不幸における連鎖反応について
官能的なメロディに乗って両腕をしならせ白鳥のように羽ばたかせる。かと思えば両腕で円をつくりくるくる回転させる。すべてつま先立ち、ガニ股で。
「うはははははははは!!」
ランチアにやらせるタンゴで、犬は腹を抱えて転がった。
傍らに収る千種も口元に手をやっている。涙目で肩を揺らしていた。彼らは汚れたシャツに短パンの姿であるが、僕はといえばそもそもの素材からして違うものを身につけている。
品のよい純白のシャツに、サスペンダーをまわし、半ズボンを留めている。ぱっと見は良家のお坊ちゃんだ。
もとから、ハッキリ言えば容姿はいいから、身なりさえ整えば僕はどこぞのご子息で話を通せるのだ。
廃屋の中央でランチアは似合わないタンゴを踊る。
僕の兄貴分にあたる男だが、本人もそう自負しているが、所詮はマフィアだ。僕の計画では足がかりに過ぎない。だから、こうやってヒマ潰しのオモチャにはよく利用させて頂いている。
「クフフ。今年はもっといいのも考えておきました。さあ……」
千種が音楽を変えるのを横目に、ぱちん、指を鳴らす。
「ランチア、踊りなさい」
かんかんかん、管楽器のリズミカルなメロディが広がる。ランチアが両手を叩いた。激しく体を揺すり立てながら腰をくねらせてランチアが蛇行をはじめる。
「ブフーッ!!!」
犬が、オレンジジュースを噴きだした。
千種の目尻がぴくぴくする。
「サンバですか」
「くははははははははは。くっ――、クハハハハハハハ!!」
「ギャハハハハハハハハハハハハハハ!!」
観客席たるソファーで転げまわる僕らに釣られて、ついに千種もブッとほっぺたの空気を噴かせた。それからは三人でお腹がよじれておかしくなるほど笑った。面白すぎて苦しくなるから、サンバは何度か中断させた。
「さ、サンバサイコーッ。たまんねえーびょん!」
「クフフ。ランチアはサンバの似合う男ではありませんか……ぶフッ」
破顔を手で抑えて、こらえる。
犬が直立中のランチアを指して興奮した。
「コイツがよそ行きのスーツなんか決めてっからよけーにオモロぇびょん! ギャハハハハハッ」
六道輪廻のスキルにより、ランチアの意識は奪ってある。今は立てかけてあるマリオネットのような存在だ。
意味の違う、くすっとした笑いが自然にこぼれた。思いだしてしまう。
――今日が誕生日だと?
――そうだったのか……。そうか。よし、おごってやる。今からランチにいこうぜ。
そういって僕の手を握る。
自称・お兄さんは、こんな辺鄙な廃屋でまさか弟分だと思い込んでいる少年に操られてタンゴやサンバを強制されて笑いものにされてるなんて……、思いもしてないだろう。
「くふふっ……、他人の親切を踏みにじるほど愉快なコトはありませんね。僕はランチアほど滑稽な男知りませんよ。クフフフ」
胸に、染みいるような高揚感が走る。いいざま。いい気味だと思った。
エストラーネオの研究所を飛びでてから数年で、思い知ったことがある。
他人の不幸が、僕は大好きだ。
神さまがいるとすればザマァミロというもので、僕はいくらでもツバを吐ける。
「へっへっへっへ〜。へへ。オレの誕生日にもよろしく頼むぜ、ランチア!」
「おれも」
「ええ。くふふっ。だーい好きですよねぇ? ランチア、曲のリクエストはお前の得意とするところですもんね」
機械人形と化した親切なお兄さんは、無表情で顔をあげる。ピースサインを作った。
それで、犬がまたブッと噴いた。ジュース缶を握りしめてソファーを叩きまくる。
「ま、まじサイコーれす! うひゃひゃひゃひゃひゃ」
「骸さん? そろそろ戻るんですか」
「はい。足りない台所用品でも買ってはやめに帰宅する。よくできた小間使いでしょう?」
廃屋には窓があるが肝心のガラスがないため、緑の枝葉が室内に入ってきている。太陽の高さを推しはかって、取れかけのドアを潜ろうとする。
すぱーん! 唐突に、クラッカー音が響きわたった。
銃声かと思って右目に手をかざしかけ、て、ふり返ると目が覚めるような満面の笑顔があった。犬が、両手を合わせて六つものパーティクラッカーを握っている。
それの発射口を僕に向けてヒモを抜いて、火薬の匂いが漂った。
