リワインド
<Rewind>



 おかしい。どこが? すべてだ。
 思えば骸は生身で現われたときから奇妙だった。
「やぁ、沢田」
 にへらにへらと、馴れ馴れしく背中に手をまわしてくる。
 驚きが度を超して綱吉はされるがままになる。
「……ろ、六道骸?」
「ええ。お見舞いにきてくれるなんて優しいんですね」
「……元気そうにしてるんだな」
「手加減してくれたからですね、君が」
 並盛の病院だ。ヒバリが掌握済みの。D・スペードとの戦いで負傷した骸がここにいると聞いて、綱吉は責任を感じた。
 デイモンを倒すため、肉体の持ち主である骸に許可も取った。とはいえ酷いことをしたのに変わりはない。
「お茶でもしていきませんか。フルーツをたくさん貰いました、リンゴでも切ってあげますよ」
「……おれもリンゴもってきた」
「そうですか! 僕に切ってくれるんですか? くふっ」
「……いや、おれは……」
 骸は、水色パジャマと揃いのスリッパを履いて、自分の足で立っている。右頬に貼ってある大判のテープが痛々しい程度の傷。見た目の上では。
 バスケットを抱きしめ、綱吉は身を引かせる。
「体はもう大丈夫なのか」
「回復力は自信がありますからね」
 にこ〜っとして、笑みが奥側にくぼんでいく。そのさまは何故か卑猥だ。やわらかそうな色に頬が染まった。
 肩に触れる手には、体重が落ちてくる。
「ゆっくりしていきなさい沢田綱吉」
「お、お前の顔を見たら帰るつもりだよ。学校帰りだから」
「積もる話くらいあるでしょう? どうしてまだ並盛にいるんだとか、味方をするのかとか、僕の罪がどうたらとか」
「いや、オレが決めることじゃ……ないだろ、それ」
 骸が鼻を鳴らすのが聞こえた。
「つれないですね。まぁ座りなさい」
「いいよ。帰るよ。これ、母さんからだから!」
「沢田」呼び止めを遮って、綱吉はリンゴやバナナが詰まったバスケットを骸に押しつけた。身を翻す。
『母さんから』の効力が及ぶのは、正しくは見舞いのためにと貰ったお金までである。フルーツの盛り合わせを選んだのは綱吉自身だ。
 クロームから、骸は髪型を気にしていると聞いたのでパイナップルが入っていないものを選んだ。が。
(なんだ?)
(これじゃまるで逃げるみたい)
(なんで……?)違和感は膿んだように引っかかる。原因が無いので戸惑った。病院のエントランスを出てから病室を見上げる、と、シルエットが手を振っていた。
 骸だった。
 ――ゾクんっ!
 言いようのない悪寒が背骨を走った。
(……オレからのフルーツだって言えなかったのも、足が震えそうだったのも、今、オレの心臓が痛いのも、ぜんぶ。怖いのか? オレは?)
 綱吉は、帰宅してから骸の気味の悪さを痛感した。
 そのときと全く同じ恐怖が、今も綱吉を怖がらせた。
「どうしたんですか」
 呆然としているのを見て、骸は一歩を詰める。
「僕をそんなに見つめて。何かついてますか」
「あっ、や、ごめん」
「謝るようなことをお考えで?」
 沢田家の玄関だった。骸はベージュのトレンチコートをスマートに着こなし、襟ぐりをフェイクファーで囲っていた。
 元から背が高くて細いから、大人びた服を着ていれば二十代くらいに見える。
「僕に怯えなくてもいいんですよ、クフ」
 オッドアイが幅を狭くする。苦しいツバが綱吉の喉を押し広げた。
(なんか妙だ。この前も。なんか違くないか?)
