今日という日の不運について
「その万年筆、骸のものか?」
「――」
手が止まる。
それで綱吉が顔を強張らせたので、彼なりに気を遣っての発言であると――話題を探すべくした結果なのだと察知できた。
場を取り繕うような早口が聞こえる。
「あ、や、ジャケットから出したからさ、お前の幻覚の一部なのかな? って思ってさ、大したことじゃないよな」
「幻覚の一部ですよ」
ずっと昔、人から贈られたものだった。イメージが強烈で、すぐに思いつくのでよく具現化させてしまう。
(迂闊だった)
認めながらも、気のない素振りを心がける。指を開ければパッと万年筆が消え去った。
綱吉は目をまるまるさせる。
「……――」
オッドアイを細く歪め、睨み返す。
鳶色の眼差しに、ふわふわのクセっ毛にあどけない顔つき。中学生にしても幼さが目に余る。それでいてマフィアの期待の新星でもある男は、怖じ気づいたように目礼を送ってきた。
「ご、ごめん。気を悪くしたなら」
「勢力図ですが」
「あ。うん」
(いちいち――)
あ、とか、う、だとか、話し始めるまえに奇声がくっついてるのは何なんだろうか? クセか? うざったいものである。
内心で思いながらも、無関心を装って地図につけた丸印の意味を教えた。
家庭教師が納得する。
「なるほどな。やっぱ邪の道は蛇だな。ツナ、名前は暗記しとけ」
「えっ。ええっ?! ンないきなり言われても!」
「パエロのファミリーがイタリア警察に摘発されたのが三日前。このタイミングでイタリア一のボンゴレファミリーに小手先の抗争を持ちかけてくるなんて、パエロが引いた分のナワバリを確保したいファミリーだ。最大勢力であるボンゴレの目を反らしたいんでしょう。可能性があるのは、ココと、それとココ。状況から踏まえて――」
「マリオンは抜かしていいんじゃねーか?」
「会ったことありますか? 彼はなかなか大胆だ」
「会ったことあんのか」
「どうでしょう」
早口で交わされるキャッチボールに、綱吉は、ポカンとなった。
ソファー。家庭教師を右側、僕を左側にしているが、両者を見比べる。だが質問はしなかった。
黒曜ヘルシーランドである。
綱吉は、リボーンの薦めによってこの廃屋を訪ねた。ボンゴレに所属する――極めて有能な幻術師の手を借りたい、そう言って。
「きいとくが、テメーが仕掛け人じゃねえんだろうな? 六道骸」
「クフフフフフ……」
右手の指先を、下顎に宛がう。
「これでクロームをお預けした分は清算です」
黒曜制服。乗せていた右脚を降ろし、足組みを崩した。両膝に腕をかけ、両手を組む。
「もういいでしょう。情報はあげましたよ。出て行ってください」
客人のうち、外見年齢は高いのに幼い顔つきをしているほうが、赤ん坊を窺った。いいのかな? そういう目だ。
リボーンは、首を左右にさせた。ローテーブルに置かれたボックスを睨め付ける。
「まだだ。骸。本気でテメェが絡んでないと証明するため、筺を開けてみせろ」
「おやおや。あなたというひとは」
沢田綱吉が視線を戻してきたので、冷たく眺め返しながらも肩を竦める。
「君宛てのお荷物でしょう?」
「罠だかんな」
「断定しているのに僕に開けろと?」
「守護者だろ。テメーが志願してなったんだ。ボスの盾になるのは本望だろ」
「部下を守るのが沢田綱吉式のボンゴレファミリーでは?」
「え? あ、や、そう……なの?」
「開けろ」
リボーンが唸る。
ふ、図らずも卑屈な微笑みが漏れた。口に指の関節を当てて含み笑いは控えめにしておく。
「まあ少しくらいなら内容物を読み取れますよ」
「初めからそうしろ、ボケが」
「クフフ。つまらないじゃないですか」
え。え。自分がハメられかけていたのを理解してか、綱吉が青褪める。
沢田綱吉――、ボンゴレ十代目。中学生。十四歳。今の僕にとって、目下の標的である男だった。
(まったく奇妙な成り行きですこと)
今、こうしてヘルシーランドの自室にて彼ら二人と密談していること。
十代目の霧の守護者なんて引き受けていること。
自分の肉体は、復讐者のこしらえた水獄に捕らわれていること……。すべてが、だ。
肉体を取り戻すにはボンゴレファミリーの助力が必要かもしれない。キープしておきたい協力関係だ。ただし、僕の意向では極めて薄味なものが好ましかった。マフィアは好きじゃない。
テーブルでは、地図の向こうに、五センチ四方の小筺が置いてある。
宛先もなく送り届けられたものらしいが、これがもし僕にとって有益であれば、毒であっても綱吉に持たせるのが賢明だ。
手をかざした。
綱吉とリボーンが、注視している。僕も意識を集中させた。見た目は単なる黒筺だが、幻術がかけてあるのは明らかなのだ。
(筺を包んでいる幻術と、僕の幻術を拮抗させて、中にあるものを測量する――)
ものの一秒で、訝しく思った。
(? カラ?)