「なっ……」
「ひょへひょほうひょひゃいま!!」
クラッカーのヒモは、歯で噛んで抜いたらしかった。
蜘蛛の巣を浴びたみたいだ。カラーテープが腕に絡みついた。
「おめでとー!! むくろ!!」
「誕生日おめでとうっ!」
「な。なんですか?」
驚いていると、犬は泥のついた何かを――真っ黒いボディの万年筆を差しだした。
今までにない行動だった。面を食らい、火薬臭にいまさら眉を歪める。マヌケな質問をしてしまった。
「ぼくに?」
「いつもお世話になってるお礼だびょん。ここでの暮らしも長くなったしー。なんかしてぇよなって、今年は! これなら骸にも似合うだろ!」
思わず、千種を見返す。
メガネの奥でしきりに恥じらっていた。
「犬がどうしてもやりたいって言うから……。骸さん、すみません。よかったら受け取ってやってください」
「…………」
万年筆と犬を見比べる。
ふしぎな――、胸を子猫のツメにでも引っかかられてるような、かゆい気分がした。
なぜだか犬と千種の目を見ていられなくて視線を流す。使い古したソファーには、チップスやポテトや、パーティの名残が散らばっている。
「お菓子はランチアに買わせたんですよ。僕が、食べたかったから……です。サンバを踊らせたのも僕が見たかったから、だけです」
「これ、むくろがもったらカッコイーびょん。どっかのお坊ちゃんだぜ。骸に似合うと思ったんら!」
「骸さん……」
期待をこめて僕の名を呼んでくる。
――奇妙だ。奇怪だ。
そうは思うのに、誕生日にこんな……、混じり気のない気持ちをもらったのは初めてだって事実を思いだす。
今まで六月九日を特別に感じたことはない。
テストがあって。チョコレートを貰って。でもこれも昔の話だ。
犬の手は汚れていた。この手が死体を漁ったり生肉を掴んだり、土を掘り返したりしているとは知っている。
でも、彼の手のうえにある万年筆はつやつや光っていて美しかった。
「……そこまで言うのなら。ありがたく頂戴しますよ」
「使ってくれびょ〜ん」
「骸さん」
本当にうれしそうに歯を見せる。僕の歯切れの悪さなんて気にしていない。
受け取った万年筆は胸ポケットに挿した。
「誕生日おめでとーっ!」
「おめでとうございますっ!」
拍手が、広いだけの寂れた空間にこだまする。
思ってもみなかった単語が、僕の唇からするりと抜けた。まだ彼らの目は見られなかった。
「……ありがとうございます」
こんな言葉、僕も知っていたのか。演技ならいくらでも言えるが、六道骸として喋るのは気がひけた。別の名前があればまだいいのにと思える。
見れば見るだけ、万年筆は質のいい高級品に思えた。犬が持ってきたものだからそんな筈はないのに。
なんとか微笑みを作る。演技でもなく笑うのは久しぶりだ。
「へへっ」
犬が、鼻を啜ってニヤつく。
「大事にしますよ」
「へへへへっ」
なんだか不慣れな空気が漂っているから僕はそれからすぐ廃屋を出て行った。ランチアが後ろについてくる。こいつは、金魚のクソだ。
憑依弾と六道輪廻の瞳を使いこなすようになってから、色々と考えた。まずはマフィアのボスを乗っ取ろうと決める。
彼らは、裏社会を牛耳っている。それで表社会へのパイプも強い。
(僕のスキルなら潜り込める。でも、ここのファミリーはダメだな。弱すぎる。もっと大きなマフィアのボスが欲しい)
ランチアの利用は楽だった。僕は子どもで行儀もいいから殺人が横行しても疑われない。
表向きは、行き倒れていたところを拾ってもらえた恩義を返すために働いている――、将来の幹部候補生だ。
くだらない。
でも、仕事は完璧に。目的のためだ。
だからその日も急な行き先を頭文字だけメモに取るため万年筆を取りだした。
「わかりました。トリオに受け取りの場所変更を伝えてきますね。ナポリの噴水前ではなくて……」
キーワードの頭文字だけメモに取る、僕にはそれで充分だ。
と、妙な空気を感じた。
「おじさん?」
ローマ神殿のような豪華な柱の立った玄関口である。屋敷は広いが、昼間で、人が出払っているので僕と相手の二人だけ。
眉をひそめて、怖い顔になっている。
(なんだ?)