「沢田。髪に、雪をつけてますよ」
 声はすぐ真上からだ。彼は、小枝についている小鳥でもあやすように、優しい表情をしてこちらに指先を差し向けた。さらりと髪が梳かれていった。
 ほとんど同時に悲鳴をあげて、綱吉は玄関のドアに背中をぶつけた。
 遠慮もなく朗らかに笑い飛ばされた。
「そんなに驚かなくても!」
「十代目?! 今の音は」
「ツナ? そろそろ始めるぞ」
「ボンゴレの準備も整ったようだ。もちろん僕と君も。いきましょうか? ボンゴレギアを作ったとかいうご老体にお礼のお手紙を出すんでしょう?」
「待て」
 綱吉は、自分からドアを閉めて獄寺やリボーンを遮った。雪がちらつく世界で骸と自分の二人だけになった。
 向こうは面白そうに眼を輝かせる。
 唇をやや丸くして、それも見てる間に持ち上がり、静かに喉を弾ませるようになる。ゾッとした。
「お前っ……。何なんだ」
「何? 抽象的ですね。六道骸ですが?」
「わかってる。でも、オレの知ってる骸は……なんか違う」
「沢田綱吉を好きではなかった?」
 皮肉げに、トレンチコートへ両手を突っ込ませる。
「なんなんだ?! ベタベタくっついてくるのはおかしくないか?!」
「触りたいものでね。それ以上の理由がありますか? 君、獄寺隼人や山本武には触らせているのに僕はダメなんですか」
「なっ! ……その二人は友達だよ」
「では僕は?」
「んなっ?!」
 愕然となった。
 サンダルにズボンにパーカーという軽装で外にいる、その現実が身に染みてきて、体が冷たくなった。
「む、むくろは骸だろう」
「友達では無い? あれだけ思い切り人の顔面をぶん殴り、火を放ち、好き放題に汚辱を与えておきながら? 僕はてっきり君とのあいだに揺るぎない信頼関係があるからこそだと思っていましたが」
「あれは悪かったよ。お前のことはもちろん信じてる……、そ、その、仲間として」
「ですよねぇ。僕たちはトモダチだ」
 瞳の中いっぱいに骸のオッドアイが広がった。
 左側の頬に冷たいものが当たる。首筋まで手が下ろされた。触れたときから、ビクッと震え上がって、綱吉は石の像と化していた。
「あァ、あたたかいんですね。ずいぶんと。子どもの体熱だ」
「……」眉をひしゃげさせる。
 綱吉は後ろに歩いて、庇うように自らの体を指先から引きはがした。
「オレだって大したこといえる身の上じゃないけど……。友達って、もっとイロイロあるもんじゃないのか」
「色々と? イベントがあると?」
「そう! 友達っていうにはなんか違う。オレ、お前のことよく知らないんだぞ?!」
「別に結婚するわけじゃなし。それは、僕もですよ」
「ならそうだろ?!」
「で? 君と僕は友達じゃないって? 酷いことを口に出来たものですね」
「…………?!」
 綱吉は胃がキュッと竦むのを感じた。
 骸に躊躇いは見当たらず、気軽そのものだ。良心がドクンドクンと痛がった。
「オレは、そんなキツいこと言ってるつもりでは……、骸がフシギだよ。今日、来るとは思ってなかったんだ」
「では、今からで。今まではそうじゃなかったかもしれませんが、今から友達です。文句はありませんよね」
「……う、うん」
 そう答えるしかなかった。
 抵抗する理由はまったくない。励ますように肩を叩かれ、馴れ馴れしくも腕を掴まれて、綱吉は骸にぴったり寄り添われながら沢田家に入っていった。
 抗いがたいものが体内でうねった。
 それが拒絶感だと分かり、綱吉は気分が悪くなった。
 骸は任務に対しては完璧だ。お礼状の出来がいちばんいいので、不在のヒバリの分まで彼のものをコピーすることになった。リボーンが筆跡を変えて署名した。
 骸は、トレンチコートの下は黒のタートルネックだった。
 頬杖をついて綱吉のものを眺めている。
「字がヘタなんですね」
「取るなよ!」
 綱吉が席を立てば視線が集まる。骸と一緒に騒ぐ姿に、誰もが、疑問を秘めた眼差しを向けた。
 なので、
「骸! 明日、並中にこいよ」
 綱吉は帰り際にトレンチコートの裾を掴んで密かに告げた。
 外には雪が積もり始めていた。
「わかりました」
 深く聞かず、骸は静かに微笑んだ。頬を染めて眉を押し下げて、幸せそうな微笑みだった。


 綱吉は並中制服の上からダッフルコートを着ていた。骸の方は、私服で、前と同じくトレンチコートだった。