空振りする感覚があった。
次には、現実で変化があった。幻覚を侵入させてから一秒もしていない――つまりほとんど同時だった。
ジュウッ!
「うわぁああ?!」
それまで大人しかった綱吉が、真っ先に悲鳴をあげた。ソファーの背もたれに背中をぶつけている。
リボーンが飛び退くのも見えた、が。
僕が反応できていなかった。
「――」小筺から滲みでてきた黒煙が、かざしただけの指先にまとわりついて一瞬のうちに全身を舐めていった。波が砂を浚うように、ブワッと勢いよく。
刹那、見えない力によって弾かれていた。冷たい――鼻腔につんとくる饐えた臭い。くさい。
目を開ける。剥きだしのコンクリートに頬を寝かせて、倒れていた。
「骸っ?! 大丈夫か!」
綱吉が叫んでいた。
肩を揺すられているが、触るなとかうるさいとか言うヒマがなかった。身震いが走った。失態にはもう気付いていた。
これは――。まさか。
「そうか」
家庭教師が、雷に撃たれたかのような声をあげた。
「ボンゴレじゃねえ。ツナ、テメーじゃなかったんだ!」
「え、なにが。骸が動かないぞ?!」
「ボンゴレファミリーが狙いじゃなかったんだよ。六道骸に標的を搾ったテロ行為だ。しまったな――、オレらが敵に利用されたんだよ」
「利用っ? テロ?!」
素っ頓狂に叫んで、それから僕を見下ろしてくる。
「どうしたんだよ?!」
先程よりも強い力で肩を掴み、ふり向かせようとした。こちらで力を入れて彼の顔は見ないようにした。
「むくろっ――」
「へばったふりしてんなよ。毒か何かか?」
他人行儀ですらあって、家庭教師のは冷徹な響きが強かった。
が、それで顔をあげる気になった。やはりこちらの家庭教師の方が沢田綱吉よりも僕には話しやすい。
「違いますよ。……枷のようなものですね」
「テメーがボンゴレファミリーにいるのを知っている人間がテロに絡んでるってコトになるが、異論あるか?」
「おい、顔真っ青だぞ、おまえ」
話しかけてくる綱吉は無視して、上体を起こす。リボーンに告げた。
「マリオンだ。マリオンはボンゴレファミリー内にスパイを持っている」
「そうか。そりゃーあ初耳だナ」
半眼になって、家庭教師は鼻を鳴らした。初めから素直にしゃべりゃあいいんだよ、などと呻く。
復讐者の水獄に捕らわれてから、以前よりも情報収集にかける時間は長くなった。僕はボンゴレが思う以上に情報を持っている。
(基本だ。僕たちが生きていくうえでは情報が何よりも重かった)
話している合間にも、綱吉はいちいち驚いた。
「裏切り者がいるのかっ? ボンゴレファミリーにっ? えええっ?! って、おい! 骸は立ってて大丈夫なのか――、リボーンはどこいくんだよ?!」
「ツナ、お前のケータイ骸に渡しとけ。もうちょい情報が必要だが、そいつも直に喋りたくなる。オレはちょっくらイタリア。すぐ戻る」
「イタリアってすぐ行って戻ってこられる国だっけーっ?!」
ソファーに体を投げて座り、汗ばんだ体を慎重に上下させて息を吸う。視線を感じる。俯きながらも、目玉だけ持ちあげて、リボーンを見据えた。
「一個だけ聞くぞ。マリオンに恨み買ってンのか? 六道骸」
「ランチアがいたファミリーの……、ボスの親戚ですよ。奥方の弟だったはずだ」
「なるほど。奥方は?」
「殺した」
「なるほどな」
沢田綱吉は信じられないように家庭教師を見つめた。平然と何を話してるんだよおまえら、そんな心の声が顔から読めてしまった。彼が出て行くと、青くなった面輪で僕をふり返る。
別に、何かを言うつもりはなかった。
無視を――貫こうと思う間もなく視界は蠢いた。よろけて、額を手で抑えて、はっとすると綱吉が傍にきていた。
「……だ、大丈夫じゃなさそうだな。おまえ。枷って具体的に何がどうなってるんだよ」
不安げな瞳が、上に八の字に歪んだ眉根を貼りつけて、僕を観察しようとする。
鳥肌が浮く寸前まで胃袋が競りあがったのがわかった。内臓の動きが痛い。苦いモノが昇ってくる。
「……っ」
「骸。どうしたんだ?」
じ、と、おっかなびっくりに見つめてくる。
「交替が」
思わず言葉が上滑りする。
綱吉はギョッとした。
「クロームに戻れなくなったのか?!」
