ちょこれーとはほうふくする
昔、冗談で約束した。
「君が死んだら、棺にいっぱいチョコレート詰めてあげます」
「嫌がらせじゃないか? それは」
厭そうに眉を寄せて苦笑する彼の手にはゲーム機のコントローラーがあって、彼の肉体は、僕の腕にすっぽり収まっていた。
「バレンタインは特別ですからねえー。花のかわりに。君の死体はきっと良い匂いがこびり付く。僕が食べてあげますね」
「いっそ燃やしてくれよ!」
彼の眼差しには磁石が入っているに違いない、そう感じるのは一目見たときだ。
予想通りに、上目遣いで睨んできている。
ゲーム画面はポーズがかかる。ぴ、ぴ、液晶テレビで丸くて奇怪な生物な明滅していてポーズだよとかセリフを出しているが。
「いやですよ……、死体はチョコの海に沈めてあげます。僕はそれを舐めて余生を過ごすんです。死んでもいっしょですよ」
「死者の冒涜っつーセリフ、漫画とかで、見るんだけど」
「これは僕の愛です」
「みッ、耳に舌をいれるな!」
腕で体を閉じ込め、寄せている唇からソッと舌肉を差し出し、彼の狭い肉道を堪能する。
乾いている肉道だ。耳のなかをくじってみると綱吉は僕の腕にしがみついた。コントローターを捨てて暴れ始める。
「はなせよ。く、くすぐったい、やっ、ちょおおっ」
「綱吉くんの声って甘いですね……」
横目でうかがえば、机には互いが互いのために用意したチョコレートの箱が置いてある。
今日はバレンタインデーだ。
僕たちは、僕たちのために約束を交わして今日を待ち伏せて、こうして同じ時間を過ごしている。反対の耳にも同じような愛撫を施そうとして綱吉の頭を横にどける。
と、爪を立てない指先が、僕の顔に突き立った。
「骸! ゲームの邪魔すんならでてけ!」
「僕の恋路を邪魔するの、よしてくれませんか? 君こそ」
「主語がおかしいだろそれは!」
「大人しくしててください。気持ちよくさせてあげますから」
「だあああ! いらないっ!」
油断すると引っ掻いてきそうな指先は、僕から掴んで拘束する。その指先にキスをつけて僕は深く思ったものだ。*
「あぁ、今、幸せだ――、ってね」
パキン。歯で噛んでから手首をひねれば板チョコレートは半分が砕けた。破片はスーツの襟に落ちて、跳ね返り、草むらにまぎれていく。
鳥の鳴き声がする。生き物の匂いがする。雨があがったあとの臭みがほんの少し。
腰掛けている棺は、硬かった。
椅子には適さないがここは僕の席として彼がかつて約束したものだ。だから僕には尻に敷いていい権利があった。
パキン。もう一口、板を割る。今度はいびつな形に崩れた。
口からはみ出すチョコのかけらを唇だけの蠢きで咥内に持っていく。濃厚。甘味。嗜好品でしかない、栄養のない、脂肪とカロリーの塊が僕のなかへと溶けていく。
パキン。また一口を食べる。
棺に掛けて足を組み――。ブラックスーツでいくらかキメて、僕のような男がこうしてこの日にただ喪に服している。
変な気分がした。不思議と、そんなに悲しくなかった。ただ。寂しい。
「君は変だっていつも言っていましたが、僕は好きなんですよ。チョコレートって。人の愚かさを象徴する食べ物じゃないですか? なんでこんなに甘くて、食べやすくて、美味しいんでしょう。人体には必要なものではないのに求めてしまう。これはカロリーではなくて人の欲望というわけだ。人って馬鹿ですよね」
パキン。酔狂なことを言ってみても返事はなかった。
板のチョコレートをすべて食べてから、僕は棺を静かに開けた。白い花に囲まれた青年が眠っていた。
彼のために持ってきたチョコレートは、いちおう、僕の足元で箱に詰めてある。
リボンを自分でほどいて、高級な粒を――宝石と同じくらいの値段がする特別なものを、死んで青褪めた唇に押し入れた。
彼は、死んでも唇がやわらかかった。
「……君からの、甘いキス、くださいね」
口付ければチョコの甘い味がする。夜もふけ、チョコレートもなくなり、僕は棺を閉じてから森を立ち去った。*
沢田綱吉が死んだ。僕は白蘭からは仇を取れなかった。その後にクローム髑髏から読み取る情報で彼の裏切りを知った。
やはり、彼が死んでからしばらく経ってみても僕が疑問であった通りに、僕はたいして悲しくはなかった。死も裏切りも悲しくなかった。
ただ、胸に穴が開いた感じがあった。寂しかった。
その寂しさのせいで、彼の生還を喜ぶ気があまりしなかった。
「骸!」
童顔で背が低くて、あの日のバレンタインデーとほとんど同じ姿形で沢田綱吉はそこにいる。服は白いパジャマ。