「どこにいきましょうか?」
 ケータイをいじりながら尋ねられて、綱吉は首を左右にさせる。
「お前、何をたくらんでるんだ?」
「積もるお話は喫茶店で。寒いでしょう? 風邪でもひいてしまったら大変だ」
「オレを見ながら歯の浮くセリフを言うな」
「おや? ……口説いてるつもりだって、いつから、わかってたんですか?」
 綱吉は、またも首を左右にさせる。
 顔色が青くなっていった。
「どういうつもりだ。おかしいだろ。友達なんていって何が目的だ? いきなり獄寺くんたちみたいに振る舞ってきて、オレどうしたらいいかわかんないよ!」
「かんしゃくですか。子どもですね」
「ほっぺた赤くさせるな!」
 気味が悪かったので大声をあげた。
 骸は、へらへらした笑みも変えず、あたりに積もった雪に視線を落とす。綱吉には何が起きたか分からなかった。視界は横転していった。
 腕の中にいる。彼はさらに頬を紅潮させた。
「君から飛び込んできてくれるなんて嬉しいですね。でも足下は凍ってますから気をつけて」
「……な、なんなんだ、はなせ」
「いやですね。君、バトル以外はダメな子なんですね。僕には嬉しい話です。また転びそうだから、手を繋いで歩きませんか?」
「なんでだよっっ?!」
 骸は、返事もきかず堅く右手を握りしめてくる。
 しかも指のあいだに指を入れる、いやらしい手繋ぎを望んだ。
「恋人みたいだから。ですかね?」
「…………っ、な、なんで」
 体がぶるぶるとしてきて、自分が怒っているのか怖がっているのかも分からなくなった。
 途方に暮れる綱吉を引き摺って、骸が歩く。繋いでいない方の手でケータイをいじった。
「寒いですけどパフェでも食べたいものですね。どこにしますか? 君、この町に住んでて長いんでしょう?」
「いい。手をはなせよ」
「いやです。オススメがないなら僕が決めますよ」
「骸!!」
 雪上で両足をふんばらせた。
 たまたま歩いていた人達が何人もふり向いた。
 骸だけがふり向かなかった。
 繋いだ手の延長線を昇っていくと、彼の後頭部にくっついている房がぴんと立っているのが見える。
 空は灰色だった。
「いい加減にしろよ。きっ……、き、気持ち悪い……っつーか、なんつーか、なんていっていいかわかんないけど!」
「自分で自分の感情もわからない?」
「こういうの困るから!」
 ゆっくりに、肩の後ろに顔を向けてくる。
 骸の両眼は絶句するほど冷めていた。あやふやに感じていた末恐ろしさが、急に、骸の眼孔を通して結びついた。
 クリアに感じ取れる六道骸の存在感は、今までのように、見ただけで綱吉をゾクッとさせる。
「っ――――!!」
 ここにいるのは、確かにまぎれもなくて六道骸だったのだ。
 骸は、かつてと同じく、蔑むような明光をオッドアイに潜ませる。
「カフェだけでも付き合ってもらいますよ」
(……こいつ何も変わってないじゃん!)
 声も出せずにショックを受けつつ、綱吉は、真っ白な息を吐く。
 気温が下がってきている。夜になって降ったのは雪ではなくて雨だった。体感としては余計に寒くなった。
 萎縮した綱吉は別れを切り出せなかった。
「並盛町ってつまらない町なんですね」
 外を隔てるガラスに横顔が写る。何も見えない暗闇から、ザーザーと雨の音が響いた。
 綱吉はプラスチック製のコップを握る。フリードリンクだ。骸の声は平坦で抑揚もなくってつまらなさそうだった。
「遊ぶところがない。黒曜町のがまだハデだ。聞いたところでは並盛は催しが盛んらしいですが、風紀委員長の小遣い稼ぎ目的なのは目に見えている」
「…………」
「君も、うんともすんとも言わない。くだらないですね、沢田綱吉というのは」
 綱吉は、ガラス越しに店内を見やる。
 夜は遅くて客席はほとんどがカラ。骸は、黒く冷たく、ガラスに宿る。
「……」コップを傾ければソーダがはじけた。綱吉は暗い眼差しでもって骸を見返した。
「どういうつもりなんだ? 別に、楽しくないってのは、初めからわかるだろ」
「確かに。ごもっともだ。くだらないです。くだらなくて僕は涙が出そうだ。それをガマンして話し続けている」
(なら今だけ同じ気持ちか)
 歪んだ共感が胸に広がる。本当に、いやなものだと思った。綱吉はソーダで気を紛らわせる。