「おじさん。ぼく、間違えちゃった?」
小首を傾げて、まつげの動きを意識してぱちぱちさせてみる。
赤と青のオッドアイは気味悪がられることも多いが重宝されることも同じぐらいある。
僕が可愛らしい振る舞いを心がける限りは、大人達は生きた宝石だといって賛美する。その輝きは効果的だった。
「あ、いや……」
向こうは、言いにくそうに口を窄めた。
「おい、骸。ちょっと見せてみろ」
「わっ?! い、痛いよぉっ」
僕の右手首が力任せに捻りあげられた。
「……やっぱこりゃシガロ製だぞ!」
万年筆に硬い眼差し。
イヤな予感が、ぞわっと胃をあがる。彼は怒り出しながら喋る。
「ボスの書斎にあったやつとまったく同じだ。ボスはなくしたんだぞ。なんでテメーが持ってる!」
「――……」
(あいつ)
犬の――笑顔が――サッと目蓋のうらを駆け抜けた。瞬間的に目の乾きを感じた。視界は赤くなっていった。
ドクンッ! 心臓の代わりに、右目が高鳴った。
「盗んだのか、骸!」
右手首から引き摺られていく。足の裏に力を入れたが、抵抗しきれない。
(なっ――、いいわけ――を)
いや、……でも急がないと、時間がない、こんなふうにミスするなんて。
頭が沸騰して何がなんだかわからなくなった一瞬に、思いっきり、男の腕に飛びかかっていた。噛みつく。ギャッ、悲鳴をあげて男が腕をふるい、投げられた。
ズダンッ!
着地を見事にこなした、その体の使い方を目撃して男の目が丸くなる。
その驚愕を目撃して僕も決めた。万年筆を逆手に握る――、相手は恰幅のいい成人男性だ、マトモに組み合ったら殺される!
「っっ!!」
男の口にぶんっと左腕を喰わせて、悲鳴を封じて、絶句しているうちに左右の目に万年筆を突き立てる。左腕から焼けるような激痛が走った。
「――――ッッッ!!」
格闘スキルによって得た腕力で、ふとももで挟んだ首をへし折りにかかる。
死体が、足を崩した。
歯形の後から血があふれてくる。左腕を庇うと、真っ赤に染まった万年筆がカランッと音をたてて転がった。
「……ハァッ、ハァッ、ハァッ」
肩での荒い呼吸を繰り返す――僕だって目玉が取れそうな気分だった。
「きゃあああ!」
「!!」
女の悲鳴がするなり、僕はその女――メイドに向かって駆け出した。
「お前が殺した!!」
フリルのついた胸ぐらを掴み、罵倒する。
女の青い瞳は右目に釘付けられている。六の痣字は女の脳を狂わせる。三叉の剣で背中から傷をつけた。
廃人と化した、呆けた面持ちで女が座りこんだ。僕はもう玄関を飛びだして門をくぐり、一目散に森へと入っていった。拾った万年筆が血でぬめる。
「――――犬!!!」
ガラスのない窓から飛びこんだ僕に、ソファーでゴロ寝していた少年が跳ね起きた。
「えっ? む、むくろ?!」
僕の姿に、驚いている。
体中が枝によるひっかき傷だらけ、髪もボサボサで足は跳ね返りの泥だらけ。品のいいシャツもズボンも台無しだ。それで血相を変えて突き進んでくるので恐怖心を覚えたらしかった。
逃げようとする相手の髪を鷲掴み、床に引き倒した。
「この……ッッ」
今までに感じたことのない種別の怒りが、腹の底で――マグマの噴きだまりと化していたのは走りだしたときから感じていた。でももはや殺意だったのかもしれない。罵詈雑言しか出てこなかった。
「駄犬が!! ふざけんな!! 僕の顔によくもドロを塗ったな!! キサマッ――駄犬の分際で!!! もう少しで何もかもがムダになるとこだったじゃねーか!!!」
