人でなくとも
六道骸は人間である。
けれども、今、彼は人間でなくても良いだろうと考えた。
目の前にある色素の薄い首筋から視線が外せなかった。触れてみれば冷たいのだろうか、暖かいのだろうか。少年は目尻を吊り上げて子供たちを怒鳴りつけた。
「ランボッ。いい加減にしろ! 室内での爆撃は禁止だ!」
げほげほと咳き込む声があたりから響く。首筋が遠のいた。
体を起こした沢田綱吉は、煤けたテーブルに顔を顰めつつも、元の通りに家具と座布団を並べた。
山本武と獄寺隼人がその上に乗る。隼人は自分の拳を撫でていた。ランボを殴りつけたのもその拳である。
「…………」縄で縛られたままの格好で、骸はベッドの脇に横転していた。
綱吉が、目蓋を半分だけ閉じて彼へと振り返る。
「なんだよ。立てないのか?」
「十代目。だめですよ。触るときっと噛みますよ」
「そんな、動物じゃないんだから」
動物みたいなもんだろうと、即座に胸中で囁いたが、骸はニコリと笑って頷いた。
「思い切りやってくれましたからね。縄の食い込みが強くて思うように動けません。おまけに、たった今の頭突きでダメージがあります」
むっとしたように綱吉が後頭部を触った。半眼で六道骸を見下ろし、間を挟んで、肩をとってグイと上体を起こしてやる。
「ありがとうございます」
嬉しげに頬を赤らめる骸だが、この場の全員が、それが演技であると知っていた。骸が知っててやっていることも、わかっている。
ぶすりとして、獄寺がベッドのリボーンを見上げた。
「どうするんですか。コイツ。イタリアに送還ですか」
「イタリア行ったら死刑なんじゃねえの?」
緊迫感もなく、山本が呑気に言った。リボーンが頷いた。
「ほとんどそうなるだろうな。電気イスか縛り首が、薬殺かは知らねーが」
骸は感慨もなく彼らを見渡した。後ろ手に縛られたままで、胡座をかく。左右で色の違う瞳は綱吉の横顔でぴたりと止まった。ブラウンの瞳も、骸を眺めていた。かち合ったことで動揺したのは綱吉だ。不自然に、リボーンへ反れた。
「今回は、ボンゴレに入れようとしないんだな」
「ボンゴレを殺そうとする上にマフィア嫌いときた。ツナ、テメーは殺されてえのか?」
「嫌だよ。でも、これで見過ごしたら死んじゃう人が隣にいるのに、ただ黙って眺めてるだけなのも。いや、だよ。何も殺すことはないじゃないか」
骸は眉根をヒョイと持ち上げた。言葉を発しはしなかった。
「おめーはボンゴレにいれてもいいって考えてんのか?」
「う……」声が震えていた。
骸は目を細める。山本は変わらずに呑気な眼差しを綱吉に注ぎ、獄寺は睨むといってもいい眼差しを綱吉に向けていた。先程よりも長い沈黙の末に、綱吉は呻き声をこぼした。
「日本にいられる理由に、なるなら。アリじゃないか」
「ほお。骸がお前に襲い掛かった場合は?」
尋ねながら、小さな黒目が向かう。
骸は、鬱蒼と笑って見せた。作り笑いとは違った、陰湿な漆黒を思わせるやり方だった。
「襲いませんよ。貴方がたは、この縄を解く。イタリアに私を送らない。私は、ボンゴレを殺さない。ボンゴレファミリーに加入する。条件に不服はありません、すばらしい裁定ではないですか」
「テメーにばかりイイ条件に思えんぜ。そっちからは?」
「資金力。今ある資産を丸ごと貴方がたに引き渡そう」
「なるほど」リボーンが頷いた。
獄寺がタバコを握りしめ、ケースのへこむ音が響いた。
「反対です。絶対によくねえ。コイツの約束なんかアテになるか!!」
「ハハハ。そうだな〜。でも、マフィアごっこにも金は必要だよな。前の市民会館ぶっこわしとかさ、金があればバイトしなくてすんでたぜ」
うっと息を飲む獄寺だが、飲んだ理由は、突っ込みの適切さというよりも、いまだに山本がイタリアンマフィアに勘付いていないことが露呈したための脱力からであった。
骸は両目を細くして、綱吉を見つめた。頬は朱色に染められていた。
「あと、お望みなら尽くしてあげますよ。それこそ恋人が献身するように」
わざと不適切な表現を選んだ。この場にいる全員が勘付いたが、指摘するものはいなかった。綱吉は唇を一文字にして、首を振った。縦に。
「六道骸のことはこれで決まり。リボーン、いいな?」
「まあ、いいだろう。ツナも言動に責任をもつってことを勉強するいい機会になりそーだしな」
いくらか含みのある物言いだ。骸だけが微笑した。
「縄を解いてください。いい加減、痛くなってきました」
「ああ。わかった。じゃあ、骸は呼び出されたらすぐに来るってことで。あとは、いつも通りに学校行って好きにしてていいよ。犯罪以外のことならな」
「了解しました」ハサミは、漫画と一緒に並べられたカンケースの中にあった。