「骸……、怒ってるのか? 殴って悪かったよ。お前って二重人格か何かか」
「ますますウンザリできる答弁ですね」
「悪かったな! それで? どうなんだよ」
「『それで』? 君、立場がわかってるんですか。今すぐここで契約してやってもいい。君は僕に体を狙われている。標的です」
「危ないんなら帰るよ」
「みすみす逃すと思いますか? いいから大人しく座っていなさい」
「……」
 綱吉は驚いて骸を見つめた。
 無遠慮にまじまじと。造形は整った男だった。男はパフェを食べ終えた。綱吉のマネをしたのかフリードリンクも頼んだ。彼は延々とホットチョコレートドリンクを飲んでいた。
『これ、チョコが薄いですね』
 始めに、少しだけ文句を口にした。
「…………」
「…………」
 カチン、どこかで硬い音がする。時計は夜の十時を指した。
 腹は減ったが、だが骸の前で食事をする気になれなかった。
 骸は、どうしてかデザートだけを口にする。ミニパフェを追加で注文した。それきり黒くなったガラスを見つめる。
「……」オッドアイに光が浮かぶ。赤と青の目玉にそれぞれ。ゆらり。着地点もなければ終わりもなく目玉の中をなびく。
 彼の思考回路なんて、綱吉には想像もできなかった。
 オッドアイは次第に優しくなっていった。
 ミニパフェが届けば、骸はアイスクリームの上から生クリームを掬った。
「食べますか」
 出し抜けにそう言う。
 え。呻く。――やっとの思いで、断った。綱吉は心臓が飛び出すかというほど驚いた。
「いらないよ」
「そうですか?」
 機嫌を損ねたようなスネた声だ。骸はスプーンを自分の口に入れる。
「僕は、幻術で夢をわたる。いくつもの幻想を通る。ヴィンディチェの牢に囚われていたときは特に繰り返した。それは自由を求めるのとなんら変わりない行動でしたから」
「僕は、夢でこそ動き回った」
「夢見ている者には、夢は夢でしかない。あっという間に忘れる。ですが僕には幻術だ。夢ではなくて。泡のように消えるだけのマボロシ。僕には意識というものがある。だから、通常の経験と同じくマボロシは体に残る」
 カラになった容器はウェイトレスがすぐさま回収した。仕事が欲しかったのだろうと綱吉は思った。
 骸も、綱吉の視線を追った。切り揃えられたショートカットヘアが翻る。
 虚ろなオッドアイに、白い光が泳ぐ。
「夢と幻術。その境目を明確に持っていなければならなかった。僕だけがその差を知っている筈だった。僕しかそれがわからない世界なのだから」
「…………」何を言いたいんだろう、そもそも何をしたいんだろう、まったくわからない……、思ったが。
 ひらめいた。ハッと顔をあげた。口にしながら自分でも信じられない。
「何が夢で何が現実か、わからなくなったのか?」
 骸は答えない。充分に甘くなっているだろう口内にチョコレートを流し込んだ。オッドアイのガラス玉のような表面に、黒くくすんだ渦が写った。
 かつん、カップソーサーに器が戻されていく。
 綱吉は再び尋ねた。
「お前ともあろうものが?」
「そう。僕ともあろうものが」
 あざけるように綱吉を見ないで笑って、骸は伝票を持って立ち上がった。
 その日から、骸はますますおかしくなっていった。



「つなよしくん……」
「ひッ!」
 眼に目蓋を被せて唇を尖らせて、その姿に本能的な恐怖を覚えた。正解だ。近づいてきたのはキスだった。
「いいじゃありませんか。みんなの前でもない」
「やめろ!!」
 心底からゾクゾクしつつ、綱吉は扉に体重をかけた。ドアのすきまから叫んだ。
「むッ、骸がきたよみんな!! 骸早くはいれっ、イタリア語の翻訳するんだろ」
「君のキス一回につき一枚がいい」
「だめだ」
「じゃあ、触らせてください」
「んなっ?!」
 譲歩したのかさらに我が儘になったのか、判別の難しい要求だった。
 縮こまっている体に肌触りのいい皮膚がすべる。綱吉の体は骸の両手の中にすっぽりと収まった。
「いい匂いですね、君は」
「……っっ!!」
 肌が粟立つ。トレンチコート越しであるのがまだ幸いだった、後になってから思い知った。いざ、半袖ニットから伸びる男の腕に抱かれてキスされようとすると、綱吉は悲鳴も出せないほどに怯えた。
 バキィッ!!