「…………」
舌打ちしそうになった。黒煙が出てきたときも、倒れたときもまだ冷静でいられた。ということは、じろじろと見てくる沢田綱吉が気に食わないのだろう。
顔をそらし、男の肩を押しやった。
「お、おい。骸? クロームに戻れないのはやばいだろ。どうするんだよ」
「ケータイ貸しなさい。僕は君んとこの先生に話をしますから」
彼が恨めしい。沢田綱吉と二人きりにしたのは、恐らくワザとだ。
僕がこの子は苦手だと見抜いているのだろう。
「君はもう帰宅してください」
「んなっ?!」
男にしては大きい目が、ますます膨らんで天井から降りそそぐ光を集める。その光は僕には眩しかった。
「お、おまえな。人が心配してんのに」
「クフフ。そういうの、いりません」
こめかみに脂汗が滲んでくる。息が荒くなるのはこらえた。
「ちょうどいいでしょう? このトラブルは解決しておきますから。君はもう無関係――」
「クロームに憑依しつづけるのはムリだって前に言ってなかったか? 負担がでかいんじゃないのか、今も」
「どうにかできますから」
突き放しにかかる。綱吉が口ごもった。しかしその眼差しは持ち上がる。
髪のつけ根のあたりが湿ってくる。体は熱くなった。息もあがる。そう長らくは実体化ができない――、精神に過度の負担がかかる。事実だった。
(クソ。昨日のが不味かったな)
クロームの体に憑依した。千種と犬にはボンゴレファミリーの監視を任せていたから、綱吉たちが未来に行っている間、こちらの世界ではどう扱われていたのか報告を聞いておこうと思ったのだ。ボンゴレファミリーも十代目たちが姿を消して右往左往していたようだが……。
(…………っ)
何か言われているが、よく聞き取れなかった。眉間を歪める。綱吉は目を丸くしてジャケットに掴みかかってくる。ソファーに背中がこすれ、ぜえぜえと体は弾み、身動きがろくに取れなくなったところで額に手を当てられた。
「おいっ。なんでこんなに冷たい――」
重力に引かれていって、ソファーのスプリングが軋むのを聞いた。
体の下にやわらかなものがある。
落ちる――。
予感が現実になる前に、背中を抱きしめる腕を感じる。悲鳴がする。
「骸っ。わ、やっぱり消耗が激しいンじゃないかッ。って、お、重い……、お、おーい! 誰かーっ!! 骸が…!!」
何が起きているのか、理解するべく動員した脳回路は鉛の鐘によって掻き消された。ガンガンと響きわたる。額や頬をさする誰かの手が絹のように柔らかくて、暖かくて、そちらに僅かに残っていた意識が吸い取られた。
抱きしめられている。闇が広がった。
知らない臭いがする。目をあけてすぐ、男と視線がぶつかった。
「う」
男が気まずげに呻く。
「何のマネですか」
自分の声は憐れにも枯れていた。眉を寄せる。
沢田綱吉は、僕を覗きこんできながらも冷や汗を浮かべていた。ネクタイは外した、制服の姿だった。何度も瞬きを繰り返している。
両手では濡れタオルをつまみ、額に乗せてこようとしていた。
「ご、ごめん。垂れたか?」
左目の下に違和感がある。水滴。
「熱でてきたみたいだったから……。氷当てた方がいいのかな?」
言い訳のように呟いて、綱吉は洗面器のうえでもう一度ぎゅううとタオルを搾った。
臭いは馴染みないが、見覚えはある。沢田綱吉の寝室だ。ベッドに寝かされている上に服も勝手に替えてある。だぼついた黒Tシャツに短パン。沢田家光のものだろう。
「ここのが安全だろ?」
べとん、まだかなり濡れている気がするタオルを額に載せられた。
「…………」
息をすると、胸が上下に動く。これが痛むので慢性的なダルさがあった。体が熱くて節々は軋む。
なんで沢田綱吉のベッドで……。
「犬が?」
「うん。おんぶしてくれたんだぞ」
「なぜあの二人が」
「? 千種と犬さんが? だから……、安全だろ? こっちの家のが」
当たり前のように、彼は言う。
理解できるような、理解したくないような相反したものを味わえた。苦い。
こちらの苦い顔に驚いて、綱吉は慌てて言った。
「母さんが今いなくてさ。でも放っとくのもさ……、な? 目が醒めたなら何か食べるか? インスタントのスープならすぐできるんだけど」
