰ってこないんだって、本当はとっくに分かっていた。
 あれは十三歳のとある雨の日だった。
 あの人は、ゼロから百までのハードルを一息で飛び越えるかのように、小さく呟いた。悲しい程に決意が鋭かった。
「そろそろ……」
 骸さまの目にはガラスが写る。真っ平らなガラスに雨だれが宿って、すべって、影は赤と青の瞳に跳ね返る。
 骸さまの目を流れる雨だれは美しかった。
 心臓を掴まれたように、私は息ができなくなった。骸さまはこれからの身の振り方を喋っていった。
「……内臓は……霧のイヤリングを」
「…………」
 真っ青になって動けずにいる私の耳に、チリッと熱いものが触った。
 骸さまの指先だった。
 イヤリングが、右の耳たぶを噛んだ。左も噛んだ。痛みと震えが走って、イヤリングが不吉にしゃらんと音を鳴らした。
 恐ろしくて溜まらなくなった。本当なら、口答えは赦されていなかったけれど、私はどうしても助けてあげてほしかった。
「骸さま。ボスをゆるしてあげて……」
「なぜ?」
 骸さまは指を引かせて、砂でも落とすように自分の親指と人差し指をすりあわせる。
 その指の熱を、思い出す。
 骸さまは、とても、体の表面に熱がくるほど限界まで怒っているのだ。私は恐ろしくなった。本当に、骸さまの思い通りになってしまうのだろうか?
「骸さま……」
 私の青い顔が、ガラスに写る。
 向こうには、背の低い男の子がいる。くるみに似た髪の色、健康そうなほっぺた、やわらかそうな体。細くて芳しそうな肉体。骸さまが欲しがっていた人。
 見つめている間に、ボスは友達といっしょに通りすぎていった。
 下校する姿をたまたま見かけた骸さまが、ボスの一生を壊す決断をしただなんて思いもしないだろう。
 骸ちゃんは恐ろしいのよ、私に、昔――昔の未来でそう告げた女性がいる。
 骸さまは雨だれを両目に流しながらボスを見送った。
「むくろさま……わたしは……霧の守護者でもあります……骸さまの代理の……ボスを、まもりたいって、わたしは」
「本気で守っていたんですか?」
 知っているのに、骸さまはいじわるを口に出した。頬杖をつきながら視線だけで私を見据えた。
 静かだったから、本気だとわからせてくるときの骸さまだ。
「僕の邪魔をするなら、君にも死んでもらうだけですよ。クローム」
「……でもっ……」
「僕は、水の牢をでたらいつか決めなければならないとわかっていた。見ましたか、彼の笑顔を? 決断の時がきたんです」
「骸さま。ボスに、――」
 伝票をもって、そしてお財布から僅かな現金だけを取って、骸さまはお財布ごと全ての財産を私に放り投げた。
 捨てるといってもおかしくない。足下にお財布が落ちた。
 椅子を立っていた。
「骸さま! ボスに優しくして!」
「これから殺すのに、優しくするもしないもあるんですか?」
 骸さまは唇で笑い飛ばし、喫茶店を出た。
 それが、十年前の話で、私が骸さまを見た最後だった。そしてボスの笑顔を見た最後でもあった。あれから、ボスはまだ生きていたけれど笑わなくなった。半年ほどでボスは蒸発してしまった。


「……これが、ボスの、骨?」
 柩の中には薔薇が敷き詰められていた。私は掻き毟られるような激痛をこらえながら、隣にいる人に確認した。
「これが、沢田綱吉ですか?」
「現地のやつらが言うには」
 顎に傷のある、髪の短い男の人。山本武。今は私の仕事の上でのパートナーだった。
 私の耳でもカタコトに聞こえるインドネシア語で、武が、赤黒く日焼けしているおじさんに話を促している。
 楽器のような言葉が、耳に入る。
 とてもではないけれど信じられなかった。柩はもう八年も前からほこらに安置されていたそうで、二年前に誰かが開けて、若い死体が入っていると騒ぎになったという。そして半年後に新聞を賑わせた。柩にいれられている薔薇が、枯れない。奇跡の白薔薇として。
 その地方新聞を持ち寄ったのはリボーン先生で、調査に派遣されたのが私と武。
「……どうだ、骸の幻術か?」
「…………」
 骸骨をうずめている薔薇を一輪、手に取った。
 真っ白い薔薇だった。
「骸さまは……」
 声が凍る。喉が死んでしまいそう。眼の奥がカラカラに乾いてきて、眼帯の下にある潰れた右目がひしゃげるように圧迫された。