 キスの直後に、拳がめり込んだ。廊下でのすれ違いざまのことだった。骸が壁にバウンドした。
「ぐ!」
「…………っ!!」
 両眼を見開かせて、綱吉は油汗を垂らした。
「なっ……、に、すっ……?!」
 自分の唇に触れた手が――震えていて、動揺を深く自覚する。頭のてっぺんから血の気が引いていった。
「っつう……」
 鼻頭を手で押さえて、骸は柳眉をシワ寄せる。見上げた。
「沢田?」
 やや間を置いて、骸は自らの鼻を抑える手を上にやって、そのまま額に昇らせた。額を抑えて何かを後悔するような――、そんな態度でますます綱吉は腹が立った。
「お前、自分が何してるのかわかってるのか? なんなんだ?! 人をバカにしてンのか?!」
「……君が怒るのも無理はありませんね」
「なんだその言い方?!」
 キッと睨み付けてくるのは骸だ。
 綱吉には、理不尽だった。しかし骸は真剣そのもので小声でうめく。ここは現実なんですね。
「……は?」
 骸の横顔に、つぶが浮かんでいた。
 つぶはみるみると膨れる。こめかみから顎までツーッと落ちる。僅かに数秒のことで、骸は急激に焦りだしている。
「君の反応が僕の知るすべてと違う」
 綱吉は、意味を考えるより先にあの日のことを思い出していた。
 骸はなんて言った?
(夢と――現実が――つまり、)
「おまえ……」
「よしてください。綱吉くん」
「…………」目玉の表面が乾いていくのをリアルタイムで感じられた。一秒、息をするごとに、骸を眼にする度に何かが少しずつ変わっていくようだった。
 骸を見下ろした。殴られた鼻を啜っていた。反抗的なオッドアイがある。
「……お前……もしかして、おれのことを」
「綱吉くん。僕を困らせないで」
 恐る恐るとこちらを見やる眼差しは、気のせいでなければ――、怯えていると思った。光が頻繁にゆらゆらして、綱吉の知る骸とはまったく異なる少年の瞳があった。
 けれど綱吉も怖がっていた。何かを踏んだ。おやつにしようと思ったポテトチップスの袋だった。
 スパンという音がすると同時、骸が起きた。階段を音もなく降りていった。
「…………」
 見送る。酸素が足りなくなってきて、綱吉は肩で息をしていた。自分の喉から変な音がする。
「……」ふらつきながら部屋に戻れば、驚かれた。
「十代目?! お顔が真っ青です」
「それどうしたんだ?」
 つぶれたポテトチップスの袋を山本に押しつけた。綱吉は短く呻く。
「ちょっと、下行ってくる」骸を探すつもりで玄関まで降りた。骸の革靴はまだ在宅だった。
 彼は、リビングにいた。
 リビングチェアに掛けてテーブルに肘を乗っけて、雪の散る窓辺を向いている。
 普段の彼が横暴に振る舞っているのを知っているので、綱吉は、彼が膝を揃えてただ座っているだけの姿にハッとした。彼は肩を落としていた。
 足を踏み入れるのすら、躊躇われたが。綱吉は半ば吸い寄せられて突入した。
「骸、やめるんだ。今すぐ!」
 口にしてから悟った。雪は降っていなかった。外は、曇っているだけだ!
「骸。やめろ!!」
 彼は身じろぎもしなかった。
 歩み寄り、肩を掴んで無理やりふり向かせた。骸は虚ろに綱吉を見上げた。
「自分に幻術をかけるな! 牢屋にいた頃はそれでよかったよ、でも今は違うだろ?!」
「放してくれませんか」
 冷酷な声だった。
 尚も引っぱれば骸が激昂した。
「僕に構うな!!」
「うわっ?!」蹴っ飛ばされたイスが綱吉の足を掬う。骸が、眼を丸くして手を伸ばした――両手で綱吉の二の腕を鷲づかみにして引き留めた。
「――っ」
 がく、膝を折ったが、頭は打ち付けなかった。
 骸が、がっちりと噛み合った視線に困惑しながら、腕の中を見下ろした。
「君の本体に乱暴するつもりはない」
「……なんだ、本体って」
 オッドアイが、細くなった。
 神経質に肺の底からフーッと息もした。綱吉とは会話をしたくなさそうだった。
 立たされたが、今度は、綱吉が縋った。
「おい。骸、眼を覚ませ!!」
 体中が冷たくなった。
「お前が牢を出たのは最近だ! あれから初めて話すだろう? それがホントだ。お前の小さな頃のイメージを見た! お前がヴィンディチェに捕まる瞬間だって見た! 仲間を守るため父さんと交渉してる場面――、お前がクロームの中にいるのも見た! 十年後のお前とも会ったよ!」
