満足について






 何に試されているのだろうか?
 神? 悪魔か? 世の中というのはときに目に見えない集合生物のように不気味にうねって生身の肉を包む。
 狙われれば、母親に見捨てられた子どもと同じく疎外感を日がな更新していかねばならない。
 それを、運命と呼んで諦めるのは、誰にでもできることだ。
 僕の考えでは運命とは必然でも訪れるものでも無くて、生まれたときからの不公平を清算するためのものだ。再分配の機会とでもいえる。
 僕は、再分配を少しでも多く得るために尽くさねばならなかった。
 過去にある白衣の男が言った。
 僕は、頭がいい。
 無垢だったその時代の僕はそれを信じて少しばかり嬉しくもなった。多くの殺人者を見た。多くの殺された子ども達を知っている。
 過去にある子どもがふたりして言う。
 むくろ。むくろさん。
 初めて名前に意味を感じた。それは僕を示してるという単純な意味で、でも当時の僕にはとても新鮮で難しかったものだ。無味乾燥だとばかりに思っていた世界に色ができていった。
 過去にある男は言った。
 ――その万年筆、骸のものか?
 答えは「否」だと思う。まったくもって違うものだ。死んだ男の名が万年筆の側面についているのだから。
 犬は僕にそれを贈って僕も使いはしたが、それは、僕のでも犬のでもなかった。
 あのとき。はじめて好意だけの贈り物をもらったあのときに初めて、僕たちには他人のものを奪うのでしか幸せになれる手段が無いのだと僕は思い知った。
 皮膚の直下で血が泡立ってボコボコとうなる。囚われた水牢の中と同じく。
 人は血肉に囚われるものであるといっても、この動悸は煩わしすぎて、僕は、僕の貧しさに哀れみさえ覚えた。どうしてだろう。世界は理不尽でやるせない。
 何が――わるくて――なぜにまた、僕はこうも試されているんだろう?
 何が悪いんだ?
 永らく考えたが答えは一つしか認められなかった。
 何も持っていない、それが悪い。
 限りもなくそれが悪だった。母がいない。父がいない。初めから何も持っていないのが悪い。
 僕も千種も犬も、体すら、持っていなかった。
 僕たちは実験によって致命的なダメージをそれぞれで負っている。せいぜい所有していると確信できるのはこの精神だけ。
 なら。僕は、世界中を手に入れてしまいたかった。
 かりそめの幸せしか手に入らないなら、いっそすべてを壊すような幸せが欲しかった。そのときになってようやく僕は生まれてきて好かったと信じられるのだろう。
 沢田綱吉は言う。
 ――「誕生日おめでとう」
 視界から真っ白い波が引いていって彼の笑顔だけが鮮やかに残った。
 僕は、まばたきを大きくやった。
「……」
 眼は乾いて前にせり出す。
 生理的なものが、発汗が皮膚に噴き出てきて血がボコボコとうなり始める。胃袋は締めつけられて縄目が苦しい。
「…………」ただ生まれてきた、どこが悪かったのだろう? 何を試して何に試されてどうして彼は僕にとって試練の塊であり得るのだろうか。
 吐き気がした。
 いっそ沢田綱吉の顔面にでも吐瀉物をぶっかけてやりたくなる。
(すべてぶちこわしたい)彼がもう金輪際、僕の顔を見たくないと願うような仕打ちをしてこの関係を終わらせたかった。
 嫌だ。虫酸が走る。こうも自分勝手でいい加減で移ろいやすくてもろいのに、どうして人は自己矛盾を悟れる生き物としてできあがっているのだろう。人という種を創造した神か悪魔だかは頭が狂っている。
 音がする。何の音もしなくて――、あたりは森の土臭さに湿気る。
 僕の胸から、心臓の音がした。
 口を挟む。思いがけずに静かで、低くて、単調な声だった。
「君は僕のことは何も知らないでしょう」
「いや、誕生日だったんだろ。オレお前に酷いこと言っちゃったみたいだし。さっき見つけたんだ……、落ちてく途中で」
 彼は照れて歯を見せる。嫌いだ、そう告げたのを引き摺っているらしい。
 眼をまっすぐに射貫いて見つめれば、怖じ気づいたように沢田綱吉は手にした花を震わせた。
「君は……。花の一輪で何が救われると思うんです? 僕が欲しいといいましたか? 何の役に立つと思います?」
 徐々に目も口も丸くなっていく。僕は、それをただ見つめながら、声の抑揚が激しくなっていくのを止めなかった。
「腹もふくれない。飾るための花瓶も場所もないし欲しくない、趣味じゃない。すぐゴミになる。ためにもならない僕のためにはならない! 何がいいんだ、花の何が!!」