 私は、うなされているともつかない声で、骸さまとの思い出を語る。
「ゲンを担ぐお方だった。占いも信じてはいなかったけれどやってはみるの。花言葉も大好きだったの。白い薔薇は、「私は、あなたに相応しい」……」
「骸からのメッセージか」
 武が音がでるほど歯を噛んでいる。
「……そんなに単純じゃない」
 私は、泣きたくなった。
「幻術じゃないの。これ、薔薇は本物だからきっと骸さまがしょっちゅう取り替えにきてる……誰にも気づかれずに」
「何……? 何でそんなことをする」
 武はスーツの背広を広げていた。切れ長の眼には涙が滲んでいた。
 ぼろぼろに崩れかけている並盛中学校の制服を着ている、真っ白な骨に、背広をかけてあげるつもりだ。
 背広が海からの潮風を受けて、ばたばたとはためいていた。
 後悔していた。言えなかった言葉が今更に胸を締めつけて、最後に見たあの人達の後ろ姿が、頭の芯を抉りにくる。
「幻術は骨のほう……」
 ほこらは、海に続いている。
「制服は本物だから、骸さまも、ボスが死んだかどうか、わからなくなってるんだ」
 武が両目を愕然とさせて私を見返す。
 風が止んだ。岩山のトンネルは海まで続いていて、凪いだ海面が武の向こうで光った。


 両手で胸いっぱいに白薔薇を抱えて、あの人は姿を現した。
 一目で骸さまだとわかる。
 けれど、信じたくない――、驚きで悲鳴すらあげかけた。骸さまは変わり果ててて私の知っている骸さまではなかった。
 待ち伏せしたにも関わらず、一歩も動けなくなった。私の異変を察知して武が飛び出していった。
 日本刀を、迷いなくも抜き放つ。
「そこまでだ。六道骸。沢田綱吉をどこにやったか白状してもらおうか!」
「……」
 驚いたのか否かもよく見えない。
 夜だから、月が細いから、そうじゃない。骸さまは私の知ってる十年後の人と少しだけ違う。でもその「少し」が致命的に骸さまの異常を物語る。
 骸さまは髪を切っていなかった。
 あれから、多分、一度もだ。
 前髪が伸びすぎていて前も後ろも曖昧だ。お化けのようだ。頭から、髪の毛の色をしたシーツでも被ったように、顔と体にカーテンを掛けてみすぼらしく汚くなった。
「む……むくろさま……」
 震えながら、茂みを掻き分けた。私の声で髪の毛の塊がふり向いた。
「……――?」
「むくろさま。こえが」
「喋れないのか?」
「……」
 薔薇が、一輪だけこぼれた。骸さまは右腕をあげて、自分の右側の前髪を少しだけ掻き分けた。
 赤い眼が――。六の文字がついているあの赤い眼球が、私たちを見た。
「いえ。日本語、しゃべるの久しぶりだなと思っただけで」
「気が狂ってはいないんだな?」
 武の言葉はあまりにもストレートだ。
 白いボロをまとって、髪の毛をぐしゃぐしゃに伸ばしっぱなしにして、汚いけれど何かを達観している眼差しで、骸さまは仙人のように壊れていた。
「とっくに」
 骸さまは、楽しそうに赤眼を細めた。声は少し甘くて低くて十年分の年を取っている。
「もう僕は終わったんです。僕の相手をするのはやめてくれませんか。綱吉くんならいませんよ。お葬式は終わりました」
「うそだ! クロームが幻術を見破ったぞ!」
「骸さま!!」
 洞窟に向かおうとする骸さまと、武との間に割り込んだ。
「私はっ……やっぱり命を懸けてでも骸さまとボスを止めたかった。こんなふうに変わった二人をみるより、死んだ方が、私もうれしかった!」
「クローム」
 間近にくると、えづくような、酸っぱい異臭が骸さまから臭う。腐ったチーズと魚を混ぜたよう。
 今、どうやって生きているのか、どういう生活をしているのか、聴きたいことはたくさんあった。でも。
「ボスはどうなったんですか」
 骸さまは私にとって神様だった。
 ボスは、私にとっては太陽で、神様と同じくらいに生きてく上で欠かせなかった。
 だから、私は足を踏ん張らせてでも神様に尋ねる必要があった。
「ボスをどうしたんですか!」
「……」
 髪のお化けになった骸さまが、きっと、恐ろしい顔をなさってる。見えなくても私にはわかる。
「クローム、下がれ!」
 武が私の肩を掴んだけれど、私も手で武を押し返した。
「優しくしたんですか。殺すとき、ちゃんと優しく、ボスを苦しめないで――」
「僕のものになって」