 骸が動かない。固まる。
「でもなァ。あれから、オレとお前はな、デイモン・スペードがトラブルを起こすまで会っていないんだよ!!」
「…………」
 汗まみれの横顔と、その向こう、雪が積まれていく窓が見える。
 綱吉は声を上擦らせた。
「わかってるだろう。すべて幻だよ。オレが何を喋っても何をやっても、お前の知ってるものは全部うそだ!」
「言いたいことはそれだけか」
 綱吉には意外だったが、骸はこの期に及んでも余裕を偽った。
 汗はいまだ噴き出ているが――、正気を保っている眼差しが、ふり向く。正直、これも意外だった。
 フッと骸の頭越しに景色がブレた。雪が止んだ。
「……何で雪を降らせるんだ?」
「君が好きだっていったんじゃないですか」
「知らない。そんなこと」
「……」
 淡々とした眼差しが、うざったそうに綱吉を伺う。そして彼は綱吉を突き放した。
「僕はどんなになろうが幻術師だ」
 うそつき。そう言ってしまえたら楽だろうと思った。けれど言えなかった。綱吉が人並み以上にお人好しだからだった。
 骸は胡乱に眉を寄せていた。綱吉にもその理由は薄ぼんやりに理解はできた……、きっと骸は自分のあらかたを理解している。お人好しが過ぎて言えない言葉も、バレている。何度もお人好しと吐き捨てて綱吉を侮蔑したのは六道骸だった。
「信じられないって顔ですね……、僕は幻術を操るんですよ」
「わからなくなったって、この前に」
「そうですね」
 単にその場を濁すための言葉だ。
 ゆるく、かぶりをふって、骸は居場所を確認するように見渡した。居間を。
 綱吉を見下ろすときには丹念に観察した。
「……ゆめを……」遠く響いてくる、木霊のように小さくて、でもどうしても耳を澄ましてしまう、存在感のある音声だった。
「君の夢に入った。君とずいぶん長くいろんなことを喋った。僕たちは永遠を確かに感じられたと思った」
「どういう意味だ」
「永遠です」
 それ以上に具体的な答えはすべて拒否させてもらう、骸の頑なな声には感情が露わになっていた。
「永遠だった」
 頑なに繰り返した。
「僕は永遠を見た。確かに」
「……オレの、夢で?」
「そうです。何も覚えていないんですね」
「夢だったんだろ?」
「君が、くだらない約束を何度も繰り返すのを見て、僕は……、僕は、愚かだった。でも僕が今でも信じられないのは、今も、今日ですら、僕は牢を出たというのに君との時間を夢にみる日があるということ。僕の夢と、君の夢と、そしてこのくだらない現実と、僕はどこにいけばよかったんですか」
 淡々と語る姿はアンドロイドか何かのようだったが、何か、重要らしい。これはきっと重要なんだと思った。骸には。
 綱吉にはひたすらピンと来なかった。オカルト的な感性もセンスもないのだ。顰め面になって頭を左右に揺する。
「ごめん。何のことだかさっぱりわからないよ。っていうか、お前がウソをついてるとしか思えない」
「僕は嘘をついたことなんてない」
「それは、ウソだろ?」
「この件に関しては」
 綱吉は非難を込めて骸を見返した。
 彼はやがて渋々と認めた。
「いえ嘘くらいつきますよ。息をするのと同じくらいにね。でも、今のは嘘じゃない。この誓いも嘘だとを確信したなら、僕を殺してもいいですよ、君が」
「また……大げさな。いい加減にしろよ」
「なんならヴィンディチェの水牢に戻りましょうか。マフィアの誰かを殺して」
「何を考えてるんだよ!!」
 頭にきて叫ぶも、骸は眉間を狭くするだけだった。
 声はずっと淡々としていたが、それがさらに低音になった。
「今日は、失礼します」
 止める理由がない――、骸の手が必要だった箇所は、もう終わった。
「……」
 けれど、誰もいなくなったリビングでもやもやとした違和感を抱えてすぐだ。綱吉は後ろをふり向いた。
 音がする。雨だ。
 骸は、手ぶらで来ていた筈で、しかもまだ近くにいる。
「おい!」
 悩むより先に、綱吉は傘を取って家を飛び出していた。並盛中学校とは反対の方に走っていって、パーカーのフードをふわっと持ち上げた。