「ご、ごめん」
 びっくりしながら沢田綱吉が叫んだ。
 僕だって混乱した。舌打ちしそうになったが彼は弾けた勢いに任せて尋ねた。
「じゃあ何が欲しいんだ?」
「…………!」
 本当に――腹がたつ! 答えは、六月九日がくる毎に知っている。
(何も!)
(いらない! 欲しいという感情は本当はどういうものかを僕は知らない)
(僕がしてきたのは他人の持っているものを羨むことだけ。そして彼らの持っていたものを手にするとき、僕の手には、それが盗品だという素っ気ない事実だけ。食べられるものはまだよかったが物や家や形を保って残るようなものは怒りを掻き立てる)だから僕の居着く場所は寂れた廃墟なんかで十分だ。汚くて掃きだめのような。捨てられた土地が!
 沢田綱吉は、何を変なふうに突っかかってくるンだこいつ――、そういう態度で僕の扱いに困っていた。
「小っちゃいものだから怒ったのか? そりゃ何のためにもならないかもしれないけど……、でも、もうこれを折っちゃったよ」
 僕だって扱いに困っていた。沢田綱吉はやはり死ぬほど嫌いだ、と、
「あ、でもさ、役に立ってるよ」
 怪訝に見つめてくる瞳が、ふとした閃きで瞬いた。ぱっと色が変わった。
 僕のオッドアイに彼の瞳が写る、その場面をありありとイメージできた。彼の目にオッドアイが宿っている。彼はもう一度、僕へと花を差し出した。
 一輪のかわいい花だった。綱吉は気後れした微笑みで小首を傾げる。
「骸が誕生日だって聞いてもオレにはなんもあげるものがなかったから。今、オレは助かってるよ。この花のおかげだよ」
(……)
 ――よりにもよって君が――。何も持たないと言う。
 よりにもよって君がそんなにバカで鈍感でグズでいると言う。
(……僕は、悲しいですよ。心から)
 沢田綱吉の笑顔をすぐそこにして僕は改めて不思議な気分になった。
 僕はたしかに幸せの形は知らなかった。
 けれど、不幸の形も知らないのかもしれない。不幸とは――、
 不幸なのは、むしろ、
(この子の方では?)
 冷静に考えたら沢田綱吉は不幸だった。
 彼は自分の不幸を信じないだろうが――信じられるだけの事実を知らないが、そして教えてくれる友人も持っていないが、僕はその事実の中で育ってきた。
 みじめだと信じていた。ずっとそれが許せなかった。けれど。
 今、冷静に考えれば、僕が恵まれない子どもであったという事実のみが胸に浸みた。航海日誌にこびりついた嵐の記録のように、乾いたシミ方だった。
「…………」
 風が通って花びらが動いたので視線を無理やり持って行かれる。
 赤く変わった光は山間にさしかかる。白い花弁はうっすらとピンクに染まる。やがて血のような夕日の色になる。
(……あぁ)
 やっぱり、嫌いではある。
 これは貫こう。
 それで何があってもこれから先に、僕が今年の誕生日を忘れることはないだろう。
 僕が花を受け取ると、彼は安堵して息を抜いた。
「沢田綱吉」
「ん?」
 期待と怯えをない交ぜにした眼差し。
 一輪の花は、茎が細くてまだ小さな子どもそのものに見えた。育ちが浅いのだ。
 僕はその茎をくるくると廻して花を踊らせた。
「男が男に野花をあげるだなんて、どんな神経をしてるんですか。君らしいと思うから甘んじて受け取ってあげましょう。二度目はありませんよ」
「二度目? 来年の話なのか」
「マフィアのボスなら金目のものくらい用意すべきでしょう」
「あ、あのなー。オレはマフィアにはなんないよ!」
 言いながら、彼は僕が踊らせる白い花をまぶしげに見やる。花ではなく彼を踊らせているような残酷な気分になった。
 頬の筋肉がやわらぐのも、感じた。
 ふっと思わず笑ってしまったのは僕にしても予定外ではあった。
「お花は、ありがとうございます。君の心のように真っ白ですから、できるだけ枯らさないようにしてあげるとします」
 眼を丸くしている彼を置いて仲間の元へと向かう。あちらから呼び止めがかかった。
「骸!」
「まだ何か?」
 彼が自分の口元に指をやっている場面だった。
 自分の声に驚いている。
「あっ……、あ、いや、なんでもないんだけどな」
 何か、言うことを考えるように眼をしばたかせる。結局のところ彼がやったのはくすぐったげに僕に笑いかけることだけだ。
「また会おうな」
「いいですよ」
 再会の約束に即答したのは、今までの人生で初めてのことだった。

 






>>>おわり