誰か、罪をなすりつける相手がいなかったら僕の考えたことが何もかもムダになった。それどころか命を落としていたのは僕だ。今になって体が震えた。
「ふざけんな!!」
拳を固め、力の限りに頬を殴る。犬が何か喋った。それでも殴り、顔面だけを狙い続けて、人の顔なんて簡単に変形するんだと冷静な部分が失笑した。
「うぐ、がっ!」
膝でも立てなくなったのか犬は蹲ろうとする。その髪を掴んで殴った。犬に手をあげたのは初めてだったとか、こんな凶暴な性質が僕にあったのかとか、そんなこと総てどうでもよくて拳をふるった。
「死ね!! 僕の足を引っ張るなら今すぐ死ね!! よくも――よくも僕の邪魔をッ――自分が何をしたかわかってるのかァ!!」
「む、むぐろじゃ――ぐえええ!」
「ふざけんな!! 全員死ぬとこだったんだぞ!!」
手が腫れてくると、足を使った。連続でボロ雑巾にやるみたいに蹴りつけて、踏みつけはじめたころに肩を羽交い締めにされた。千種だ。唇を真っ青にして泣いていた。
「け、犬が死んじゃう」
「……千種ァ!!」
ドスの効いた怒鳴り声に、千種は口をぱくぱくさせる。手を離して、後退りした。その胸ぐらを殴りすぎで腫れて血の滲んだ両手で掴み挙げた。
「僕に隠れて様子を見に来ていましたね、ファミリーの邸宅を覗いたんだろう!!」
「そ、それ……は……、っ!」
「みろ」
血でどろどろの万年筆を突きつける。メガネを叩き割って刺してもいいと思った。
「ボスの書斎から盗まれたものだ」
「――えっ?!」
心底からギョッとして、千種は倒れている犬をふり返った。
「ま、町で、盗んだものだって聞きました――」
どっちにしろ盗品かよと怒鳴りたいのをこらえて、犬の腹にさらなる蹴りを叩き込んだ。
「いい加減に――してくれませんか?! 躾のなってない駄犬ぶりにはうんざりだ!!」
「ぐえええっ! うわあああ!!」
犬が大声をあげて泣きじゃくる。うるさいのでさらに蹴った。
「む、むくろに似合うのがぁ、じぇんじぇんないからっ――、ぼ、ぼすの部屋のあるもんならっっ。どんなのでも骸に似合うと思ッ……、うえええっ」
「それで僕の計画を潰すのか? 僕を殺したいのか?! 何なんだキサマは!!!」
「うええええええ!!」
めちゃめちゃに蹴りつけながら、頭の中が真っ白になった。手も足も痛い。殴っているところが出血している。耳鳴りが酷い。
(……くそぉ!! クソがあああ!!)
ワケのわからないものが頭を占領して目の前は暗くなる。腹が立って、立ちすぎて、でもぶつけどころが納得できなくて荒れ狂った。
「クソ! クソ!!」
よくみれば靴に血がついていた。犬が鼻血を出して折れた鼻を押さえている。
「クソが!!」
どうでもよくて蹴り続けた。
千種が、棒立ちしながら震えている。靴のなかがジンジン痺れてたまらない。犬の鳴声がこだました。
息づかいは意外と廃屋に響くものだった。死んだように動かない犬を横目に、ソファーに腰掛ける。
「…………っ!」
はぁはぁと息を整えた。しばらくすると千種がおっかなびっくりに手当てをしてもいいかと尋ねる。
「好きにしなさい」
不機嫌に言い捨てる。安堵した顔で、千種が犬に駆け寄った。
(……クソ!)
無性にやるせない。怒りはちっとも収っていなかった。
ただ、暴行の途中から理性が発するシグナルには気づいていた。落ちつけ――、僕が冷静でいられなかったら、僕も犬も千種もあっという間に死んでしまう。
(……殺したいワケでも死にたいワケでもない!)