 欲しいと、僕は極めて紳士的にたのんだ――、骸さまは抑揚もなく喋った。そして武が掴んだのとは反対の肩を握りしめた。
 激痛による悲鳴が唇を裂いた。武が、日本刀を振りかぶった。骸さまの血が跳ねて、右側の髪が大きく断ち切られて薔薇の花びらといっしょに散らばった。
 花びらは、吹雪のように凍てついた。
「何がわかる? クロームも、そこの木偶の坊も、僕がどれだけ心を砕いてそれこそ処女の小学生をたぶらかすように優しくずっと彼を口説いてたなんて誰にわかる?!」
 眼球がせりあがっている、骸さまは左側の眼には眼帯を当てていた。私は膝を折って地べた頭を垂らす。
 骨を砕かれた左の肩が、焼かれているように痛かった。
「斬るぞ!!」
「だめ!!」
 首を狙いにいった武に叫んだ。まだ動かせる右手を突き出した。
 紫色の光が、――骸さまを拘束できるだけの幻術が発動すればよかった。しかし洞窟の前には影が差した。
 顔をあげれば、蓮の花が月光を塞いでいた。
 花は、まるく広がった。捕食する直前のアメーバを思い出した。私を食べる気だ。
「――――」
 骸、武が叫んでいる。
 私にはわかる。骸さまは、私の首をもぐつもりだ。骸さまは凍てついた眼をして私を見下ろし、斬られた左手を、指二本を失おうが構わずに突き出している。
「あの子を口説きながら僕がどれだけ屈辱を受け続けていたか僕がどれだけ彼を愛していたか! どれだけ真剣だったか、初恋に恥じらう幼稚園児のようだった彼をどれだけ辛抱強く待ったか!!」
「――」
 蓮の花が、頭を奪いにやってくる。涙が出た。骸さまは、ボスに優しかったんだ。私が知らなかっただけで。
(骸さまは、もしボスが生まれ変わってもボスを愛するの?)
(当然だ)
 咄嗟に試みたテレパシーに返事があった。骸さまが精神チャンネルを開いてくれていたのは十年ぶりだった。
 骸さまの、残酷なやさしさが私の頭を真っ白に染めた。
(死ね!)
 クローム、外で誰かが叫んだ。私は骸さまが好き。ボスも好き。武は、嫌いではなかった。
 悪いことをした……情けない姿をみせてしまう、最後に、骸さまとボス以外の誰かを思う余裕が持てた。それが嬉しくなった。悪くない最期。
「あうっ!!」
 と、声もなく殺されるはずだった私の右肩に誰かの手が食い込んだ。
「クローム」
「た、武?」
 攻撃は止んでいた。
 月がでている。骸さまは愕然として洞窟の上の崖を仰いでいた。私の名を叫んだのはあっちの方――だった。
「…………なんで」
 久しぶりに聞こえる肉声は、声が変わっていなかった。
 多分、骸さまが何かをやったんだろう。
 月の光を浴びているシルエットは細くて小さかった。ボスは、私の無事を見届けるとすぐに身を翻した。
「海に、落ちた、」
 縦にブルルッと震えながら、お化けのような骸さまがうめく。
「死んだと…」
 骸さまをもう一度見ようとしたけれどその前に狼が吠えるような絶叫が轟いた。つなよし。待って。
 ふり返れば、骸さまの血と、小指と薬指の第二関節から先と、あと髪の毛の束が、白い薔薇と混じり合いながら月光のわだかまりに落ちていた。
 獣道を掻き分けて一目散に逃げていく、獣の足音が消えた。
 それから一年ほど、待ってみたけれど骸さまは二度と戻らなかった。柩の骸骨はある朝に消えていた。白い薔薇は枯れた。また、地元の新聞で話題になった。武は私につきあってインドネシアにいてくれた。
 そして武が、帰国せざるを得なくなって泣いた私に言った。ぜんぶの島の床屋に聞き込みをしてた、手分けをしようと。帰国の間際に一軒の店が見つかった。指は両手ともぜんぶ揃っていて、背が高くて、後頭部に髪の毛のふくらみがあって、美しい顔をした青年が来店したという。
 別に体は臭くはなくって、言葉も発音もしっかりしていて、髪型と長さがケタ違いに不審であること以外は、極めて魅力的な青年だったそうだ。
「こんな頭だったか?」
 店主とその奥さんは、私を見てにこにこしながら頷いた。
「……何年前の話ですか?」
「一年前だとよ」
 武が苦笑する。私も苦く笑ってしまった。骸さまとボスはまたどこかに消えた。

 




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