「骸っ! 濡れる――」
 真後ろでもって足裏でブレーキを踏んで、そんな綱吉に骸が気づかない筈もなかった。だが骸がふり向いたのは綱吉の言葉を聞いてからだった。
 ぱっと顔を明るくさせた。
「思い出した?!」
「はぁっ?!」
「僕に、濡れてるって!!」
 オッドアイが見たこともない程にきらきらしていた。綱吉は少年らしい骸を初めて見た。けれど、驚き以外に、何も胸に沸くことがなかった。
 骸が夢の比喩に『泡』という単語を使った――、その事実が胸の底を浚う。泡は溶けて消えるものだった。
 次には、口元に何かががつんとぶつかった。
 神経的な痛みに顔を顰めるより先に抱き潰された。綱吉が肩に掛けていた傘が吹っ飛んでいった。
「好きだ」
 傘が、逆さまになって雪解けの水だまりにビシャンと落ちる。鼓膜がくすぐられた。骸の息は蕩けるように熱かった。
「君が」綱吉は、唖然となって骸に抱かれていた。雨が肩口を叩いた。
「初めてわかり合えたと思った。初めてずっと誰かと一緒になりたいと祈った。はじめて抱きしめたっ」
 上下と、左右から、どうしてか心臓が痛めつけられた。
「……むくろ」
 思ってもみなかった声が、出た。
 震えていて今にも泣きそうで、しかも嬉しそうだった。けれど綱吉はゾッとした。心底からあきれ果てていた。
「おまえ、懲りないんだな? どうするんだ? 嘘だったら殺していいって?」
 骸のしょうもなさに呆れて――、呆れているだけだ。
 しかし、胸ぐらを掴み挙げられたのは綱吉の方だった。塀に叩き付けられて、肺が引き攣った。
「あぐっ?!」
 骸が凍りついていた。パーカーを破りそうなほどキツく握り、血管が浮き立った拳を綱吉の胸にめり込ませていた。
「きみだ。嘘吐きは――君だろ?! 君がッッ……、自分がどれだけ僕を失望させたかわかってんのか?!」
「……てっ…めえ、殴るのか」
 火が付いたように、低い声が口を滑る。
 骸が、その声に触発されて振り上げた左手へと眼をやった。あと一秒も遅かったら綱吉の顔面を強打しただろう拳があった。
「……っ!!」
 オッドアイが輪郭をぶわっと広げた。今にも殺したそうだった。しかし骸は歯を食いしばった。
 沈黙は短かった。
 すとん。綱吉の足が地面に着く。
 綱吉は骸を睨み付けるのをやめなかった。こいつロクでもない、しみじみと感じ入った。骸は弁明を望んだ。
「……違います。僕はこういうことをしたいんじゃ、」
「振り回されるこっちの身にもなれよ」
「……僕はっ……!!」
「お前が夢を渡り歩くのはホントかもしれないけど、夢でのことなんか真に受けるなよ。幻術師なんだろ?」
「ええ、はい、君の言う通りだ」
 掠れた返事だった。骸は葛藤していた。綱吉は、自分がボンゴレ十代目だというのを思い出していた。
「オレの体が狙いだって言ったよな」
「ちがう。……今更、信じないでしょうけど、デイモンとの戦いで君に殴られたあのときには君の心が欲しくて君にすべてを許した」
「信じられないな」
 骸は、一分ほどただ沈黙した。そして呻いた。
「これが自由への代償だというのなら、僕は……」
 一瞬、目の前にいるのに、それを骸の声だとは思えなかった。「望まなかった」と、多分、そうセリフを続けたのだろうと綱吉は想像力を働かせる必要があった。
 悔しくてたまらなさそうに、骸は目の色をぎらぎらさせていた。
「あまりに惨めだから!!」
 それでも唇は笑ってきていた。嘲りは一本調子だった。綱吉は眉を寄せる。確認はしておこうと思った。
「オレのこと、好きなのか?」
「恐らくは」
「困る。そういうの。……友達にしたって……友達だって思うにはまだ早いよ。守護者だとは思ってるんだけど」
「僕にはすべて遅すぎましたよ」
 浅く歯を見せてくる。綱吉には骸の本心がまったく読めなかった。
「仲間だと思ってるよ」
 言い直した。
 クフフ。骸が声に出して笑っている。
「フォローですか? 傷口に塗り込んだ塩のように効きますね」
「おまえ、ヒネくれてるな!」
「クフフフ。はは」
 乾いた笑いをおざなりに漏らして、やがて、骸は肩をすくめる。水分を含んだ髪を手で後ろにどかした。