眼球だけをずらす。綱吉の後ろ、壁にカレンダーが掛けてあった。ホコリを被った書棚に、学生カバンに……、僕の知らない世界が見える。
「六月九日か」
うんざりとできて、溶けるような酸味を強く感じた。口の中がまずい。
「この日はいやなことばかり起こる……」
「? お前、何言って……」
細くうめいただけの僕を見下ろし、それから顔をあげる。
顔だけでカレンダーをふり向いた。
くすり、彼は唐突に笑んだ。彼の血筋が持っている超直感とやらを思いだす。予感が悪い方面で当たった。
「まさか、今日が誕生日とか? 骸の名前に似てるよな。この日。六月九日――」
「そうですよ」
「え」
「僕が捨てられた日だ。研究員が、僕を拾った日から、今の骸という名をつけた」
日系イタリア人でしたよ。無感情に付け加えていた。熱っぽい体の奥で、心臓が冷えていった。
驚いたふうにビクリとしてから、綱吉は怯えた声で呼びかける。
「むくろ……?」
嘆息は、気遣いを含んでいた。
「ほ、ほんとに? 今日が?」
「寝ます」
「あ」
頭を寝かせて、綱吉がいない方の壁を見つめる。
気まずげな沈黙が濃厚に漂いはじめた。できるだけ、声もださず、できるなら死人のように寝入りたかったが体がそうさせてくれなかった。はぁ、は、息が荒れる。肺から喉に直結している呼吸が痛い。消耗が激しいのだ。
綱吉は、しばらくは呆けていたらしいが、やがて肩を触ってきた。布団を掛け直す。
「――寒くないか?」
「……」
臓物が、ピリッと胃酸にやられるのを感じた。
これでも僕はずぶとい方だから、沢田綱吉がよほど無神経なのが悪い――、彼はとろい発声で大事そうに喋る。
「あったかくしたほうがいいよ。布団、もう一枚もってくるよ。待ってて」
五分もせずに、体の上に重みが追加された。確かに一気に温度が高まったが。心は寒々しい。僕がこのガキに顔を向けて寝てたなら、彼もこんな愚かなことしなかっただろう。
頭痛が始まり、心臓を起点とする身が痺れるような痛みが全身を巡り回った。吐き気がやまず、微かに震えていると、膝立ちで覗きこんでいた綱吉が顔を近づけてくる。左耳のうえのほうから、優しい声が聞こえる。
「骸。もう少しだから。リボーンに情報を渡しただろ。アイツならすぐにやっつけてくれるよ」
(世話には――)
ならない。なりたくない。言いかけた言葉は苦く呑みこんだ。
理性ではわかっている。利用できる状況だ。利用したほうがイイに決まっているが……。
「……調子に乗らないことですね」
苦渋で濁った呻き声が、出た。
こだわりなく頷かれる。
「わかってるよ。寝ていいぞ。おれ、みてるから」
心臓のあたりを抑えるべく、布団のうえに出ていた手に――何気なく綱吉が手を重ねた。
「冷たいし、震えてるよ。苦しいんだろ?」
「…………」
「手、握ってようか?」
いたわりに満ちた問いかけが内臓を握りしめる。改めて肩越しに目をやれば、彼は慈母のような表情を浮かべていた。眉は苦く歪み、気遣いの色にぬれる。
自然と、ため息がこぼれた。
「くはっ」
目をあわせてはいられない。たまらない気持ちになった。
「なんて……わかりやすい、同情、ですか」
今まで――、何度も、感じることはあった。けれど耐えた。沢田綱吉は利用価値のある相手だ。彼に本心を告げるのは不適切で考えナシの愚行で、頭のいい行為ではない。
けれど、打算を上回って、これだけは言わねば死ねないという気になった。
例えばこの呪いで死ぬとしてもこの誤解だけは許せない。つまり死んでも許せない。
「沢田綱吉……」
「ん?」
彼は、いかにも親切そうに微笑み、僕の口唇へと耳を寄せた。
病気の子どもから何かを聞こうとする母親はこんな態度なんだろう。僕だって、昔は犬や千種にそうした振る舞いをしただろう。加速して胸の痛みが重くなっていった。
鼻先に、柔らかな毛がかかる。沢田綱吉に臭いに満ちている。顔を歪め、呻いた。
「死ぬほどあなたが嫌いです」
目のきわに、熱い何かが滲んだ。悔し涙がでるほど誰かを憎く感じるなんて初めてだった。この男はしょっちゅう誰かのプライドをズタズタに壊していく。しかも無心で。
>>>もどる