眼を丸くして、僕の体を見つめた。
「……生身の骸なんだなっ?」
「え、まあね」
招かれた寝室に眼を向けていると、胸に綱吉が飛びこんだ。寝巻き姿だった。
こちらは、白蘭との戦いに挑んだときと同じ格好だ。あれから忙しくて新しい服を用意する時間がなかったからだ。
「骸。おかえり。会いたかったよ」
「…………」返事を――、そうは思ったが、口が凍った。彼にかけられる言葉は何もない気がした。鸚鵡返しになった。
「おかえりなさい。君こそ。沢田綱吉」
「オレは。いいんだよ。結果的にうまくいってホンットーによかった。こんなに冷や汗でたのは生まれて初めてだ!」
「意識を取り戻してから、ですか?」
「そうだよ。よくもまー上手くいったなぁって! 十年前のオレに詫びを言えなかったのは残念だけど……」
言いながら、複雑そうに僕に上目遣いを送る。
急に懐かしくなった。
卑屈で、すこし狡賢くて憎たらしい、たしかにこれは沢田綱吉だった。僕が昔から愛でている人間だ。
「詫びですか。それは残念ですね。君がそれを言える口を持ってるとは意外ですよ」
「……怒ってるか?」
「いえ。特には」
ウソではあったが、生身の肉体を持ってして沢田綱吉と向き合っているせいか妙に気が引けた。
怯えているのだろうか、少ししてから気がついた。綱吉が僕に詫びたときだ。
「ごめんな。仮死状態になるってこと、骸にも言わなくて……。必要最低限に知る人間を抑えなきゃいけなかったんだ」
「……僕は、脳が、復讐者の支配下にありましたからね。最悪の場合は何が起きるかわからない。大方、雲雀恭弥が口止めさせたんでしょう?」
「そ、そうだけど。ヒバリさんを恨むなよ。オレも賛成したんだ……」
そう言いながら僕を見上げる瞳は、憂いに曇る。彼の秘める感情がわかった。
僕を騙して、裏切ったくせに寂しがるとは。
「君って本当にいい度胸してますよね」
「……おい。怒ってないんだろ」
「…………」
もう一度、室内を見渡す。
沢田綱吉の寝室だ。ボンゴレ邸宅の奥深くでひっそり拵えてあるプライベートルーム。ここに招かれた意味は、まぁ、わかってはいるつもりだが。
「この部屋は防音はカンペキなんですか」
「そう思うけど」
「君は見たところ殴られる覚悟は固めてるみたいですね」
「……や、やっぱ怒ってるんだろ?」
「当たり前――」小首を傾げ、顔を覗いてこようとする顔が――あまりに中学生のときの彼そっくりだったから腹が立った。
「だろー、がっ!!」
力任せに拳で殴りつけると、綱吉は頭を左に飛ばしながらくるくる回った。
「うわぁああ?! っ、こ、小出しに怒るマネは心臓に悪いんだぞっ?! 怒るならはっきり怒れよ!」
「この裏切り者が! 死ね!」
「あっ、い、生き返ったばっかなのにそれは酷いっ――」
腫れた右頬を手で抑え、綱吉は壁にもたれて額を青くしている。そのパジャマの襟を引っ立てて揺さぶった。
「君は無神経もいいところだ。僕の絶望など知らないというんだろう、最後には丸く収める気でいたからそれでいいというんだろう!!」
「ま、丸く収まったじゃんかぁあっ」
「君が憎いです。最低だ!!」
「お、お前にそんなこと言われる日がこようとはっ、わっ、な、殴って気が済むならそれでいいけど口元はダメッ」
「アァッ?」
平手打ちもやってやろうと、右手を振りあげたところで綱吉が慌てた。
ベッドに、体を投げてやる。綱吉は僕もベッドに乗るのに気がついてサッと奥へ逃げた。追いかける。
「なぜです。この期に及んでまだ保身を考えるんですか? 今夜は酷くされたいんですか、そんなに?!」
「ち、ちがう。……むくろが」
「ガキじゃあるまいし、君と僕の個体の違いもわかっているつもりだ。君の自由意志を損害する気はない。僕は君を本当に愛しているから。でも君がそのつもりなら」
「待てってば。オレも骸をぐちゃぐちゃに傷つける気はなかった!!」
片手で口を抑え、片手をぶんぶん振って、綱吉が何かを焦る。歯切れの悪い言い方が引っかかった。
「――僕に隠し事をまだしてますね」
眼が血走ってくるのを自覚する。血管が浮き立ってくるのが音として聞こえるようだ。頭に血が昇る。
「待て。まて、いいから待て」
のし掛かっている僕の両肩に、手がかかる。
綱吉が背中を持ちあげて唇を重ねてきた。
「落ちつけ。ごめんな。骸……、ん」
「……、――?」
舌を迷わずに絡ませてくる、最初にそれで違和感を持つ。綱吉はぬるぬると自ら舌を踊らせて僕を誘った。