「わかりました。では、君の仲間として……いえ守護者として、僕に何をお望みですか?」
「ふつうにしてくれ」
「具体的に」
「キスはやめろ。……命令なんてする気もないよ。好きにして良いよ」
「君は本当に酷いヒトだ」
 骸がマフィアを憎んでいるのを綱吉は知っていた。だから言う。
「オレに命令されるのはイヤだろ? 骸が好きにやって、ピンチになったら助けに……きてくれる、今までだってそうだったよな? それじゃだめか」
「……」骸は曖昧に微笑んだ。
 オッドアイだけが、左右で色の違う原色を揺らめかして、底の方でぎらついた。怒ったように見えたのは一瞬だった。
「僕は、友達じゃなくて、君の仕事仲間だというんでしょう。有事にしか必要とされない。なのに仕事を与えない。どこかへ追い払いたいんですか?」
「そんなつもりじゃ……ないよ」
 仕方なしに、何かを――、仕事に値するだろうものをひねり出す。
「ヴァリアーは? よくわかんないけど仕事があるみたいだよ。骸がやりたければ」
「クフフフフフ」
 口元に指をやって骸が怪しく笑う。雨が彼の髪を黒く染めていた。
「マフィアをやめるなんて言ったのが嘘のようだ……、儚かった。夢ってなんて儚いんでしょうか。人魚姫でも追いかけていた気分だ。彼女は水中に戻った」
「いっとくけど、ヴィンディチェに戻ったりしたら許さない。みんながどれだけ心配したと思ってんだ!」
「……君も? 心配した?」
「当たり前だよ」
「でしょうね」
 オッドアイが、焦点を失った。ぼやけていって不明瞭な色になった。
 骸は、綱吉の声にだけ、耳を澄ませた。
「君は博愛主義なんですね。夢がないひとだ」
「骸は夢見がちだったんだな」
「くは。はは。君以外から言われたら僕は絶対に否定すると思うんですが、君がそういうのならば真実なんでしょうね」
「……おい」
「……僕はここが現実だか夢だか悪夢だか、わかりませんよ」
 浅く、うつらに微笑みながら、骸が綱吉の顔へと屈んだ。キスする間際に綱吉がボソッと呟いた。
 絶対に、骸も聞いていた。
 しかし彼はやめない。
「この件に関してウソはつかないって言わなかったか」
「……」
 雨の音が続く。
 重ねるだけのキスはそれなりに長かった。
 一歩を下がってから、骸が何でもないように偽装した。
「単なるお駄賃ですよ。ではね」
「どこに、いくんだよ」
 綱吉は呆れながら問う。
「輪廻転生って知ってますか」
「生まれ変わりな。お前のせいで知ってるよ」
「僕の瞳が持ってるスキルです。ぐるぐる、めぐって、抜け出せない。魂をそうやって閉じ込めてある。だから僕は六道輪廻の六つのスキルが生きながら使いこなせる。でもね、生きながら、輪廻転生を味わうなんて思ってもみませんでした。ここはさながら三度目の人生だ」
「一度目って?」
 分かっている気はしたが尋ねる。骸は子ども時代を回答した。聞かれずとも、次を答えた。夢だという。夢の世界は楽しかったという。
「夢は覚めるものだ」
「ええ。だから今が三度目。人生ってなんでありがたくないほど変わりやすくて惨めなものなんでしょうか」
「骸。どこにいくんだよ」
 まさか、もしかして、でもまさか、復讐者の元にいかないかと綱吉はヒヤヒヤした。骸は見透かしたように笑った。
 踵を返しながらの後ろ手で、合図だ。
「ボンゴレ十代目は知らなくてもいいことだ。では、いずれまた。アリーベデルチ」
「……わかった」
 雨はまばらで、傘はひっくり返っていて、おまけに骸のために持ってきた傘すら地べたに転がっていた。
「…………」
 思い返せば出会ったときからネジが一本外れていた。骸は。
(……でも、考えてみたらオレって昔っから夢をほとんど覚えてないんだよな。ふつーはみんなそうなんじゃ)
 それが、骸には違うというのなら……。
 彼に倣って背を向ける。傘を拾った。道の端に溜まっていた雪が雨でボコボコに穴を開けられていた。
 言いようのない寂しさが理由も無く綱吉の胸にこみ上げた。
 彼が、フランスに旅立ったと聞いたのは翌日のことだ。

 




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