背中を綱吉に向ける。手首を雁字搦めにしていたものが落ちていく感触。
両手を眼前に持ってくると、縄目にヘコんだ痕がクッキリと浮かび上がっていた。赤く変色している。痺れはあったが、動かせないほどではない。
「……ありがとうございます」振り返り、薄く微笑んだ。
作ったものとは少しだけ違っていた。細められたオッドアイが何かを語っていた。
綱吉は「いいえ」と返すだけで、獄寺たちへと向き直った。
「呼び出したのはコイツのこと決めるためなんだ。あと、山本。腕のことなんだけど」
「ああ。リハビリ中だぜ」
口元を吊り上げ、山本はギプスのついた腕を持ち上げた。リボーンがニヤリとする。
「ボンゴレ特製のリハビリマシーンが届いたぜ。試してみるぞ」
「へえ。効くのか?」
「なくした骨だって生えるぞ」
ベッドからピョンと飛び降りる。
リボーンと山本は連れ立って部屋をでていった。
さすがに生えないだろうと綱吉がうめくと、静かに獄寺も同意した。山本たちを追いかけようとした足が、とまる。六道骸は、指先を綱吉の首へ添えていた。
「おいっ、山本! 十代目の家に穴あけたら承知しねーぞ!」
気がつかずに獄寺が部屋をでる。骸は、青褪めた綱吉の横顔を背後から覗き込んだ。
「意外ですね。君のように甘ったるい人間だのに、僕と同じで肌が冷たい」
人差し指と中指が隣り合って並び、うなじを行ったり来たりする。プクプクと鳥肌が立つ肌に気がついて、骸が笑った。綱吉が強張った声でうめいた。
「いきなり約束を破るんですか」
「いいえ? ただ、触ってみただけです」
「……何のために」緊張で声が震えている。
クハハハと笑い声が少年の鼓膜を揺さぶった。
「暖かいのか冷たいのか、それが不思議だったんです」
肌を撫でさすりながら、骸はますます口角を吊り上げた。人間でなくとも良いだろう、先ほどと同じ言葉を胸中で繰り返す。綱吉の耳へと唇を近づけた。
「いっそ僕が吸血鬼だったらよかったのかもしれない。噛む理由ができるし噛まれても君は不思議に思わない」
「何を。言ってるんですか?」
「噛み付いていいですか?」
は? と、室内に立ち込めた空気に反して頓狂な声をあげた。
その一秒後に綱吉の体が跳ね上がりながら強張った。
骸が、歯を剥き出しにして首筋に噛み付いていた。
「イッ……?!」犬歯の喰いこむ音がリアルに脳天を走る。
みしみし、軋む悲鳴をあげて、犬歯の周りに血が浮かび上がった。
「い、いてえ! イテーよ! 何すんだ!!」
綱吉の右手は骸の右手に、綱吉の左手は骸の左手に握りこまれていた。目尻に涙を浮かばせ、恐怖に混乱した眼差しを背後の骸へと向ける。ギクリと少年の全身が硬直した。骸は間近で振り返ったブラウンの瞳を静かに見返した。距離は十センチもなかった。
「……………?!」骸は内心でほくそえんだ。
驚愕で見開いた瞳が、自分が愉悦に身を浸していることを感じ取ったことを確信した。
そっと、骸が肌から口を離した。最後に軽く吸い上げた。小さな血の丸が二つと、所有印のような赤いシミが首筋に刻み付けられた。赤目と青目が伸び上がり、距離を五センチに縮める。
綱吉が後退ろうにも、骸は背後にいるのだから叶うわけがなかった。
「吸血鬼ならば、これで君は僕に従属してしまうんですよ」
「なっ……。に。なんだよ」
混乱に迷いながらも、ブラウンが睨みつける。
「この手を放せ。命令だぞ、六道骸!」
「わかりました、ボンゴレ」
両手を開く。綱吉は飛びつくように扉へと走った。
動向に注意を配り、首筋を辿って思いきり顔を顰める。
「君にお似合いのものをつけてあげたんです」
「歯形が、か? お前って変態かよ。何考えてんだよ!」
骸は涼しげに少年の憎悪を受け止めた。
歩み寄れば綱吉の肩が強張る。ホネばった手のひらは、少年の背後にあったドアのノブを掴んだ。
「あの野球男を追いかけるんでしょう。いかなくてよいのですか」
茶色い瞳が不審げに明滅する。骸は笑っていた。見下ろす沢田綱吉にはの首筋には赤い血だまりが二つ。それと、赤いシミとがこびりついていた。
ドアは外側から開けられた。
開けた張本人である獄寺は、目を見開かせて骸と綱吉とを見比べた。
「てめぇっ。必要以上に十代目に近づいてんじゃねえよ!!」
クフと密かに嘲笑って、骸は獄寺の脇をすり抜けた。
「大丈夫ですか? 何かされませんでした?」
「ああ」浮かない声だった。ため息のように続けて呟いた。
「なんか、やっぱり噛むみたい」「は?」
クッと喉を鳴らして、階段を降っていった。
終
06.1.14
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