「……死んでるあいだに売女になりましたか……?」
「ばか、いうな。あのな……」
「――――」
舌を誘導されて、やがてあることに気がつく。
ディープキスを中断した。手をだして綱吉の口に指を突っ込む。上あごは右手で、下顎は左手でつかんで、がばりと開けさせた。
「ふがっ?! む、ひゃひっ」
「君……。うわ」
咥内を眼で確認して、指でも触ってみて確認する。
綱吉が嫌がって服を引っ張る。素直に引き下がった。尋ねてみる。
「なんでそんなに虫歯が」
「おまえなぁ!!」
顔を真っ赤に、綱吉が唾を飛ばした。
「――き、聞こうと思って……ッ。おまえ……ッ、死んでるオレに何した?!」
「…………!」
「お、起きたら、口んなかチョコの味すごかったし、歯ぁ痛いし、歯医者に診てもらったら虫歯がもう十箇所もあるって! 心当たりはあるかって言われて――、い、いつだったか……その……覚えてるか?!」
「覚えてますよ。あぁ……、あー。君が死んだらチョコ責めにするって約束でしたよね。約束守っただけですが」
「なんか違うぞっ?! っつーか何してくれたんだよ! 神経引っこ抜くトコまであるんだぞーっ?!」
「綱吉くん。落ち着きましょうね」
相手の手首を掴み、ベッドに押しつける。顔を赤らめながら、綱吉は涙目になって悔しがっている。
「――天罰ですよ。君への」
にや、思わず勝ち誇る。
「神経抜いたんですか? もう? 痛かった?」
「こ、これからっ……」
「へえ。言っておきますが、僕は本気で死んだと思っていた。不可抗力ですよ。君の浮気の罰ではない。君が自滅しただけだ」
「骸のせいだ。つ、次にもしオレが死んだらもうこんなことするなよ?!」
「次があるんですか? これだからマフィアってやつは……」
心底からうんざりできたが、寝そべる綱吉を真上から見ていてようやく体が熱くなった。
理由もなく涙が出そうだと思った。沢田綱吉が生きて目の前に戻ってきたのだ、現実は重くてながらく幻想に生きた僕にはつらかった。これ以上ないほど動揺している。胸が痛かった。
「君を、ここから連れ出したい。だめですか」
「……っ!」
瞳のガラスのなかで瞳孔が震えている。掻き抱いた体はあまりに細くて僕の知っているマフィアとはかけ離れすぎている。
「僕のそばでなくてもいい。もう普通に生きましょうよ。僕はどうなってもいいから、君は安全だという保証が欲しい。僕は安心したいんです。君が幸せだっていう安心だけはいつまで経っても僕にはわからない。マフィアが嫌いな僕にはその只中にいて幸せだという君がまったく信じられない」
マフィアでいること自体が、綱吉には毒だとしか思えない。僕はいつもそうだ。だから、綱吉も僕も苦しめる。
「むくろ。い、……いたいよ」
「ハンパな言葉でごまかすのはもうやめてくれませんか。ダメなんですか? おかえりなさい。綱吉。君が好きなんだ」
体が、震えている。華奢な肩がわなないている。仲間がいるから。おれの居場所だから。もう何度も拒絶は聞いた。
「おかえりなさい」
もう一度言ってきつく抱きしめる。
抱き竦められている肉体は、あるところで力を失った。僕の背中に手のひらが這ってきて綱吉が息苦しそうにうめいた。
「痛いよ……。おかえり。骸も。もしかしたら、初めましてっていうぐらいの懐かしさだけど」
「答えろ。ダメなのか? なぜ?」
「おかえり」
僕にしがみついてきて、肩口に顔を埋めて綱吉は顔を見られまいとしている。
垣間見える目元が、赤く腫れている。泣いている。後頭部に手をやって胸に押込めた。こうして瓶にでも詰めて持ち帰ってしまえたら神に感謝する気にもなるのに。
消え入るような泣き声が漏れてくる。声の大半を服が吸ってしまった。
「虫歯の、治療、終わってから考える」
「――」これだけ想っているのに、この男は――、僕の思い通りにならない。愛しいのが一挙に殺意にまで傾くような衝動が胃を焦がしたが、頷いた。心のなかが苦味でいっぱいだった。僕にこんな感情を教えたのはこの男で、これをすぐ甘くしてしまえるのもこの男だ。
「治ったら、今年の分まで一緒にチョコレート食べましょうね……」
くちづけの最中に綱吉があごを引く。頷いている。僕は、僕自身のことがかわいそうになってきて、僕のために涙を流したい気持ちになった。これが悲しいという感情なんだろう。でも綱吉は捨てられなかった。まるでもう僕の半身だった。
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