体中が、どくどく脈打っている。
殴り続け、蹴り続け、そのせいで僕の体にも新鮮な痛みが強く残っている。顔を手でおさえてどれほど考えあぐねただろう。
視線を感じる。犬だった。床に転がりながら、人相が変わるほど腫上がった顔をうごかして喋った。
「ご……べんばばい……」
「……」
ごめんなさい。謝罪だ。
「わかれば、いい」
重い……、溜息が重くて、僕の魂まで沈むのがわかった。
少し考えた。できるだけ、もう、怒ってはいないのだと犬にもわかる声を意識した。優しく語る。
(今のままじゃダメだ……。言葉を。言葉もそうだ。僕は人に丁寧に接する。これが僕だ。生きるためには、何がなんでも、変えていかなくては)
「――次からは、お金で買ったものを人にプレゼントしてください。盗品は禁止です。盗品をあげたら失礼でしょう? 少しだけ、おこづかいをあげます。千種。君と共同だ。二人でやりくりを考えてみてください」
「は、はい」
千種が目を丸くする。
この子と一緒にやれば考えナシの犬でもうまくできるだろうし、学べるはずだ。
そんなことを考えて、まだ二人とは六道輪廻の――三叉剣の『契約』を交わしていないと気づいた。
その夜、僕は二人に契約を告げた。
(……殺人現場を見てしまった。呼出されて玄関にいったら血の海を踏んでしまって、すでに男は死んでいて……)
シナリオを作りつつ、通りを戻る。
今のファミリーは、市街の真ん中に根城を構えている。
(怖くなって逃げて……、動揺してテリトリー外を走っているところ、他のファミリーに捕まってしまった。やっと逃げてきたんだ)
体は内も外もぼろぼろだ。不自然のないウソを……、と、見慣れた月を目に入れながら思案していたときだった。
「ママ〜」
脳天気な声が聞こえた。
子どもだ。後ろから、ピンクワンピースを着た幼い女の子が靴を鳴らして歩いている。
花束を持っていた。
赤い、血の鮮やかな赤い色だ。反対側の通りにいる母親と彼女は、血のようだなんてモノの例えは絶対に考えないだろう、幸せそうに笑っている。
「パパ、喜んでくれるよね」
「ええ。きっと喜ぶわね」
僕の足が止まる。親子は、もちろん、僕の動きは注意していない。
「…………」
夜道に人気はなかった。犬を殴りまくった右手も左手も、まだ腫れている。あのガキは誰かを殴る経験もなく大人になるのだろうか。
なんとなく――後ろめたくなったのだと、帰宅してから気付いたが――半ズボンのポケットに両手を入れた。醒めるのがわかった。
(ああ……。僕がマヌケだったんだ)
みじめさで腹立たしくなる。どす黒いものが渦巻いた。産まれてきただけで幸福そうな子どもとか、それを喜ぶ親とか、僕は見たくないのに。
(一時でも喜んだのがいけなかった。喜ぶんじゃなかった。犬が……、あんな高級そうなものを正しいルートで手に入れたワケがなかった。あの場で問い詰めなくちゃあ。キチンと考えれば推測できたはずだ。僕の甘さが招いた失敗だったんだ)
どうして、あんなに酷いことが犬に出来たのかも理解できた。僕はろくでもない人間だったのだ。僕は、彼らにだけは優しくできているから、環境が悪かったのかと思っていた。勘違いだったんだ。
(生まれてきて不幸……)
風が乾いていて、饐えたものを感じた。
(どうして生きてるんだろう? 何でこんなに精一杯に生きてるんだ。なんで切羽詰まってるんだ)
いいようのない閉塞感で喉がつまる。胸の血は止まる。
こんな問いかけ、僕が窒息しそうになるだけで、本当に意味がなかった。
「くだらない、ですね」
反吐がでる。自然と声がでた。
(どうかしてる。死んだらそこまで。それきり。簡単な話なのに)
僕は――、限界までやってやろうと思えた。不幸になる人間が世界にあふれて、何百人も、何万人も、この世界がすべて無くなれば苦悩も終わる。
固唾を呑んだ。喉がゴクンと言った。
犬のことは、しばらく忘れていよう。でもしっかりと躾はする。僕が手綱を握る。あれはそれが必要な子だったのだ。
(そうだ。言い訳も必要だが、金策も必要だな……。ランチアが僕にくれる駄賃では足りない。仕事を探すか、それか――)
「お花きれーい」
「そうねぇ」
「パパー、お誕生日おめでとうってー、びっくりさせるの。あたしがいうの!」
「そうねぇ」
(それか――)
親子の背中に送る眼差しが、冷え冷えしていくのを心から感じる。
自慢話は嫌いだ。幸せの自慢なんてもってのほか。
「…………」
他に誰かの気配はなかった。
道路を渡った。角を曲がろうとする親子を、人なつっこく呼び止める。
「スイマセン! あのぉ、つかぬことをお伺いしますが、この近くにある叔父さんの家を探してでですねえ……」
「あら……」
にこやかに女が笑い返す。いかにも申し訳なさそうに、道がわからないのだと告白してみせる。それから僕らは角を曲がった。
悲鳴はなかったが、僕は、角を出てくるなり汚れたサイフをポケットにねじ込み、花束は道路に叩きつけて捨てた。
「……フン」
赤い花は、血で染まっても赤い。
どうやら僕は世界中が憎くて仕方がないらしかった。
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