逢魔が時

 
「骸ちゃん、買ってきたわよ」
「準備、ばっちりィ〜だびょん」
「出発時刻はヒトヨンマルマルです」
 大人達の言葉を文字通りに見上げつつ、カエルの着ぐるみを被った子どもが呻く。
「モタモタして出遅れたりしてー」
 カーテンの向こうでは、既に女が購入してきた衣装が渡してある。
 一同は待った。しかし物音一つしないので、いくら主人が隠密に優れているといっても不審に思った。弟子が、痺れを切らしてカーテンを開けた。
「何してンスかー? まさか、怖じ気づいたとかー?」
 骸さん? 骸ちゃん? 数々の疑念の声を背にして、少年は動きを止める。クールな半眼で肩越しにふり向いた。
「だめっすねー。逃げちゃったみたいでっすぶっ」
「ちょおっ、わたしと再会の抱擁するべきでしょここは骸ちゃん!!」
「もー、やめてくださーい」
 カエル頭を張り手で押しのけられ、少年が苦痛を漏らした。M・Mが拳を握って開け放たれている窓に叫ぶ。
「出発は二時よ骸ちゃん!!」
「――――」
 耳敏くも聞こえる。
 ――己の体が、正常に機能している。
 そのことに対して一片の疑問を抱きながらも彼は静かに両手を伸ばした。
 十本の指が、風を掻いた。
 大気を感じる。空の気配がある。自分の頭上にどこまでも続く空間が存在する。
「……寒い」
 囁きはすぐ虚空に蕩けていく。
 キュ、と、五本指分の穴の空いた手袋を右手に嵌めた。ブーツの足で青草を踏みつけていって、廃屋から離れていく。
 彼らの協力に感謝の念はあるが今は一人になりたかった。
 深い森が広がっていた。
 幻夢の世界でみた瘴気に煙る木々ではなくて、現実にある単なる森だ。現実という名の重みのある風景をしばし見上げつつ、ただ歩いていった。
 そうしながら、彼は後ろでばらばらにほつれていた髪の毛に手をかけた。
 腰の下まで伸ばしているそれを、首の真後ろで、両手でひとくくりにして束ねる。細工の施された留め具を嵌めた。手を離せば、ロングテールのようにして左右に振れた。
「……――これがリアルか」
 ガッとしてブーツが踏みつけたのは断崖に聳える岩石のひとつだ。
 高みから森の海を見下ろし、彼は、ゆるやかに口角を釣り上げた。斜め上に伸びたその唇は荒れ気味ではあったが元々の形の良さを窺わせる上品なラインを描いている。しかしそれも酷薄に歪んで乱れた。
「クフッ……。クハハハハッハハッ」
 上半身を弾ませてげらげらした放笑をつづければ、後ろ髪のテールが跳ねる。
 重い。自分の体が重いし、冷たい空気は寒かった。
「おやおやおや……っ」
 ひどく緩慢な手つきで自らの胸に触れて、そこに鼓動があることを確認して、男はますます気がおかしくなったように笑い続けた。
 気が済むまで森を見下ろすと、ナナメ上の空をみやった。ひとよんまるまる。さほど猶予はないのだ。
「クフフ」
 人差し指の関節を下唇に宛てて、肩で笑い、六道骸はその色違えの両眼をしならせる。
「これぞ輪廻転生というのか? ……また、巡り会えるとは、この世の幸運といいますか永久の春といいますか。ともかくも君には借りがある。僕へのツケは君が体で払うことになる」
 言葉の途中から、彼が見下ろしていたのは右手の中指に嵌めてある指輪だ。
 ヘルリングと呼ばれる魔のアイテム。彼自身は一度も自らの体に付けたことがなかった――霧のリングは、骸が生身で触れることもなく沢田綱吉によって壊されてしまったけれど。沢田綱吉もまたヘルリングに触れたことはないのだ。
「僕が、契約を果たしているのはこれらの魔だ……。君はどんな顔をするんですか?」
 断崖の下まで声が響く。その感覚が堪らなく心地良かった。
 今この瞬間、世界の支配者は己だと実感できる。
「――逢瀬が待ち遠しくなるな」
 僅かに下顎を下げて、人差し指を持ち上げて、そこにつけてある血走った目玉を摸したヘルリングの瞳孔に口付けた。
 監禁中に伸びてきた前髪が、男の頬や顎を覆い、誓いを摸した筈の行為を淫猥なものにした。暗い微笑みが頬をゆるやかに切り割いた。ぺろり。目玉に舌を這わせる。苦い。きっと彼は再会に苦い顔をする。堪らない。含み笑いが止まらなくなった。
 後ろ髪をはたはた揺らした果てに、それは十分間程度のことで、青年は踵を帰した。
 廃屋まで戻ると、開け放った窓から女が顔を出しているのと出会う。
「骸ちゃん! おかえりなさい!」
 にこりと、男は杓子定規に朗らかな笑みを浮かべて見せた。
「M・Mですね? お会いするのを楽しみにしてましたよ。クフフフフ」
 窓から、室内へと戻った。 





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